はなむけ
今日、白い百日紅が咲いていました。涼しい風を探しながら歩いた十五分先に、雀避けの凧と、田を渡る夏風と、あの不思議な香りのする、白い花が咲いておりました。
詩を描くんでしょう。あなた、詩を描きにいくんですね。私はまだそちらへは行かないけれど、行くつもりも決心も準備もせずに背を向けて、この世界を卑屈に見つめているだけですけれど。今日、あなたが詩を描きにいくと聞いて、なんだか書かなくてはと思えたのです。
詩を描きにいくなら、安心です。自分に、他人に、景色に、季節に、色に、風に、音に、心が揺れるのは、あなたが詩書きだからです。心が揺れるその間、苦しみと、悲しみと、寂しさと、先の見えないあの静かな恐怖と、向き合って描いていくんでしょう。それなら、安心です。
変わらないでほしいと、願ってしまうとき、私は初めて自分を愚かだと思う。愚かな自分に初めて気づく。そして、そんな自分に変わらないでほしいと願う。私はどこまでも愚かなのだと、やはり思う。
それでも知らない家の庭木の百日紅は、いずれ散り、いずれ葉を落とし、いずれ枯れ、いずれ姿を消してしまう。私は詩書きだから、それを美しさと知っている。美しさを求めつつ、その先の完全な美を欠けた自分の一部として、幼子が母を探すように、少年が父を追いかけるように、私は詩を追いかけている。
あなたもそうだろう。
百日紅は白い花を咲かした。それは種をつけるために必要な過程だ。けれど、私たちは詩書きだから、そんなことよりも、将来の実よりも、今の美しさを捉えているんだろう。意味なんか、結果なんか、必要もないほどに、曲がり角で消えた猫の尻尾を追っていく。
迷い込んだその場所が、自分も他人もないような、あの静かな言葉の世界なんだ。
詩と向き合う時、あなたは一人じゃない。自分じゃない。他人にも景色にも季節にも色にも風にも音にもなれない。それでも、描くんでしょう。描いたら何にでもなれるから。
言葉の逃亡を詩は手助けしない。詩書きは詩にはなれないけれど、詩はきっと今日咲いた白い百日紅になる。
私はそれを美しいと思います。
雪屋双喜