自分のこと、好きですか?~嫁ゆっきぃ編~
藤山家嫁ゆっきぃです。
こんにちは。
今回のテーマ、いろんなところで語りつくされてきたように感じますがこれを読んでいるみなさんはどうでしょう?
考えたことあります?
私はさんっざん考えました。
自分のことが大嫌いだと気付いたのはいつ頃だろう?
多分小学校2年生くらいの時から私は私を嫌いはじめたような気がします。
それまでは好きも嫌いもわからん、そもそも『私』と『世界』を分けて考えたことなんてなかったような…。
で、このテーマにしたのには理由がありまして。
先日、私が個人的にやっているブログでこんなことを書いたんです。☟☟
このブログで私は『絶望』について書きました。
絶望。
絶望って聞いてどんな感じがします?
私は亮一さんと出会って、亮一さんとあらゆる話しをし続けて、この『絶望』を知りました。
…って!!!
亮一さん最悪な感じじゃん!!!(≧▽≦)
亮一さんと出会って絶望を知った。。。。
ぶはははは!!
(面白かったからもう一回書いた。)
(亮一さんが私にとってあらゆる面で師という意味ですよ。)
で、この『絶望』についてのことって、なかなか伝わらないんです。
だって超ネガティブなイメージですからね。
このことについてもう少し書きたかったのと、亮一さんにもこれについての見解、思い、体験を書いてほしかったのだけれど、「絶望について」なんていうテーマにしちゃったら面白くもなんともないんじゃない?という話しになったわけです。(←亮一さんの意見です。)
そこでのこのテーマ。
『自分のこと、好きですか?』
これねー。
めちゃくちゃ深く考察できるテーマです。
さっきも書いたけど、私が私を嫌い始めたのは小学校2年生くらいのときからのような気がします。
それから“自分嫌い度”がどんどんどんどん上昇し、どこまでも突き抜けていきました。
私は私が大嫌いで大嫌いで仕方がなかった。
こんなに醜くて汚い存在は消えてしまった方がこの世界のためだ、と本気で思っていました。
今思うととても傲慢でめちゃくちゃ恥ずかしいのですが…
突然ですが、私が初めてオナニーをしたのは小学校2年生の時です。
きっかけはひょんなことでした。
「なにこれっ!!なにこれっ!!」とびっくりしたのと同時に「私はものすごく悪いことをしているような気がする…」と強い罪悪感を感じました。
でも止められないんですよ。
ますます強くなる罪悪感。そして背徳感。
私は汚い。両親や姉兄に隠れてこんなことをしている私は汚くて醜い。
そんなことを思い始めました。
その後、私は15歳から摂食障害の症状が出始めます。
過度なダイエットから始まった、親や姉兄に言えないほどの食への恐怖。
症状は食を全く受け付けない拒食症からいつしか過食嘔吐(食べ吐き)へ。
親に隠れて大量の食べ物をむさぼるように食べ、そして盛大に吐き出す。
これを繰り返す辛さ、強い罪悪感、虚無感、朦朧とする意識、止められない衝動、泥のような私。
私はますます私を嫌い、呪いました。
痩せたい、痩せたい、でも食べたい、でも痩せたいから吐き出す。
また食べたい、でも痩せたい、痩せない、吐き出す、なんでっ!!!!!
なんで私はいつまでたっても美しくなれないのっ!!!
こんな贅肉と脂肪なんていらない!!
もう削ぎ落してしまいたいっ!!!
そんな思いでナイフを内ももやお腹に何度当てたことか。
まぁ実際はそんな勇気もなかったからナイフを突き刺したことはなかったのだけれど。(意気地なしでよかったです。。)
とにかく私は長年ずーーーーっと『私』を呪って嫌っていたぶってきました。
それはそれは凄まじいほどの呪いっぷりで。
性に関する興味を持つ私を罰し、太る私を呪い、空腹になってしまう自分を罵りました。
食べて吐く衝動を抑えることができない自分が許せなくて、地獄とはこういうことかと思うほどの暗闇を這いつくばりました。
そんな私が「あれ?」と気付き始めたのは26歳の頃。
「これはもしかしたら私の勘違いなんじゃないか?」と首を傾げ始めたのはたぶんその頃です。
以下その当時の私の問答はこちら。☟
ちょっと待てよ。
私は私のことを嫌いだとか許せないとか思っているけど、私は私のことをそんなに知っているのか?
