魔王と勇者(上巻)
突然の停戦要求。
だが、決着は既についていた。
三日三晩闘い抜けて勇者は、魔王の足元に崩れ落ちた。
魔王と勇者
第一章
豊かな大地、暖かな太陽の光、丘を吹き渡る心地好い風。
せせらぎのほとりで、王女は心を痛めていた。
傍らにはべらせていた、簡素な鎧兜の近衛に声を掛ける。
「見なさい」
王女が差し伸べた腕の先には、瘴気に枯れ野、荒廃しきった大地が広がり、暗雲が立ち込めていた。
「魔王の力は、我が国までも蹂躙し始めている」
呟いた王女は淋しそうに、その場を後にした。
残された近衛が一人。目を凝らせば闇にそびえる崖の上、いびつな形の古城が黒雲を纏っている。
明日は哀しい日になるだろう。
祖国を護るため王女は要求に応じ、魔王に輿入れる事が決まっていた。
その日の夜だった。
王女は寝付けず、バルコニーから月を眺めていた。
魔王に見初められた王女は、申し出を断ることも出来ず、とうとう、この日まで来てしまった。不安や恐怖は計り知れる物ではない。
「──エリシール様」
ふと、背後から名前を呼ばれ、王女は慌てて涙を拭った。振り返ると鎧兜の近衛の一人が、王女の寝間に立ち尽くしている。
「ガルト…」
近衛は重々しい兜を脱ぎ去ると、一礼した。
「扉を叩いても返事が無いものだから…夜分遅くに、済まない」
「いいえ、頭を上げて。最後に貴方と話をしたいと思っていたの。明日は、そんな時間取れないだろうから…」
精一杯の笑顔を向ける王女を、近衛は真っ直ぐに見詰め返した。
短い銀糸の巻き毛に、淡く青い瞳、鎧を纏っていても細身の体躯に整った顔立ちは、王女に引けを取らない程に、美しい。
「どうしたの?そんな所に居ないで、こちらへいらっしゃい。今夜は、とても月が美しいわ。ほら、星が瞬いてる」
近衛はかぶりを振った。
「おいとまごいに参りました」
その言葉に含みがある事を、王女は直ぐさに気が付いた。
「待って、ガルト!!」
礼して退出しようとする近衛に向かい、王女は駆け寄り腕を掴んだ。
「二人の間に隠し事はしない約束でしょう!? お父様に一体何を吹き込まれたの!!」
近衛はぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばる。
「ガルト!!」
王女に問い質されると、近衛は観念したかのように言葉を紡いだ。
「──魔王の迎えの馬車には、私が乗ります」
「そんな…何を言いだすの…そんな事、魔王がゆるすはず…」
近衛の瞳は真っ直ぐに、王女に向けられた。瞳の輝きに、決意が固い事を思い知らされる。
「王女が民を愛し、祖国を護ろうとする御心と同じ。
私もエリシールを愛し、護りたい」
王女は言葉を失い、何も言い返せなかった。
愛しさが溢れ、近衛は王女の華奢な体を抱き寄せた。
「──貴女の、友であれて良かった」
耳元で囁いて、王女の寝間から立ち去った。
──あくる日。
近衛は国王に謁見していた。玉座に座る国王を前に、膝を着く。
「よくぞ我が国の為に立ち上がってくれた! 英雄ガリウスの子よ!」
国王の言葉に近衛は足元を見詰めたまま、うやうやしく答えた。
「必ずや、魔王めを討ち果たして参ります」
「うむ、頼もしいぞ。
──思えば、其方が『仕官したい』と申した時から、こうなる事は運命付けられていたのやも知れん。若しくは、ずっと以前より」
近衛は更に深々と頭を下げ、ひっそりと眉をひそめた。
「勿体無きお言葉。魔王は我が父の憎き仇にございます。仇討ちの機会を与えて下さり、深く感謝しております」
