ドイツ留学・ヨーロッパ旅行体験記🇩🇪🇵🇱🇦🇹🇮🇹🇭🇺🇹🇷(2024.7.12-8.22 )
お久しぶりの方も初めましての方も、こんにちは、まおすけです。私は2024年7月15日から8月9日までのフンボルト大学(ドイツ・ベルリン)の語学プログラムに参加し、それが終わった後しばらくヨーロッパを旅行していました。この一ヶ月間どこに住んで何をしていたかについてまとめて書いていきます。
はじめに:なぜドイツ語を再び学ぶ気になったか
そもそも今私は早稲田大学文化構想学部の4年生なのですが、大学1年生の時に第二外国語でドイツ語を履修したのがドイツ語学習のきっかけです。しかしその時はドイツに行く予定もなく強いモチベはなかったため、勉強は最低限しかしておらず成績は散々なものでした。
しかしひょんなことから昨年4-6月にヨーロッパ旅行を断行しました。(詳しくはこちら)その時はドイツ語も英語もほぼ話せず、現地の人とのコミュニケーションは全く取れなかったため現地で働く日本人に会っていました。それはそれで私の中で大変貴重な時間で、その時の体験は別で記事にしています(詳しくはこちら)
しかしやはり自分の中で「せっかくヨーロッパに行ったのに現地の人とコミュニケーションが取れなかった」ということは強い後悔として残っていました。卒業や就職が迫る中、さすがに今からでは留学は難しいかなあと思いつつ、心のどこかでまたドイツに行けたらいいなあとは思っていました。
そんな時に、DAADの夏期ドイツ語講座参加奨学金(HSK)をネットサーフィン中に発見。学部生、しかも短期で行く留学の奨学金は少ないため、もしかしたらこれが最後の機会かもと思い慌てて調べると締め切り10日前。しかも必要な語学要件(A2)を持っていない。やはり無理か…と諦めかけましたが、「いや、多分これを逃したらもう人生で二度と留学に行くチャンスはない。無理ではない、やるのだ」と思い立ち、猛スピードで準備。なんとか書類を揃え11月末に提出し、4月初週に選考に通った旨の連絡が来ました。そこからバタバタとドイツ語の授業を追加で履修したり独検3級を受験したりし、なんとか渡航することができました。
フンボルト大学(夏季集中 Deutsch Erleben A2コース)での日々
私にとってこれが人生で初めて、海外の同年代の学生と平等に接する機会となりました。というのも早稲田にも留学生はいますが私は英語が得意ではないためネイティブの会話についていけず友達はおろか知り合うのすら難しいのです。(2年生のとき留学生と合同のオールイングリッシュの授業を履修し、辛すぎて毎授業後泣いていました)
しかしドイツ語の語学コースは全員がドイツ語学習者ということがあり、ドイツ語は誰も完璧でない。のでドイツ語での会話は平等な立場ですることができたような気がします。しかし授業が終われば学生は英語で会話し出すので、平等だったのは授業中だけでしたが…。
私はA2レベルギリないだろ位のレベルで参加したのですが周りの学生は体感B1くらいくらい話せていて、手違いで混じっていたドイツ語初学者を除けば私はクラス一番の劣等生でした。(し、クラス分けテストは最下位でした)宿題が何なのかもわからず隣のクラスメイトに聞いたりもしていました。先生も私をかなり気にしてくれており、授業後大学の庭でご飯を食べていたら先生に「クラスについてどう思う?」と心配そうな顔で尋ねられました。前半はそんな感じで少し不安だったのですが不思議とメンタルがやられることはなかったです。というのも先述したオールイングリッシュの授業の方が数倍メンタルにきていたので。あの経験も無駄ではなかったのか。
クラスメイトは皆本当に優しく、私がドイツ語と英語が切り替えられず英語で聞いてくれてるのにドイツ語で返したり英語で話しているのに急にドイツ語の単語が混ざったりしても嫌な顔せず接してくれました…。めちゃくちゃ仲良しな友人、とまでは難しかったけど最終日のパーティでは抱き合って別れを惜しむくらいにはなれました。十分です。
クラス最終日にプレゼンテーションをするのが課題でした。私はありがたいことにアメリカからのクラスメイト2人に誘ってもらって、3人でプレゼンを作りました。ドイツ語のイディオムを紹介しました。
旅行で訪れた場所
①クラクフ・ポーランド(8/3-4)
授業の合間の週末に弾丸で行きました。行きはFlixbusで5000円、帰りはライアンエアーで9000円、ホステルは2泊で8000円くらいでした。