太っていては愛されないと思っていたけれど、そもそもそれはほんとうなのか。
美しくなければ誰からも愛してもらえないと感じているけれど、美しいと愛されるのか?
そもそも痩せれば美しいのか?
そんなことねーな。
性に関する興味が強いとそれを隠さなきゃいけないのか?
それをいけないことだと罰する必要がどこにあるんだ?
性に強い関心興味があることは恥ずかしいことなのだろうか。
罰するべきことなのか?
痩せていても美しく感じない人もいるな。
でもふくよかでも美しい人はいる。
美しいけど幸せそうじゃない人もいるな。
ふくよかでもめちゃくちゃ幸せそうな人もいるじゃん。
あれ?
ちょっと待てよ?
なんだなんだ?
私は結局愛されたいのか。
痩せるとか太るとかかんけーねーじゃん。
誰に?
誰に愛されたいのか。
みんなに。
みんな??
どれだけの人に愛されれば私は納得するっていうんだ?
ちょっと待て!!!
…私、誰に愛されたいんだ??
そもそも愛されるってなんだ…?
私はそんなことを驚きながら、頭を抱えながら考え始めました。
そして私は「これは誰にも言えない。言ってしまったらおしまいだ。」と感じていたことを少しずつ小出しにして相手の反応を観る実験を始めました。
私は私が「嫌いだ」と感じている自分がほんとうに嫌われるような存在なのか?を確かめていったんです。
そりゃもう怖くて怖くて毎回ブルブル震えながら、吐きそうになりながら確かめていきました。
(内容的にはものすごく些細なことなんですよ。)
これはとっても地道で地味ぃ~な作業です。
自分で自分のことをどう思っているか気付く→それってほんとう?と疑う→ブルブル震えながら確かめていく
これの繰り返し。
そうしたらさ、その時「大嫌いだ!!」「消えてしまえ!!」と呪っていた自分なんてどこにもいないのがだんだんわかってきたんです。
そしてそれとともに「あれ?なんだか結構人から好かれるぞ?」ってことも感じ始めたんですね。
友達がぜんぜんいなかった私に心置きなく話せる人が少しずつでき始め、少しずつ生きるのが楽になりはじめました。
27歳の時、こんなことを感じていたのを未だに覚えています。
「あれれ?日に日に毎日が楽しくなっていってるぞ。なんだこれは?!!」
と。
あれは何歳ごろのことだっけ?
もう詳細は忘れてしまったけれど、はっ!!と気付いた瞬間があった。
「わ!!!そうか!!!私は私に愛されたかったんだ!!!!」
これは私にとってすっごい衝撃的なことでした。
なんだーーー!!!私は私に認められたかったのかーーーー!!!
とびっくりするぐらいの発見だったんだ。
そしてこんなことを思い始めた。
「あー。。なんか、私、私のこと好きかも。」
「わ!私が私のこと好きかもとか思ってる!!やべぇ!!すげぇ!!」
これね、もんのすごいことなんです。
過去に呪って呪ってさんざん痛めつけていた大嫌いだったこいつ。
こいつのこと「好きかも…」って思うんですから。
そりゃもう目の前がパーーーッと開けたような、そんな気分ですよ。
それからの私は今まで思い込んでいた『私像』から少しづつ解放され、どんどん『自分』を認めていき、どんどん『私』を好きになっていきました。
そういうのがわかっちゃったときって、人に教えたくなりません?
こうやると自分のことが好きになれるんだよ!!
今最悪でも気づけば開けるんだよ!!
だってあんなにどん底だった私がこうなれたんだもん!!
そんな風に。
もう万能感すごいんですよ。
「私!私が好きっ!!」なんて言っちゃってね。
さてさて。
では今現在の私はどうかってことなんですがね。
今現在の私はこんな感じなんですよ。
私は私のことが好きかどーかなんてわかりゃしない。
好きなところもあるけど大嫌いなところもある『こいつ』と共にいるしかないからあきらめている。
そもそも『私』ってどこにいるねん。
愛されてるとか愛されてないとかどーでもいいやん。
よーくよーく観ていくと、私もいないし他の誰もいないじゃん。
そんな感じなのです。
少し前の「私は私が大好き!!!」という万能感。
これはどこまでいっても過去の出来事、過去の毎日との比較の上に成り立っている想いでした。
あの時より今の方が比較にならないほど楽しいし幸せ!!