「ガリウスは我が竹馬の友、友の子は我が子同然、そう硬くなる仲でもあるまい。面を上げなさい」
近衛は凛として国王を見詰め、微笑んで見せた。
「親の無い私を、陛下は愛息子のように接し、育ててくださいました。今日の私が在るのも、陛下の寛大な御心にございます。感謝の気持ちは、言葉では言い表せない程にございます」
ふと、国王の隣の玉座が留守なのが気になった。
「エリシール様は…」
「影武者の存在を気取られぬよう、早朝、郊外の砦に送った。少し寂しいが、其方が魔王を討ち取るまでの辛抱だ」
「さようでございましたか…」
近衛は少し遠くを見詰め、残念に思う。最後に、エリシールに一目逢いたかった…
「では、私は支度がございますので」
「うむ。良い知らせを待っておるぞ。
英雄ガリウスの子、ガルトに神の加護のあらんことを!」
花嫁の煌びやかな純白のドレスに身を包みヴェールを深く被り、愛刀一振りをスカートの膨らみに隠して、近衛は魔王の迎えの馬車に乗り込んだ。
──願わくば、祖国の大地にもう一度、足を着く日の来ることを──
近衛が旅立って間もなく王国付きの占い師が、玉座に座る国王にそっと耳打ちした。
国王の顔はみるみる蒼ざめ、まるで信じられないと目を見開いた。
「まさか、そんな事がある筈が…」
「陛下にもお心当たりはございましょう。英雄ガリウスの力は人間のそれを軽く超えておりました。
その子息であるガルトも、また…」
「……」
国王は暫し瞑目する。
「──余は友を信じ、その子のガルトも信じておる。必ず、魔王を討って帰ると」
「陛下! 感慨に呑まれては心眼を見失いますぞ!」
国王はゆっくり玉座から立ち上がると、占い師に背を向けたまま言った。
「其方の言うように、ガルトが魔王を討たずに戻って来ることがあったなら…その言葉、考えてやらんことも無い」
国土を取り巻く暗雲は、城壁の中にまで立ち込み始めていた。
第二章
断崖の遥か上にそびえ建つ、黒雲を纏った黒い古城。太陽の光が一切差し込まないその土地では、草木は痩せ荒れ果てている。
魔王城の名にふさわしい奇妙ないで立ちの天守は、厚い雲に包まれていて窺う事が出来ない。
花嫁姿のガルトを乗せた馬車の黒馬が高いいななきを上げ、背中に翼をはやして断崖を駆け上った。
雷鳴轟く魔王城の外庭に馬車が降り立つと、おどろおどろしく重たい鉄の扉が開き、ガルトを招き入れた。
ガルトはスカートの裾をたくし上げ、ゆっくりと、魔王城に呑まれて行った。
蜘蛛の巣の張ったシャンデリア、エントランスの二股に湾曲した階段には、朽ちた赤い絨毯が敷かれ、二階手すりの中央に肘を着く人影があった。
「ようこそ我が城へ、エリシール」
こいつが、魔王…
浅黒い肌に硬い黒髪、こめかみからうなじにかけて、悪魔特有のねじれた角が覗いている。外見は若く、自分と同い年程にしか見えない。漆黒の礼服を着込んでいる魔王の姿は、虚勢を張っている様にしか映らなかった。
魔王は背に蝙蝠の様な翼を広げると、手すりを蹴って吹き抜けを飛び降りた。
ガルトは俯き、ヴェールに顔を隠す。
魔王の深紅の瞳が、ガルトの爪先から頭までぎょろりと動いた。
「…ふうん。喧嘩売ってんのか? グラハム二世は」
全身から汗が噴き出した。魔王はヴェールの下の顔も見ず、目前の花嫁が影武者だと気取った。
「お前、エリシールじゃないな」
思っていたよりも相当早く、正体がバレてしまった。くそッ…隙を衝いて首を落とせればと思っていたが、甘いか…!
