バイアスの話

数少ないトップダウンのイベント


春の連休が終わった。職場は大阪駅に隣接する某量販店ゆえに、たくさんの来客があった。また、その期待に応えるべく種々様々な催事がおこなわれた。 私は通常の売場とは別に催事の担当でもある。催事の大体は手作り作家さんを呼んで、適当になにかおこなってもらうのだ。しかし、他店ではそのようなことはあまり開催されていない。というわけで、連休や盆暮れ正月には本社のヤツがお節介を焼き、全店実施企画としてなんらかの手作りイベントを送りつけてくる。 では、そのイベントは誰がしますのん?という点が問題となる。それは、他ならぬ現場の従業員がおこなうのだ。そういうわけで、私は今回は「木のスプーンを作ろう!」なる催事の先生を勤めることになった。
作業的には、予め型をとった木材を普通のカッターナイフで削り続け、ヤスリをかけて蜜蝋を塗るだけである。刃物を使うので、怪我人がでないようにさえすればよい。

有限な時間についての配分


それはそれとして、久しぶりに本を読んだ。このところマリオカートの精進に勤しんでいたので、読書の時間をまったくとっていなかったのだ。また、それと同時に本屋に出かけても真剣に書架と向き合う気分になれなかったのである。 このようなときは適切に距離をとり、まったく書物に触れないことにしている。これは読書にかぎらず、あらゆる趣味・関心事、人づきあいにも適用される。平たく言うと「縁があればまた会うさ」というやつだ。 そして、ようやく本屋にいく気分になったので『悪魔の話』(池内紀著:講談社学術文庫)と『幻想ギネコクラシー』(沙村広明著:白泉社)を買った。読書と言っても、一冊は漫画である。


内心を相対化することの大切さ


『悪魔の話』は、西洋における悪魔の立ち位置とそれが生まれた背景について記したものであった。軽く基督教をディスっているところが面白い。悪魔の流れで魔女についても少し触れている。両者について共通する指摘だが「彼らが地上で一度も存在したことはないが、何世紀にもわたり一般に信じられていた。人々が事実だと思いこむと、実際に事実である以上に、いかに社会的判断力に影響を与えるものか」という点が興味深い。 人は自身の判断を常に「合理的」であると信じている。しかし、それには無数のバイアスがかかっており、かつてマンハイムの言った「存在非拘束性」から逃れることはできないのだ。


自分でやらへんのやったらもう帰れや


 スプーン作りに話は戻るが、ある参加者のご婦人が「ちょっとここだけ削ってけれませんか」と私に制作中のスプーンを差し出した。とてもめんどくさい気持ちになりながらも、少しぐらいならまぁいいか…と思い、ザブザブ削った。ご婦人は「やっぱり手つきが違うわね!」と感嘆した。それが本心なのかお世辞なのかはわからないが、私のカッターナイフ捌きは別に一般人と同レベル、若しくはそれ以下の技術と経験値しか無い。スプーン作りについても、試作すらせずにぶっつけ本番で挑んだのだ。


ひとはそれを空疎と呼ぶ


弊社の店員は「何でもできて、何でも知っている」という都市伝説が一部であるらしい。その内情は「素人の集まり」であり、単に「それっぽく見せる」という点を特技としているに過ぎない。 ご婦人もその都市伝説に騙されており、先に述べた「人々が事実だと思いこむと、実際に事実である以上に、いかに社会的判断力に影響を与える云々…」を体現しているように思う。 むかしブルーハーツが「中身はなくともイメージがあればいい」と歌っていたが、世の大半はそういうものなのかも知れない。

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