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個と社会の摩擦をいかに和らげるか。
いつか個別最適解と向社会性について書いた気がするんだけど、周り回ってまた考えあぐねてるから今書いているのがけれど。多様性をぶち壊す多様性を認めないというのは一貫してる。
例えば学校のクラスを考えた時に、通常学級と特別支援学級で棲み分けされる。
現場のインクルーシブは、“平等”に分配される教育環境下で共生している訳だけれど“平等”であるが故に障壁は、時間と社会資源が十分に補えない昨今の現場ではお綺麗事のロマンで終えてしまいがちである。
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現場に従事している先生達ばかりが責め立てられるのはお門違いだとどれだけ言っても、被害者意識が癒されることはない。
配慮を要する“個人”の度合いとセットで、一社会の住民、あるいは集団の一員の理解や共生が受け止められるような仕組みだったり、精神的な面での成長だったり。
所謂ギフテッドな子達を切り離して、才能を伸ばすというのも出る杭を打たせない論法では分かるけどそれで育って本当に大多数の人類のことを考えられるのか?
社会的動物であるという事を改めて思い返す。