ガルトは後方に跳ね間合いを取ると、纏っていたドレスを脱ぎ捨て、刀を腰に据え魔王に向かって居抜いた。
ギインッ
刀身を浅黒い爪で掴み、魔王はニィと口角を上げた。
「はは、どうせこんなこったろうと思ってたよ。仕方ねぇな、暇潰しには丁度良い」
易々と剣筋を見切られ、ガルトの眉間に皺が寄る。魔王の息が掛かりそうなほど間近に居るのに、掴まれた刀はぴくりとも動かない。
「精々、楽しませろよな」
「──ほざけ。刀の露と消えろ」
魔王はひゅうと口を鳴らした。
「へえ、怖い怖い! 威勢が良いね、気に入った! 俺の嫁になるか!?」
「世迷いごとを…私は英雄ガリウスが一子! 貴様に殺された父の仇、討たせてもらう!」
「ガリウス? 知らないなぁ。こんな顔の奴、居たかな?」
「私は母親似だ!」
ガルトが蹴り飛ばすと、魔王は漆黒の翼をはためかせ天井まで飛び上がった。
「はははッ、面白くなりそうだ!」
魔王と勇者の一騎討は、三日三晩に亘り繰り広げられた──
頭が朦朧として体が言う事を利かない…
体力の差は歴然だ、もう、痛みすら感じない…
「お前も限界みたいだな。俺も魔力がすっからかんだ。
どうだ。ここらで一つ、休戦しようじゃないか。お互い体力満タンじゃないと、楽しくないだろう?」
余裕あり余った面しやがって…
ちくしょう…
私では、歯が立たない…
第三章
朧気に目を開くと、煤けた見知らぬ天蓋が広がっていた。
自分がどこに居るのか分からない。
石造りの部屋は薄暗く、古い家具や天井には、ところどころ蜘蛛の巣が張っている。
視線を回し、悪魔像の灯篭が見えた時、漸く、ここが魔王城だと知る。
ガルトは慌てて身を起そうと片腕を着いた。疝痛が走り、苦悶して腕を見詰めた。
「──手当してある…」
よくよく見れば体中に包帯が巻かれ、ベッドに寝かされていた。
ガルトは立ち上がり、シーツをめくって頭から被り、悪魔像の灯篭から蝋燭受けを外し持つと、そっと部屋戸を開き様子を伺い、ふらつく足元で部屋を後にした。
魔王城の廊下は闇に包まれ、蝋燭の光では先が見えない。青い絨毯の左右には、今にも動き出しそうな甲冑や石像が飾られているが、どれも埃と蜘蛛の巣だらけだ。
ふと、蜘蛛の巣が揺れた。風を感じる…
おぼつかない足取りに躓きながら、ガルトは空気の流れ込む方向に歩いた。
螺旋の登り階段から強く風が吹き込んで来る。恐る恐る壁を支えに、一段一段階段を上って行く。
どれだけの間、上っていたか分からない。
急に辺りが光に包まれ、目が眩んだ。久しく浴びていない、暖かな太陽の光。
「気が付いたか」
バタバタと飛び立つ鳥の羽音。
朝日を背に、抜けた窓枠に座っていたのは、魔王だった。
逆光に眩しく、魔王の姿が直視出来ない。
だんだんと目が慣れるのと同時に、魔王の元に逃げた小鳥が集って来る。
「……何を…」
「何をって、鳩に餌やってんだよ」
純白の鳩を纏わせ、微笑む魔王に度肝を抜かされた。魔王に小鳥に餌をやるなどと、慈悲の心が有るなど夢にも思わない。朝日を背にした光景は、この世のものとは思えない程に、神々しい…
「ずっと眠ってて腹が減ったろ。こいつらに餌やり終えたら飯にするから、先に食堂に行っててくれ」
「う?…うん…」
ガルトは素直に頷いていた。
「階段下りて直ぐ、右隣の扉が食堂だからなー」
背を向けたガルトに魔王は付け加えた。ガルトはこくりと頷くと、階段を下り始めた。
「──はは、面白ぇ奴」
天井の高い広い食堂の壁には、歴代魔王の肖像画が並べられていた。
中央の長テーブルの椅子に腰掛けると、ガルトは辺りを訝しんで見回した。どの肖像画もこちらを睨んでいる様に見えて落ち着かない。
くん…
こうばしい香りが鼻をくすぐり、ガルトは思わず腹の虫を抑えた。
「何だお前、そんな末席に座ったりして。さては平民出の下郎だな?」
「下郎では無いが」
魔王はニシシと笑いながら、両手に持っていた皿の一つをガルトの前に置き、隣の席に腰を据えた。
「こんな時くらい上座に座ったら良いじゃねぇか。でーんと構えてりゃ、俺様に牽制出来たろうによ?」
