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「男らしさ」とは何か

「有害な男らしさを除け」「男らしさから降りてもいい」――最近はそんな言葉が随所で見られます。

しかし「男らしさ」とは一体何でしょうか?
恐らくそれは多数の要素から構成されており、簡単に説明するのは難しいと思われます。そして、この言葉は「中学生らしさ」などと同様、発話者の立場や都合に合わせて様々な意味で発せられるようです。
今日の記事では「男らしさ」がどういった要素から構成されているのか、また「有害な男らしさを除く」「男らしさから降りる」といったことがどういったことを意味しているのかについて考えてみたいと思います。

男らしさを構成する要素

男らしさはまず「表面的・外形的」な要素と「内面的・本質的」な要素に大別できると考えられます(図1)。

図1 「男らしさ」の全体像

「表面的・外形的な男らしさ」には、身長が高い、筋肉量が多い、声が低い、髭が濃いといった「身体的特徴」、および寒色系の色や機械類を好み、おままごとやぬいぐるみをそれほど好まない、といった「嗜好性」が含まれます。
一方、より重要と思われる「内面的・本質的な男らしさ」には、男性に特徴的な行動やそれを生み出す気質が含まれます。これらには美徳として称賛される要素も多々ありますが、一方でいわゆる「有害な男らしさ」も含んでいると考えられます(図2)。

図2 内面的・本質的な男らしさ

そして、これらは独立して存在するのではなく、多くの場合表裏一体の関係になっていると考えられます。まずポジティブな要素に着目し、便宜上これらを「有益な男らしさ」と呼ぶことにします。図2に示した12項目について考えてみましょう。

利他精神
1. 弱い者を助ける(老人・子供・女性)
2. 必要とあらば自分を犠牲にする

旧来的な価値観においては、身体的・社会的な強者として弱者をいたわり、守ることは男性の美徳とみなされてきました。「溺れている子供を川に飛び込んで助ける」など、必要とあれば自らの身を挺してでもそれを成し遂げることは特に称賛の対象とされてきました。もちろん女性でも他者に親切な方はいるでしょうが、それが「強者だからこそなしえる行為」だったり「自己犠牲を厭わない行為」だったりした場合「男らしさ」としてみなされる傾向があると思われます。また自己犠牲の精神は、弱者を守る時だけではなく「大義に殉ずる」時にも発揮されると思われます。爆弾三勇士など、国家や社会のため、命を省みず危機にとびこんでいく精神は「男らしさ」の最たるものとみなされるでしょう。それが必ずしも心からのものでなく「やせ我慢」であったとしても。

責任感
3. 潔く責任を取る(人のせいにしない)
4. 約束を守る

例えば自分の判断や行動の結果、何らかの問題が発生した場合、それを自分の責任であると認めることは重要です。至極当たり前のことのようにも思えますが、世の中には「あの人がどうだったから仕方なかった」など、何とかして責任を他者になすりつけようとする人もいます。こうした人は往々にして「男らしくない」とみなされるでしょう。また「武士に二言はない」「男に二言はない」という言葉があるように「約束を守る」というのも「男らしさ」であると思われます。これらをまとめると「社会の構造を維持するために辛い立場に耐える」ことが男らしさだと言えそうです。短期的・自分本位に考えれば、責任を他者になすりつけたり、約束を破ったりした方が「利益」が得られることもあるでしょうが「誰も責任をとらない・誰も約束を守らない」状態になってしまっては社会が混乱し、崩壊してしまうでしょう。

社会性
5. 立場が上の者に従う
6. 立場が下の者の面倒を見る

最近ではそうでもないのでしょうが、一昔前までの運動部では多くの場合、厳しい上下関係が存在していたと思われます。場合によっては「先輩命令は絶対」と、それこそ「上の者が白いと言ったら黒いカラスも白い」とでも言わんばかりの理不尽な関係が公然とまかり通ってもいたようです。しかし一方で、後輩の面倒をきちんと見る、という側面もあった。私の知るある方などは、後輩に対して(場合によっては暴力を含む)非常に厳しい接し方をしていた一方で、食事に行くときは必ず後輩に奢っており、警察に補導された後輩のために交番まで頭を下げに行く、などもしていたようです。こうした上下関係は、結果として、人同士のつながりが強く、意思を統一して動くことのできる集団を生み出していたと考えられます。

ここまでに述べた「男らしさ」というのは、言うなれば「広義の社会性」ということになるでしょう。一方で、男性には筋力をはじめとした「強さ」という特徴があり、これに由来する様々な要素も男らしさとみなされます。これらは「男らしさ」というより「男性的」といった表現になることが多いかもしれません。以下にその具体的な項目を列挙しました。

