間違っちゃあいないけれど正しいことでもない話

これ外国の人には通じるのか

民俗学の本なんかを読んでいると、「イエ」やら「ムラ」やら「カミ」という片仮名が出てくる。この「イエ」は木と紙とモルタルでできた家とは異なる。どちらかというと、家族制度を指すときに使う場合が多い。「ムラ」もいわゆる「村落」ではなく、それを構成する精神性について語るときに使う。「カミ」と「神」も異なる。「神」はスーパーゼウスのような形状のベタな神が浮かぶが、「カミ」というと「八百万の神」のような汎神論的見地からの神が近い。
このように、日本語は漢字と片仮名、さらに平仮名を微妙なニュアンスで使い分ける難儀な言語に思う。もっとも、私は日本語以外に話すことはできないので一概に難儀と断言することもどうかと思うのだが。
それはそれとして、上の例は、同じ音だが意味が異なる例である。


様々なサマのさま


次に、似たような事例で「様」と「サマ」について考えてみたい。これは意味は同じだが、片仮名表記の「サマ」については少しの揶瑜が込られているように思う。例えば、山田様と山田サマではその印象がずいぶん違う気がするのだ。私だけなのかも知れないが、何とも言えぬ違和感がある。画数による視覚的な問題かもわからないけれども「山田さま」は別にアリだ。
ただ、少なくとも「サマ」は公的文書に使用することは適わないことは明らかであり、職場などで使用することは控えるべきであろう。



軽薄をケーハクと書いていたこともあったような


そして、いつも嫌な感じなのが「ケータイ」である。機械自体が世間に出回り始めたときは、広告などでも「携帯電話」と表記していたはずである。だが、いつしかそれは「ケータイ」にとって替わられ、私を不愉快にする。
具体的は覚えていないが、「ケータイ」も始めは「サマ」のように揶瑜をこめた使い方だったように思う。しかし、今や一般的な用語として「ケータイ」は流通している。
確かに、電話番号とメールといった表面的かつ浮薄な繋がりに支配されやすい人々にとって「携帯電話」は重くて大仰だ。

文字そのものの見た目のこと

『炎』(バーン・コーポレーション)の何号か忘れたが、日経新聞の広瀬融氏が「BURRN!になぜ漢字が多いか」(「さらに硬いロックの話」のような題だったと思う)という論文を寄稿していた。
それは、BURRN!におけるミュージシャンの名前が片仮名で長い(例:イングウェイ・マルムスティーン マーティー・フリードマン ジェイムス・ヘッドフィールドなど)ので、新聞紙レベルで漢字を開くと紙面が白く軽くなってしまうという指摘であった。また、漢字特有の硬いフォルムがより一層「メタル」というジャンルの音楽にマッチしているという。
その真偽はともかくとして、字面が視覚を通して人に与える影響というものは、決してゼロではない。それゆえの「ケータイ」なのだ。

社内共有のメモ程度でも俺は許容できない

話は戻るけれども、「様」であろうが「サマ」であろうが敬称には変わりない。但し、それは音の上でのことである。細かいことかも知れないが、「サマ」と書くことが失礼にあたるという感覚は忘れてはならないと思う。サービス業ならばそれは尚更だ。
間違いではないからと言って、正しいとは限らないことをおこなうことは、最大公約数を相手にする業種では通用しない。一般の「常識」は間違いなく存在するのだから、それに準じることが業務である。

職場としてどこで線をひくか。それは難しいことである。「サマ」はダメだけど、じゃあ「さま」はどうか。単なる敬称の問題に過ぎないかもしれないけれども、このようなことをなし崩しにしていては、ほつれがどんどん大きくなると思う。

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