「王と食事を共にする時は、いつもこの場所だったんでな。貴様こそ、仮にもこの城の主だろう。上座へ行け、隣に座るな」
「はは、つれないねぇ」
魔王のぼやきはガルトの耳には入っておらず、目前の皿に目が釘付いている。
「──食って良いぞ」
言葉を聞き終える前に、ガルトは皿の肉塊にかぶり付いた。パリッと弾けた皮の内側から肉汁が溢れ出て来る。
「美味い!! これ、何の肉だ!?」
「鳩」
「さっきの!!」
先刻の平和で神秘的な光景を創っていた一部だと知ると、何だか涙が出て来る。
「そうか! 泣くほど美味いか!」
「う…うん。表面のこんがり具合とジューシーな肉汁とが、何とも…」
泣きながら美味そうに平らげるガルトを、魔王は満足そうに見守った。
ひとしきり食べ終えると、空腹にぼんやりしていた意識もはっきりしてきた。
ふと、ある事に気付き、疑問に思う。
「──魔王よ」
煙草に火を点けかけて、魔王は顔を向けた。
「 “ディ” だ」
「デ…ディ?」
「そう、 “ディ” 。俺の名前だ。そういえば、お前の名前訊いてなかったな」
「わ…私か? 私は、 “ガルト” …」
「そうか、ガルト。何か訊きたそうだな」
もの凄く気になっていた。
「何でディは、服を着てないんだ?」
漆黒の礼服はどこへやら、かろうじてズボンは履いているものの、裸足の上に上半身は何も羽織っていなかった。魔王が苦笑して返答する。
「 “服を着る” だなんてのは、お前ら人間の習慣だろ? 今だってお前に合わせて、下は履いてんだろう。お前だって今素っ裸じゃねぇか」
「私は! 着るものが無かっただけで…素っ裸じゃない! シーツ被ってるし!」
もっともだ。と、思ったことは内緒にしとこう。
「そんなシーツにくるまってないで、裸になっちまえ。引っぺがしちまうぞ」
「それは困る!」
おどけた魔王の手が伸びて来て、ガルトはシーツを強く掴んで身を引いた。
凛とした、青い瞳で真っ直ぐに見詰められ、魔王は目を薄くした。
「お前そんな布切れより、花嫁の衣装の方が、うんと似合ってるぞ」
「からかうな!」
不意の魔王の表情を間近に、ぽっと顔から火が出そうになり、ガルトは頬に手を当てた。
「いやいや、本当だって。お前、美人だよ。下手するとエリシールより綺麗だぞ。麗人てやつか?」
「……」
子馬鹿にされているとしか思えんのだが。
「お前らの大好きな天使だって、すっぽんぽんじゃねぇか。何か着ている方が不自然なんだ」
「私は何か着ていないと落ち着かん」
「じゃあ、俺も落ち着かないから何も着なーい」
初めて魔王と対峙した時、虚勢を張っている様に見えたのは、慣れない礼服でめかし込んでいた所為か。口笛混じりにそっぽを向く魔王を、白い目で見ずにはいられなかった。
「ガルトは国ではどんな仕事をしてたんだ? 兵隊か?」
「私は…」
答えかけて、はた、と気が付いた。魔王と和やかに食卓を囲める身では無い事を。
「私はエリシール王女直属の近衛兵長だ! 国王の勅命にて、貴様を討…」
椅子から立ち上がり、構えた右手が空を掴んだ。
「…貴様、私の剣を、どこに…」
「そこ」
魔王が顎で指したのは、天井近く高さの有る、ひときわ大きな肖像画。描かれているのは人々に魔王の存在を知らしめ、恐怖に陥れた先々代魔王。目を凝らすと、額に何か刺さっている。ガルトは慌てて肖像画に駆け寄った。
「と…届かない…」
「あはは、羽根の無ぇ人間がどんなに頑張っても取れんだろ。諦めろ」
それでも懸命に背を伸ばし腕を伸ばすガルトを、魔王は笑って見守っていた。
「面白ぇ奴」
暫く飛んだり跳ねたり頑張っていたガルトが、急にうずくまった。
「おい、どうした」
小さくうめくガルトの肩に、魔王が手を当てる。
「──腹の傷が、開いた…」
「馬鹿か! 傷だらけなのに動き回るからだ!」
「貴様が付けた傷だろうが…」
軽口は聞かず、魔王はガルトを抱き抱えた。纏っていたシーツに赤い染みが広がっている。
「完全に開いたな」