闘争心
7. 立身出世を目指す
8. ライバルに対し闘争心を持つ

高い学歴や地位、経済力、あるいは社会的な成功を求めて努力することは、少なくとも一昔前までは男性に顕著な特徴であったと言えるでしょう。これは「競争して勝つ」という強い意欲、すなわち闘争心に裏打ちされていると思われます。昭和の時代、あるいは戦国時代を含む中世・近世を見てもわかるように、これらは長らく男性の特徴でありましたが、最近では女性の社会進出に伴い、女性でも闘争心を持ち「活躍」することを目指す人が増えてきていると思われます。しかし男性の場合「同情・共感されにくい」という性別の特徴から、よりこの競争から逃れにくく、それゆえ否応なしに競争に参加することになる、という点が女性とは異なると言えるでしょう。

頑健性
9. 身体が鍛えられている
10. 不平不満を言わず耐える

時代や文化が変わっても、生物学的な特徴はそう簡単には変化はしません。男性は女性より背が高く、筋肉量が多い、という傾向は過去現在問わず当てはまります。古来より、男性はその身体的特徴から力仕事や戦闘行為を担当してきました。現代ではそうした仕事は限られてきてはいますが、それでも身体の強さというのは今でも男性の特徴、あるいは男性的な魅力の要素とみなされます。また「心」の強さ、すなわち不平不満を言わず耐える、というのも「男らしさ」であると言えるでしょう。

団結力
11. 男同士で団結する

いわゆる「ホモソーシャル」というやつですね。これは「社会性」の項目に入れようか迷ったんですが、少しニュアンスが違うので分けることにしました。男性は男同士でグループをつくった時に、より活力を高められる傾向があると思います。仲間同士馬鹿なことで笑いあったり、励まし合ったりすることで、一心不乱に仕事に打ち込むなど、一人でいる時よりの何倍も頑張れる、という経験を運動部や学校行事などでした人も少なくないのではないでしょうか。

性欲
12. 女性に性的魅力を示す

最近ではLGBTが話題になることも多いですが、女性に対してセックスアピールをするのは、やはり今でも主に男性です。女性にアプローチし、魅力を示し、口説き、そして自らを受け入れてもらう、というのは、男性的な営為であると言えるでしょう。

「有害な男らしさ」とは何か?

近年「有害な男らしさ」という言葉が、フェミニズムなどにおいてしきりに取りざたされています。「男らしさ」の中でも、人を傷つけたり不快な思いをさせたりする要素をそう表しているようです。しかし、先にも述べましたが、これら「有害な男らしさ」は、独立した事象として存在するのではなく「有益な男らしさ」と地続きになっていると考えられます。
例えば、暴力をふるうなどの攻撃性の発露は、闘争心の延長にあると言えるでしょう。性加害は性欲に由来するものですが、女性が快いと思うようなセックスアピールも性欲に由来しています。立身出世を目指すのは、それに集中することで家事や育児の優先順位の低下につながると考えられます。ホモソーシャルは、一部の女性はこれを大変嫌悪している、一種特有の悪ノリにつながっています。軟弱な人や不平不満が多い人を否定的に見るのは「鍛えられた心身」が美徳とみなされることと表裏一体であると言えるでしょう。後輩の面倒を見るのは良いことではあるでしょうが、先輩風を吹かせることにもつながります。

「有害な男らしさを除け」「男らしさから降りてもいい」とは?

フェミニズム等で言う「有害な男らしさを除け」というのは、図2右側に示した「有害な男らしさ」を除け、という意味であると思われます。また、似たような言葉で「男らしさから降りてもいい」というものがあります。「ジェンダーフリー」の現代では、女性だけでなく男性も、性別としての「らしさ」から逃れても良いのだと主張されているようです。しかしながら、これらの言説にはいくつか疑問点があります。以下に問題を思われる点を挙げていきます。

・降りることが許されない「男らしさ」がある
・都合の良い「男らしさのトリミング」は難しい
・「男らしさから降りた男」を女性は好まない

降りることが許されない「男らしさ」がある

「男らしさから降りてもいい」の内容を詳しく見てみると、概ね次のようになると思われます。身体が弱くても、弱音を吐いてもいいよ。そんなに競争にガツガツしなくていいんだよ。男同士でつるまなくたっていいじゃない。女を女として見ないで「人間」として見てほしい――等々。しかしながら、これらをよく見ると、ほぼ全て「強さ」に類する男らしさ、すなわち図2の7~12に偏っていることがわかります。
「男らしさから降りてもいい」と言っている人も、ほとんどの場合1~6の「男らしさ」から「降りてもいい」とは言っていない点は注意が必要です。例えば「人に責任をなすりつけてもいいんだよ」などと言う人は絶無でしょう。つまり「男らしさから降りてもいい」は、私がさして関心を持っていない「男らしさ」は除去してもいいが、その他の「男らしさ」は引き続き維持しろ、と言っていることになります。一見寛容な態度を見せているようで、実はそう寛容でもないメッセージであると言えるでしょう。