目的はアウシュビッツ強制収容所です。中谷剛さんの日本語ガイドツアーに参加することができました。同じツアーに参加した日本人は12人ほど。中学生くらいの男の子含む家族から学生まで様々。中谷さんの説明は世界史無学の私でもとてもわかりやすく、コロナや先週のニュース、オリンピックの開会式の話を織り交ぜて説明したりと、ただ過去を振り返るだけでなく時事と絡めてお話されており、例や表現が受け取りやすかったです。そして「アウシュビッツは空から落ちてきたわけではない」という生還者の言葉通り、私たちの身の回りに差別の種はあり、日本もまた例外ではないということを感じました。変にお涙頂戴な展示でないところも好感を持ち、ツアー前提だからか展示物の説明文がとても少ないのですがその方が展示物をしっかり見られて良いです。さすが世界中から訪問客が集まる博物館なだけあります。
②ヴェネツィア・イタリア(8/12-14)
ヴェネツィア・ビエンナーレに2日間行ってきました。芸術祭ウォッチャーとして楽しみにしていました。しかし正直暑さ&かなり広い展示を丸一日かけて見るハードさにやられてじっくり何かを考える、というフェーズまでいけなかったのですが、メインの2会場を見切った達成感や自分の創作欲の刺激になりました。
③ウィーン・オーストリア(8/14-28)
ウィーンは昨年も訪れたためゆっくりめな滞在期間に。
④ブダペスト・ハンガリー(8/18-20)
物価が比較的安め。(だいすき)
ハンガリー語がまったくわからない。ブダペストで食べたマジックアイス?的な名前のアイスが食べたことない味して印象に残っている。
⑤イスタンブール・トルコ(7/13-14、8/20-21)
イスタンブールは今回の飛行機の発着点のため、旅の初めと終わりに二度訪れました。最初アヤソフィア行こうとして行列すぎてやめて中心部ぐるぐるして終わって、旅の最後には観光地の詐欺師の多さに呆れていました。道が車だらけでずっと渋滞しています。あとめっちゃ暑い
カウチサーフィンで出会ったホストの話
この滞在は、カウチサーフィンのこと抜きには語れません。金なし貧乏学生の私にとって宿泊費が大きなネックとなっており、なんとかしようと事前にいろいろ調べた結果行き着いたのが、無料で宿泊場所を提供してもらえるカウチサーフィンです。最初は無料滞在に惹かれて始めましたが蓋を開けたらそれだけではなく生活や文化を知るとても貴重な体験でした。滞在したお家について匿名ですが書いていこうと思います。
①Aさん
Aさんはこの滞在で一番お世話になった方です。ベルリンでの最初の一週間と最後の一週間、合計2週間お世話になりました。この方はベジタリアンでしたが私が勝手に肉を食べる分には問題ないと言ってもらいました。とはいえ家の人が食べないと自然と私も食べる量が減った気がします。作ってもらったベジタリアン料理を一緒に食べたり、人生初の白ワインを飲んだりと、とてもよくしていただきました。この方はドイツ語教師であったため私のドイツ語学習を積極的に手伝ってくれて、宿題の分からないところを聞いたり新しい文法を教わったりしました。私はこのようにとてもよくしてもらって居心地が良かったのですが、この方にとって私が良い訪問者であったかどうかは分からないです…言語の壁もありますし会話を続けるのが難しい時もあったので。文化交流が主目的のカウチサーフィンで、語学が足りないのはとても難しいことなのだなあと終わってみて思います。
②Bさん
この方のお家には3泊しました。女性二人のシェアハウスのお家で、どちらの方もオープンマインドで数々の旅行者を受け入れた経験があるようで会話を広げるのもとても上手ですごく助けられました。この家での滞在が終わった後にもう一度会って、その方が普段使っているアトリエを見せてもらいました。ベルリンのアーティスト事情や助成金の話などを聞き、専門用語が出ると理解度がガクッと落ちるので分からないことが半分くらいだったのですが、翻訳や英語を駆使して会話を続けてくれたBさんには感謝しかないです。
③Cさん
Cさんの家には4泊しました。
Cさん自身は仕事があるため平日はほとんど家におらず、イランから来ているCさん家族(母と娘)と一緒に滞在してました。とはいえ家族は英語もそんなに話せないようで私もそんなに話せないのでコミュニケーション手段がなく、正直そんなにコミュニケーション取れなかったです。
この母娘は昼になってもずっと寝ておりどっか出かけたり仕事とかしないんだろうか…と疑問に思っていたら23時くらいにいきなり車に乗ってどこかに行き出して、???となる。次の日Cさんに聞いたら「二人は病院で働いている」と。納得。