食堂を出て廊下を右へ、階段を上り魔王はガルトを、広さの在る部屋に連れて行った。家具は年季が入っているものばかりだが、蜘蛛の巣も埃も、この部屋には見えない。
「ここは…」
「俺の部屋。他所よりは綺麗にしてるからな。縫い直しだ」
魔王は大きな天蓋のベッドにガルトを横にした。机の抽斗から出したのは、裁縫用の針と絹糸。シーツを剥ぎ取ろうと伸びた腕が、掴まれ止まる。
「──縫ってやるって言ってんだろ」
「どういうつもりかは知らないが、これ以上、塩を贈るような真似はよせ!」
「あのなぁ…」
魔王は眉間に手を当てて、椅子を引き寄せ腰掛けた。
「俺達は今、休戦中なの。敵でも味方でも無いんだから、手当てするもしないも俺の勝手だ。お前に元気になってもらわねぇと、俺が困るし」
「はっ、何が困るんだ、たかだか人間だろう」
鼻を鳴らすガルトから、魔王は言いにくそうに視線を逸らす。
「──俺の婚姻を祝って、宴が有るんだ」
「それが私と何の関係があるんだ」
「……」
魔王は肌の色に分かりにくく頬を赤らめ、鼻を掻いた。
「魔界のお偉いさんが、この城にわんさか集まるんだよ。それが、嫁さんに死なれたとあっちゃあ、俺の立場ってもんが…魔族にも体裁は有るんだよ」
「貴様の体裁なんぞ、クソ喰らえだ」
話が伝わらず、魔王は頭を掻き毟った。
「本当なら、ここに居るのはエリシールの筈だろ! それをお前がぶち壊したんだ! 責任取ってもらわねぇと困るんだよ!」
「──だから、私を生かしておくのか」
なるほど、納得した。魔王はハナから殺すつもりじゃ無かったんだ。適当に痛めつけて休戦に持ち込んで、恩を着せて言いなりにさせたかっただけなのだ。
花嫁役が──必要だったから。
最初から相手にされず見下されていたと知ると、ガルトは無性に腹が立って来た。
「生き恥をさらすくらいなら、死んだ方がマシだ! 殺せ!」
ガルトは大の字に手足を広げた。
「お前に死なれたら困るって、言ってんだろ!」
「花嫁役なら、そこらの人間を攫ってくればいいだろう! 私は御免だ!」
魔王がベッドに這い上がり、ガルトの両腕を強く掴んだ。
「俺は、ガルトが良い!」
「なッ……」
思わず開いた目に映るのは、眉を八の字に懇願する魔王の顔。
「最初は、確かに影武者立てられて腹が立ったよ。それは認める。
──だけど…果敢に挑んで来るお前の姿、傷付いても歯を食いしばって立ち上がるひたむきさ、倒れるごとに輝きを増す瞳を見て、確信したんだ。
俺は、ガルトが良い。嫁にするなら他の誰でもない、ガルトが良い」
「何を…世迷いご…」
魔王はガルトの言葉を、人さし指で封じた。ガルトの双眸が驚き見開く。頬を撫でる掌は、温かい。
「俺の嫁さんになるなら、綺麗なだけじゃダメだ。肉体も精神も強くないと、この魔界で人間は生き残れない。
──分るか? 闘っている姿に、ガルトに、俺は惚れたんだ」
魔王が私に惚れているだと? 冗談じゃない…だけど… 不思議と、嫌な気持ちはしない…
ガルトは「はぁ」と息を吐くと、呟くように言った。
「残念だったな、私は男だ」
「馬鹿か、お前。こんな胸に膨らみの有る男が、この世界のどこに居るってんだ」
「は??」
「そんな陳腐な嘘で、俺様を出し抜けると思うな。ほら、本物じゃねえか」
魔王は呆れながらぽんぽんと、ガルトの胸に手を置いた。ガルトは尚も不思議そうな顔をしている。
「え?? だって、父さんも母さんも、城の者たちも国王だって、私は男だと、末はエリシールの花婿だと…あれ???」
「お前の周りは馬鹿しかいないのか。訳が分からんな」
ガルトは、英雄ガリウスの息子として、男として、武人として恥じない教育を受け、育った。
隠すことも無く、比べることも無く、男社会に認められて生きて来た。
城の給仕に、兵士に、国王に、誰もが知っていただろう。その上で、王女の許婚を赦されたのだ。
──それが、覆された瞬間だった。
第四章
夢を視た。
哀しい夢。
何が哀しいのか、目醒めてしまってからでは思い出せないが、ただひたすらに、涙が溢れ流れ続ける。
ふと、背後に温もりを感じて、我に返った。
「……ディ」