どこまでいっても過去との比較で舞い上がっているだけだったんですね。
あ、それが悪いことだなんて思いません。
むしろすごいことだとも思っています。
でもね、それって無理が生じる時が必ずやってくるんですよ。(←私調べ。)
少なくとも私にはどん詰まり感がやってきた。
「そもそも“私”ってなんやねん。」という疑問がやってきてしまったからね。
「大好き?それほんと?誰が?誰を?」という思いもやってきた。
いつしか「私は私が大好き!!」と思っている自分がキャラクター化していき、そこに執着するようになっていたことに気付いちゃったんですね。
『私は私が大好き!という私』でい続けよう。としてたことに気付いちゃった。
それに気付いちゃったら「こうすれば幸福になれるんだよ!!!」「私は私が大好き!!!」と誰かに言おうとしている自分が気持ち悪くなってきちゃったし、そう言っている人を観てもおえぇーー!!!感が強くなってきてしまったんですよ。
どこまでいっても“今より良くなろうとする”自分が現れる。
すぐに“こうすればもっと良くなる(気がする)”と思いたがる。
“私わかったの!!”とかすぐ言いたがるし思いたがる。
“この出来事にはどんな意味があるんだろう?”とすぐ納得したいがためにいろんな屁理屈をこねたがる。
恐怖心から“誰かの教え”を請いたがるし、“お金”を得ようとしたりする。
怖いから“地位や賛同”を求めたり、多くの人からの“承認”を得ようとする。
で?
それを得たら幸せになれると思っちゃうこの愚かさよ。
どこまでも幸せを求めてしまうこの滑稽さよ。
それと幸せは全く関係がないのに。
(でも私はぜんっぜんそれを今も求めまくってますよ!否定している訳じゃんないんですよ!矛盾上等。)
あるのは“今”のこの“経験”だけなのに。
しかもその“経験”すら持ち続けることができないのに。
あー
絶望的だ。
この絶望感。
それを全身で浴びた時、初めてふわりと感じられることがある。
「なんかすげえな。」
そんな感じ。
てことで、私は私のことがいまだわからない。
だから好きかどうかもわからないけど、好きな時もあるし嫌いな時もある。
まぁなんとなくいいヤツなんじゃない?と感じているし、絶望にまみれた時に「なんかすげえことが目の前でずーーーっと繰り広げられてるな…」と感じます。
『この世界が愛しい』とか気持ち悪いことも思わないし、『生きてるって素晴らしい!』なんて反吐がでそうなことも感じません。
“何か”が目の前で繰り広げられていて、それを観ている。
いかにオープンにそれを観ていけるか。
でも同時に「こうすればもっと良くなる!」とかすぐに思ってしまうし、「承認」も「お金」も「スタイルの良さ」も「カッコよさ」もすぐに求めてしまうこのどうしょもない存在がどうやら“私”らしいです。(それすらもないんだけどね。)
あー滑稽だ。
絶望的だ。
そんなことを言いながら、今日も私はどうやら生きています。
時に嫁というキャラクターになって、時に母というキャラクターになり、時に女というキャラクターになり、時に施術者というキャラクターになったりして。
時に怒りが湧き、時に悲しみが湧き、時に喜びが湧き、時に大笑いが起き、時に感動がやってきます。
それがどんどん過ぎ去り、思い出という曖昧な記憶が残ったりします。
その曖昧な記憶が塗り替えられたり、勘違いをしたり、思い込んだりします。
でもそれすらも過ぎ去っていきます。
不思議だねぇ。
絶望的だねぇ。
さてさて。
そろそろこの絶望的な“私”を連れてスーパー銭湯に行ってサウナでも入ってきますか。
愛しい亮一さんを誘ってみたりして。
おーーーい!!
亮一さーーーん!
これどう書く?
どう書くどう書く?
楽しみすぎるんですけどーーー!!