エホバの証人2世信者だった時に最もしんどかった事
そもそもエホバの証人ってどんな感じ?
わたしは物心ついた時からエホバの証人という宗教の2世信者として育てられ、
だいたい二十歳過ぎくらいに脱退した。
エホバの証人という宗教はまあとにかく色んな事がご法度だった。
まず子供にとってのイベント事はほぼダメ。
お正月、バレンタイン、ハロウィン、クリスマス…と考えうる季節のイベントは勿論のこと、
校歌を歌うのも、大抵のマンガやゲームもダメ。
誕生日にいたっては祝うのも祝われるのもダメ。
なんでもイエス・キリストですら誕生日を祝われていないから、罪深いわたしたちが祝うのはダメなんだそうだ。
当時は「まあそういうものかな」と思っていたが、
今にしてみれば定義付けが曖昧すぎて「なんじゃそら」という教理だ。
イエス・キリストが食べた事のないラーメンをわたしたちが食べたら教理に反するんだろうか?
一番しんどいのは、運動会の応援合戦だった
ダメ、ダメ尽くしの教理のなかでも、一番しんどかったのは運動会の応援合戦に関する"ダメ"だった。
特定のチームの勝利を願って行う応援合戦は当然のごとく(何が当然なのか分からないが)教理に反するそうだ。
かといって運動会を欠席する事は信仰の試み(?)から逃げる事になるので許してもらえず、
皆が一丸となって応援歌を歌い振り付けを踊っているさなか唇を一文字に結び棒立ちしていなくてはならない。
あまりにも異様である。
一応事前に担任には説明しておくのだが、説明の際に「親にダメと言われて」と言ってはならないと念を押されるので、これがまた非常にしんどい。
あくまでも”自分の信仰心から”応援合戦に参加しません、という説明を大の大人相手にしなければならない。
小学一年生が、である。
それをしたところで当然事情を知らない応援団や他の先生には都度怒られるし、
あまりにも目立つので好奇の視線は避けられない。
勿論それが原因でいじめられる事もあった。
もしかして、それこそが狙い?
この一連のイベントが苦痛過ぎて子供の頃は”エホバの証人しかいない学校”の存在を心から望んだものだ。
しかしこれこそがエホバの証人という組織の意図するところかもしれない、と大人になってから思った。
小さい子供が学校で奇異な行いをすれば、少なからず嫌な思いをする事になる。
それでも、信者である親や宗教組織の人々は「よくがんばったね」「エホバ喜んでるよ!」と、口を揃えてその行いを褒めてくれる。
子供にとっての社会は狭い。
学校というコミュニティで孤立すれば、受け入れてくれるのは親と、宗教組織のコミュニティだけになる。
これを意図して子供世代に様々な制約を課しているのであれば、なんてエグい教理だろうか。
脱退してからだいぶ経つので最近の事情には明るくないが、
このような思いをして育つ子供が増えないことを願うばかりだ。
読んでくれてありがとう。
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