振り返った先には、紅い瞳。
「何で貴様が隣で寝てるんだ」
「何でって。俺達、夫婦だろ」
ガルトの片腕が魔王を突き放す。
「俺のベッドなんだから、俺が寝てても構わんだろう!?」
「構うわ!! 夫婦になった覚えも無い!!」
怒鳴りながら纏わり付いた腕を引きはがし、起き上がって辺りを見回す。
「──そう言えば、私の服は?」
「お前の服なら、血まみれのズタボロだったから、捨てた」
キッとガルトに睨まれ、魔王は慌てて起き上がり、部屋の片隅の衣文掛けから、一着差し出した。
それは、魔王と初めて対峙した時に着用していた、張り子の礼服。
「俺の一張羅だけど、貸してやるよ」
ガルトは魔王から礼服を奪い取ると、いそいそと袖を通した。
「おー、ぴったりじゃねぇか、丈は余ってるけど」
何やら釈然としないまま、ガルトは黙って部屋から出た。
ガルトが大股に進む廊下を、魔王がひたひた裸足で着いて来る。
「どこに行こうってんだ?」
魔王は追いかけながら、にやにやと笑っている。向かう先は想像にかたくない。
魔王城の正門を抜け庭を抜け外門を潜り、ガルトは足を止めた。
切り立った絶壁の下は、霞がかかり高さも計り知れない。吹き上げる強い風を避けるように、ガルトは振り返った。
「──他に、出入り口は?」
「城の地下に勝手口が在るけど?」
含み笑いをしながら、魔王は後方を指差した。
再びエントランスを抜け、大階段から玉座を抜け、地下への階段を見付けて、錆びた鉄扉の勝手口までやって来た。
油の切れた鉄が鳴く。
そっと頭を出し様子をうかがうと、扉の先は煉瓦壁の隧道になっていて、こちらは進めそうだ。
……
……
……何か、奥の方から唸り声が、何か、それはそれは聞こえてくるんだけど……
ガルトはパタリと扉を閉めた。
振り返れば、にやけ顔の追従者。恨めしい…
「はは。いくらお前でも、丸腰で魔王城ダンジョンは抜けられまい」
「──分っていて、案内したのか?」
「ひょっとしたら、お前なら丸腰でも挑んだんじゃないかなー、て思って」
魔王の言葉を聞くか否や、ガルトはガッと扉を開いた。
「ば、馬鹿!! 冗談だって!! 人間なんか格好の餌だぞ!!」
「私なんか犬死にした方がマシだ!!」
羽交い絞めにした腕を振り切ろうと暴れるガルトを、どうにか抑え込み、魔王は扉を閉めて溜息を吐いた。
「本当に、聞き分け悪いなぁ、お前。何度も言わせんなよ」
眉間に皺を作るガルトの額に、魔王は口付けた。
「下界なんか出られなくたって、この城だけでも充分、楽しいぞ。俺が居るんだから」
額を押さえ、げんなりした。到底、信用ならない顔だ。
その時だった。
鉄扉のノッカーがガンガンと叩かれた。
ガルトは思わず扉を開いていた。
「やっほー、ディ♡ 遊びに来ちゃったぁ♪ ──て、ディじゃない?」
何者かに突然抱き着かれ、ガルトは硬直していた。冷やりとした体の感触は、明らかに人のものでは無かった。
「──ラミア、何て時に…」
額を押さえ、魔王は呟いた。
「何よ、ディ。こんのブッサイクな人間は」
ラミアはするりとガルトから離れると、魔王にしがみ付いた。
紫色のしなやかな長髪を揺らす女性の下半身は、魔王を取り巻き、とぐろを巻いている。
「──ヘビ」
「何よ、サル!」
ラミアはガルトに敵意をむき出した。魔王は苦笑いしながらラミアをかわし跨ぐと、ガルトの肩を引き寄せた。
「ラミア、紹介する。コレ、俺の嫁」
「…ぇえッ!!?」
頓狂な声を上げたラミアは、スルスルとうねりながら、わざとらしくガルトと魔王の周囲を回る。
「こっお~んなサルが、魔王のお嫁さんですって? 信じらんない! ブッサイクな面して、良くも私のディをたぶらかしてくれたもんね! アンタ魔女でしょう! ──悪い冗談は止めてよね」
「まぁまぁ、この話はまた今度…ね! 俺、今から用事あるから!」
「ち…ちょっとォ…」
魔王はぐいぐいラミアの背を押し、勝手口から追い出すと、カチャリと鍵を閉めてしまった。
「ふぅ…」
「──何だ? 今の」
白い眼差しが魔王に刺さる。
「えッ!? アレ!?
