怖いことはいっぱいあるけど、できることが増えたら嬉しいねん
私は黙って、
ただ彼女の指の間から
ハラハラと髪の毛が抜け落ちていくのを見ていた。
特別支援学校、職業クラス高等部2年の担任になったばかりの4月のこと。
ハラハラと、少しずつ、
ブチブチって小さな音がしてるのかどうか分かるか分からないくらいの感じで、
白い教室の床の上に
彼女の黒い真っ直ぐな髪の毛が落ちていく。
鼻をすする音と、
彼女の髪が落ちるハラハラ。
高校二年生の彼女は、
パニックになって泣いていた。
“パニックになると、
自分の髪の毛を引きちぎることがある”
その引き継ぎ文を思い出していた。
原因は、クラスメイトの女子(自分の感情を抑えるのが苦手な子)ともめたこと。体育の時間の、ふとしたやり取りの後やった。
彼女は何も喋らない。
側から見ていただけでは、なぜ彼女がここまで悲しむのかよく分からない。
でも、彼女の心の中にある、いつかの辛い記憶と今日の出来事がリンクしたから、こんなに悲しんでいる...そんな気がした。
いわゆる、フラッシュバックである。
彼女の手先の器用さは、ほんまに素晴らしかった。細かい手作業は、少し教えれば全て覚える。学校で運営しているカフェでも活躍した。UCCのプロから習ったコーヒーの淹れ方を誰よりも早く、完璧に覚えた。
周りの評価も高かった。家に帰れば、家事全般は一人で全部こなせる。掃除、洗濯、食事作り...全てお手のもの。そこらの母親よりも、ずっと完璧にやり切ることができる。
丁寧で、一生懸命。
それが彼女の特殊能力だった。
そんな彼女は、6人兄弟の2番目。
お父さんがそれぞれ違う子供たち。
シングルのお母さんには彼氏がいて、お母さんは時折、その彼氏との息抜きと称して夜に出かけて朝まで帰ってこない。その時は、社会人になって家を出た姉の代わりに、彼女が妹と弟たちの世話をする。
『お母さんにも、息抜きが必要やからね!たまにはゆっくりさせてあげんとあかんねんで!』
穏やかにそう言う彼女の本心は分からなかったけど、ほんまにただ一途に母を愛しているってことだけは伝わる。
そんな彼女も、
そこら辺にいるフツーの女子高生。
嵐の大野くんの大ファンで、嵐のコンサートに母や姉と出かけたり、嵐グッズを買ったりして喜ぶ。そんな可愛い高校生。
見た目も、何もかも。
フツー。
だけど彼女は、極端に勉強ができなかった。
勉強ができない自分を追い込んで、いつからか学ぶことをやめていた。
私が担任になってから、少しずつ学習を進めてみて分かったこと。
彼女の学習は、小3くらいで止まっていた。小3、小4くらいで習ったことはギリギリ分かる(分からないこともある)。でもそれ以降はなかなか厳しい。
この子の居場所は、
今までほんまにあったんやろうか?
幼少の頃から、精神的に自分を追い込み続けた彼女は、いくつになっても、電車にもバスにも一人で乗れない子やった。
あれだけなんでもできるのに、お母さんがいないと怖くてできないことが山ほどあった。
能力だけ見たら、そこらの女子高生よりはずっとずっとできることがある。どこの工場でも、どこの職場でも、彼女を必要とする人たちはこの先いくらでもいると思う。
でも彼女の心が、その選択肢をヨシとしなかった。不安が強すぎて、一人ではどの会社にも通えない。怖くてできないことが山ほどあった。
これから先を考えた時、
彼女たちが生きるために必要な知識ってなんやろう。
当時、誰も助けてくれない(それどころか、蹴落としにかかってくるような)担任集団の中にいた私は、一人でアレやこれやと悩んでいた。
文献を読み漁って、いろんなところから実践報告を集めた。
よし!算数『割引の計算』で授業を組み立ててみよう!
学習内容としては、小5の範囲。
割合を習ったときに、一緒に学習する。
◯◯円の△割(%)引はいくら?
◯◯円の△割(%)増しはいくら?
『これさー、今までも気付いててん!夕方とかスーパーに行ったらさ、なんか貼ってあるねんよ。赤と黄色で、こんなこと書いたシールが!
でもさー、いっつも意味分からんから、これ何なん?って思っててん。
でもさー、勉強まじウザー。
ほんまダルー。先生ほんまイヤー笑!』
彼女や彼らの素直で素朴な疑問。
こんなこと...と思うようなことが分からなくても、今まで誰にも尋ねることができなかった。頑張って尋ねてみたところで『は?こんなことも分からんの?』と周りに言われてしまう。
『これから生きていくには、スマホの電卓あればそれでええねん!電卓使お!やり方さえ覚えたら、損しない!むしろ、得した買い物ができるんや!
文句言わんと勉強するでー!!』
ブーブーと言う文句を聞きながら、
あれやこれやとみんなでやってみる。
誰も『こんなんもできひんのか?』『アホちゃう?』なんて言わない空間。
『先生!できたでー!!生まれて初めてできたでーー!!しかも、意味わかった!できたー!!やったーーー!!!』
『できたんかー!めちゃくちゃすごいやん!もう天才やん!』
天才とか言いすぎやしな〜とか言いながら、
みんな少しずつできるようになってくる。
少しずつ、空気が明るくなってくる。
その数日後。
彼女の母と電話で話した時に、
嬉しそうに母が言った。
『先生!こないだ◯◯がなー、生まれて初めて、“お母さん、割引の計算できる?うち、できんねんでー!”って家でゆーたんよ!
学校で習った勉強の話、初めて家で話したんよ!ほんま、、、感動したわー!!
先生、ありがとー!』
......
ハラハラ抜け落ちる髪の毛を見ながら、
『先生のこと信用できんと思う。コイツなんやねん?!って思ってるはずや。
でも先生は、◯◯さんのこと大事に思うで。これからもっともっと、大事に思うはずや。
もう大丈夫やで。』
精一杯の言葉。
静かに彼女の肩に手を置いたら、
一瞬、シンとなって彼女の動きが全て止まる。
その後しばらくして、
彼女の静かな息遣いが変わってくるまで
ずっと一緒にいた。
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