最終日、私が出て行く時にお母さんの方がちょっと涙ぐんでて正直そこまで交流を深められたわけではなかったのにそこまで思ってくれていることが意外で、すごく印象に残っています。シャイで思いやり深いところは少し日本人っぽいのかもしれない。
家族がご飯を食べる時、必ず私の分も作ってくれました。おやつもくれました。言葉はわからなくても優しさだけはずっともらっていました。
④Dさん
Dさんは、Bさんの実のお母さん(確か86歳くらい)。Bさんに「8月の泊まるところがまだ決まってない」と言ったら「お母さんに聞いてみてあげるよ」と言ってくれて、OKしてもらいました。Dさんのお家には5泊しました。
面白かったのが、どの国のおばあちゃんも面倒見たがりでおせっかいなとこは変わらないんだなと思った出来事。Dさんが毎朝ムスリっていう豆乳とフルーツと豆みたいなやつをあっためたものを食べており、食べる?って聞かれたから食べてDas schmekt mir gut, danke(おいしいよありがとう)っていったらその日から3日連続朝にムスリを出された。流石に飽きた。
Dさんの家にはDさんのお友達の娘?も同時に泊まっていて、その人(バルセロナに住んでいて、ベルリンにはダンスのワークショップを受けに来ている)とDさんと私でよく話した。湖に行くなら日焼けしたくないのとあんまり露出したくないからラッシュガード着たいって言ったら「あなたは水をダイレクトに感じたくないの!?」って言われた(笑)
総支出
詳細にはちゃんと計算するのが大変なのでは把握していませんが、ユーロが一番高い時の渡航だったのでかなり頭を使いました。宿泊費が浮いたおかげで本当に命拾いしました。
飛行機は4月中旬に東京-イスタンブールで113,000円で往復取り、イスタンブール-ベルリンは片道21,000円くらいでした。ベルリンにいた時の交通は面倒なのでDeutschlandticket(49€)で全部カバーしました。
宿泊費の分ポーランドに行けたりと有意義な時間に。ポーランドで31,000円、ウィーンで11,000円、ヴェネツィアで33,000円、ブダぺスト、イスタンブールで25,000円くらい使いました。(食費は入れず)こうやって書き出すと恐ろしいですね。ホテル、飛行機、観光代など含めたら結構頑張った方だと思うんですけどね…
DAAD奨学金でもらった金額のうち1/2が語学コースの費用に消え、1/4が飛行機、もう1/4だけ手元に残る、といった感じでした。その手元に残った分で旅行とかして結局は貯金頼りになりましたが。なぜ帰る時になってユーロが暴落するのか意味分かりません。怒りです。
DAAD奨学金(HSK)について
HSKはドイツ研究が専攻でなくとも応募できます。学部2年生以上で、ドイツ関連学科の学生はB1以上、その他の学生はA2以上の語学証明が必要です。
私はドイツ語の検定などを受けたことがなかったため、面識もない大学のドイツ語の先生にメールして無理やり証明書を書いてもらいました…
その他志望動機や手続きは英語で、ほぼ翻訳機頼りでした。高校の成績証明書(英語)などは手続きが面倒で、日本語の証明書に自分で英訳をつけたりしていました。プロフィールはCanvaで海外の履歴書のフォーマットを調べてそれっぽく作りました。
なぜフンボルト大学に応募したかというと、ドイツの都市の中でもベルリンは学生が多くて賑わっていることや昨年も訪れているためある程度土地勘があって安心できる。フンボルト大学の語学コースは午後に美術館や博物館に訪れるなど文化プログラムが充実していたことなどが理由です。
ここには書ききれないこともいろいろある
んですけど、公開するのはこの辺にしておきます。ドイツ語の勉強はこれからも続けたいと思っているのでモチベーションが保てるように学習環境を維持したいと思います。。。(今ドイツ語圏離れて2週間経ち既に不安がいっぱい)最近ハロートークでドイツ語で駄弁っているチャットの輪に入ったりしてみている(そんなことより単語やれって話なのだが)帰国すると平和ボケしますね…(甘え)
卒業したら時間もしっかり取れることが減ると思うので難しいかもしれませんが、またヨーロッパに行きたいです。ルーマニアやエストニア、王道なところだとイギリスにも行ってみたい。
執筆:2024.8.31
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