…友達だよ、友達! いやー、俺、友達多くてさー!」
ビクッと身をすくませた魔王は、明らかに狼狽している。
「ふぅん? ただの友達には、見えなかったけど。仲、良さそうだな」
「……」
魔王は、観念した。
「ちょっと相手しただけだよ。俺は遊びだったのに、向こうが本気になっちまったらしくて…」
「可愛い娘じゃないか。あの娘に嫁に来てもらえ」
「冗談言うな! ラミアってのはなぁ、昔っから陰湿で執拗だって、相場が決まってんだ。身が持たねぇよ!」
魔王の必死の弁解に、ガルトは何故こんなにも不愉快な気持ちになるのか、自分が分からないでいた。
「用事があるとか言っていたな。出掛けるのか?」
「そんなの、アイツを追い返すための口実じゃんか。
でも、ま、アレだな。ガルトと一緒に居る事が、俺の最大の用事だな!」
爽やかに笑い掛けられましたけど。
魔王城の頂に在る物見塔の小部屋は、一か所だけ分厚い黒雲から突き出していて、常に太陽の光が眩しく照らしている。
白鳩の集うこの小部屋が、魔王の一番のお気に入りなのは、内緒だ。
窓から身を乗り出し、青空を眺める魔王の背中を、ガルトは階段から窺っていた。
「こっち来いよ。風が気持ち良い」
魔王は振り返らず、ガルトに声を掛けた。
恐る恐る近付くガルトに驚いて、バタバタと鳩が飛び交った。
魔王はガルトの腰に腕を回し、窓辺にぐいと押し出した。
「──う…わ」
辺り一面広がる雲海は下界と違い純白で、太陽の光に照らされ輝き、強い風に波打つ白雲は、大海原を思わせた。
「どうだ、綺麗だろう」
「うん! 凄い、綺麗!」
心地好い風に頬を撫でられ、ガルトは口元を緩めていた。
「何だ、いつも仏頂面だから、笑えないのかと思ってた」
魔王の言葉を皮肉に捉え、ガルトはぎゅっと口を結んだ。
「手、出して」
「…こうか?」
魔王はポケットからパンくずを掴み出すと、ガルトの差し出した掌にボロボロと乗せた。
一羽の鳩が舞い降りて、ガルトの腕に留まると、パンくずをついばみ始めた。
「──ふふ、くすぐったい」
再び顔がほころんだ様子を満足そうに見届け、魔王は背後からガルトを抱き締めた。
「な、何!?」
魔王の額が背中に当たる。
「しばらく、このままでいさせてくれ──」
いつになくしおらしい魔王に、ガルトは気が気では無い。
ただただ、じっと。餌をついばむ鳩を見詰めた。
「私にも、翼が有ったなら…」
空に言いかけて、止めた。
──そんなこと、心の底では望んでいない。
魔王城の正門の庭には、ガルトを乗せて来た黒馬が繋がれている。
魔王は桶一杯の干し草と、くわを片手に馬小屋に来ていた。
「──ここには結構、動物が居るんだな」
ふらりと出て来たガルトが、魔王に声を掛けた。黒馬にブラシを掛けながら、魔王は微笑んだ。
「生き物は好きだ。こいつらは、嘘を吐かない。鳥も、犬も猫も、トカゲも魚も。生き物全部。
──人間以外は」
「何故そうも、人間を目の敵にする」
魔王の手が止まる。
「お前らも、俺らを目の敵にしてるだろ?」
それきり、魔王は馬小屋の掃除を始めて、何か言う事は無かった。
ガルトもまた、黙ったまま何も言わなかった。
薄暗い廊下を、二人連れ立って蝋燭を灯し、歩いていた。常に黒雲に覆われた魔王城に光は無く、昼か夜かも分からない。
ふと、疑問に思う。
「ディは、この城に独りで住んでいるのか?」
「今はガルトと一緒だけどな」
「使用人や身の回りの世話をする者は…」
魔王は不思議そうにガルトを見た。
「そんなもん居ねぇよ」
「こんなに大きな城なのに?」
「城の大小は関係無いだろ、ここは俺様の縄張りなんだから」
魔王に人間の常識は全く通じない。