都合の良い「男らしさのトリミング」は難しい

図2に示したように、「降りてもいい」とされる男らしさ、すなわち本能や生命力に類する強さは、いわゆる「有害な男らしさ」と地続きになっています。とすると、女性あるいは他のジェンダー論者等の要請に応えるならば、1~6の男らしさは維持しつつ、7~12の男らしさから「降りる」ことが最も望ましい、ということになるでしょう。しかし、そんなことは可能なのでしょうか?
結論から言えば、非常に困難であると私は思います。「利他精神」「責任感」「社会性」と言った要素は「強さ」に裏打ちされているからです。人は心身が充実しているからこそ、他者に配慮したり、責任をとる意思を持つことができるのではないでしょうか。自己犠牲の精神を持つにも、危機と相対する「闘争心」が重要になってきます。一件関係ないように見える「性欲」も、男性としての活力を生み出したり「女性にいい所を見せたいから頑張る」といった形で利他精神や社会性に寄与してくるのではないかと思われます。言うなれば「男らしさのトリミング」は、スポーツの練習はさせずに、結果のみを求めるに等しい、無理筋の要求なのではないかと思われます。

「男らしさから降りた男」を女性は好まない

「強さ」を取り除きつつ「社会性」を維持するのは難しい、という話をしましたが、そもそも「強さ」を除いてしまった男を女性は好まない、もっと言えば忌避するのではないかと思われます。競争に積極的に参加しなかった結果、さしたる学歴や経済力も持たず、軟弱で不平不満を言い、男同士のつながりも持てない――そんな男性を、果たして女性は好むでしょうか?交流を持ったり、場合によっては交際したいと思ったりするでしょうか?昨今しばしば話題になる「弱者男性」はこうした男性を指していると思われますが、ネットにおいては、弱者男性と思われる人々への女性の態度は無関心どころか冷酷・苛烈ですらあります。つまり「男らしさから降りてもいい」という言葉は、その「降りてもいい」項目が限定されているだけでなく、残った(降りることが許される)項目すら、実際に「降りて」しまえば忌避や攻撃の対象になってしまうと考えられます。「降りてもいいけれど、どこか私の視界に入らない所に行って生活してくださいね」というわけです。
このように「男らしさから降りてもいい」という言葉は真に受けてはいけないと思われますが、少し補足するならば、場合によってはそれが許容される状況もあると思われます。一流スポーツ選手の男性がふとした瞬間に弱音を吐いたり、東大生の男性が男同士の輪に入るのが苦手だったり、そういう「圧倒的強者がふとした瞬間に見せる弱さ」であれば、むしろ魅力的に映ると思われますし、女性も「男らしさから降りてもいいんだよ」と心からの言葉を発するでしょう。つまり、階段を十段上って一段下りるような状況では「男らしさから降りてもいい」が文字通りの意味で通用すると思われます。いずれにせよ、ベースとしての男らしさを備えることは必須ということになりそうです。

「有害な女らしさ」は除けているのか?

ここまで、世の中の「アップデート」された女性からの要求に応えるにはどうすればいいかということを考えてきましたが「男らしさ」についての要求を考えるのであれば、反対に女性の「女らしさ」への要求についても考えなければフェアではありません。しかし驚くべきことに、昨今では女性に「女らしさ」を求めるのは許されざることである、という論調があります。「アップデートされた男らしさ」を求める割には「女らしさ」を求めてはいけないというのは大変不合理な話であります。のみならず、昨今では「有害な女らしさ」については日増しにその勢力を拡大しているのではないかと思われます。ツイッターなどでも、育児の辛さを訴える男性に対して安全圏から徒党を組んで攻撃を仕掛けたり、被害者意識を全開にして他者を加害者呼ばわりしたりするなど「有害な女らしさ」と思われる特徴を持つ女性が跳梁跋扈しています。こうした状況に、釈然としない思いをしている男性は少なくないのではないでしょうか。

まとめ

結局のところ、私たちは「男らしさ」「女らしさ」といった旧来的なジェンダーロールというものをいたずらに否定すべきではないのではと思います。「男らしさ」がもたらす強さや社会性は社会を、そしてそこに住む男女全体に少なくない恩恵をもたらしていると思われます。男性が男としての「強さ」を求めることには、確かに時として苦痛が伴うでしょう。しかし、その苦痛から逃げたとしても、いずれどこかでその清算をするはめになるのではないでしょうか。「男らしさから降りてもいい」という言葉には惑わされない方が多くの場合良いと思います。また社会全体にとっても、強さに裏打ちされた社会性を持つ人、つまり責任をとったり利他精神を発揮したりする人が減少することには負の影響が大きいと思います。
もちろん、何も変える必要がないとは言いません。昭和の時代と比べ、体罰やパワハラ・セクハラが徐々に取り締まられて減少してきたように、いわゆる「有害な男らしさ」については抑制されるべき部分はあると思います。ただ、それらが往々にして「有益な男らしさ」とも結びついていることを考えると、いたずらに厳しい基準を適用しようとするのではなく、メリットとデメリットのバランスを考えながら慎重に進めていくのが良いのではないかと思います。
また、今回はあまり詳しく述べませんでしたが、女性についても「女らしさに縛られない」ことをいたずらに良いこととして賛美するのは危険だと思っています。ジェンダーフリーだなんだと言っても、私たちには持って生まれた染色体と、それに形作られた性という表現型があるわけです。それぞれの形質を否定するのではなく、長所を生かすという考えも、あって良いのではないでしょうか。

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