区切りはないけど、区切りは必要
母の四十九日がすぎ、そして納骨が終わりました。
そして、生前母の希望であったであろう、明石海峡への散骨も終わりました。
母がいなくなったこの世界に慣れることはあまりないけれど、でも区切りというのは必要で、そして四十九日はうまくできていると心のそこから思います。
不思議なほど、この四十九日までの間は涙にくれるというよりも日々を必死にすごすという表現が的確でした。
毎日、
「ああ、もうお母さんはこの世にいないんだな」ということを朝目覚めたときから夜寝るときまで、瞬間瞬間を思い続けるのですが、なんというかいつもいつも涙にくれるというわけでもなく、、、、、
その中でむかえた散骨、、、
母は死してなお、私に新しい経験をくれました。
それがとっても私の母親らしいというか、なんというか
粉になった、母の遺骨の一部は、お花とともに明石の海に流れていきました
母が生まれて愛した故郷の明石に帰してあげれてよかった。
7歳の息子は乗船したときはそうでもなかったのに、いざ散骨をして流れていくお花と遺骨を見ながらずっと船上で泣いていました。
お母さん、りんたろうはちゃんとわかってるね。お母さんにもう会えないこと、そして遺していった想い出を。
お葬式も亡くなった方とのお別れだと思うけれど、四十九日をすぎてからの散骨は再びお別れをした気分です。
区切りをつけること永遠にできないかもしれないけれど、こういう儀式的なことでしか気持ちは前へ進めない。
それも学びました。
親を見送るというのは、本当に辛くて悲しい。
でも、母が遺してくれたものは本当に大きく、いなくなってもなおたくさんの学びをくれました。
自己満足だけど、船の上で
「ゆきちゃん、ありがとう」という母の声が聞こえたような気がしました。
お母さん、ありがとう
りんたろうが幸せな人生を歩めるようなサポートを全力でして、私も幸せに生きるから安心してください
やっぱり、私はあなたの娘に生まれて幸運だったよ
ありがとう
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