「縄張りか…こんなに大きな城にお抱えの召使の一人も居ないなんて、恥ずかしいものだがな」
「ガルトが言うんなら、何人か雇おうか」
「人間には人間の、魔族には魔族の体裁ってもんが、有るんだろう? 良いじゃないか、これはこれで自由が利いて、気が楽だ」
言うなりニヤッと笑い返され、魔王は密かに頬を染めた。
くるくると変わる様々な表情を知り、どんどん、心が奪われていく。
第五章
ガルトは魔王に抱き抱えられ上空から、侵略下のさびれた城下街に降り立った。
魔王の羽音に影に気付いた人々は、さっと家に入り戸を固く締めた。
一瞬で人気の無くなった街を、魔王は闊歩する。
住民の抑えた息に、ぴりぴりとした視線が刺さり、ガルトは魔王にくっついて身を隠すように続いた。
仕立て屋の前で魔王は立ち止まり、鍵の閉まった扉を蹴破った。
「ひ、ひえぇ…」
カウンターに身を潜めていた店主が悲鳴を上げる。
「オヤジ、ドレスを一丁、仕立ててくれ」
「…へぇ…魔王様がお召しになられるので…?」
「馬鹿か。俺じゃない、コイツのだよ」
背後に隠れていたガルトを、魔王は店主の前に押し出した。
「この店で最上の布地を使って、豪華に仕立てるんだ。金は有る」
魔王はズシリと金属音のする麻袋をカウンターに置いた。
店主は袋の中身を怪訝に検めて、目を見張っている。
「貴様、この金、どこから…」
魔王のとぼけた表情を見れば、大方の想像は着く。
メジャーを首に掛け、店主がチラリと魔王を見た。
「採寸、致しますので…」
ガルトも無言で魔王を見た。
「──そうか。俺は一服してくるから、終わったら呼んでくれ」
魔王が退店すると、店主が小声で話し掛けて来た。
「隣国の姫君が魔王に輿入れされると噂を耳にしました。貴女が…?」
「いや、私は姫では無い」
店主は少しホッとしたように息を吐いた。袖丈胸回り胴回り、シュッシュと手際良く採寸を進めていく。
「何色に致しましょう?」
「色?…そうだな… “白” にしてくれ」
「白、でございますか」
「そうだ、白。闇に紛れても呑まれない、白が良い…」
この先、仕立てられたドレスを着て、ガルトは魔界の要人の前に立たされる。
「おい、ガルト! 凄いの出来たぞ!」
バターン! と勢いよく扉を開き、出掛けていた魔王が帰宅した。
揚々と腕に抱えていた布地を広げ見せる。ガルトは、言葉を失った。
「あのオヤジ、なかなかの腕利きだな!」
純白のサテンには銀糸で刺繡が施され、レースを纏ったドレスはまごう事無く、純真無垢な花嫁の衣装。
「──こ、これを着るのか??」
ドレスを握り締め、わなわなと肩を震わせるガルトに、魔王は笑い掛けた。
「前にもこんなの着てたじゃねぇか。似合うぞ、絶対!」
確かに、白と言ったのは自分だけれど…何でこんな事になってしまったか…
純白のドレスを着込んだガルトは、暗闇の中でも輝きを放っていた。
間もなく、魔界から大勢の悪魔達が、魔王城に集まって来る。
「支度、出来たか?」
漆黒の礼服を着た魔王が、緊張した面持ちのガルトに声を掛けた。
「そう硬くなるな、立っているだけで良い。これを」
魔王に手渡された物を見て、ガルトは目を丸くした。
「それ、この辺りでは珍しいな。東洋のやつか?」
「──ああ。父が私の為に、東洋の銘工に打たせたものだ…」
「護身用に持ってろ。脇には下げるなよ? そうだな…前みたいに、ひだの中に隠しておけ」
魔王によって先々代魔王の肖像に突き立てられた、懐かしい愛刀。まさか、返してもらえる時が来るなど、夢にも思ってなかった。
困惑しているガルトの手を引いて、魔王は玉座の間の扉前に立っていた。
「背を伸ばせ、しゃんとしろ。──綺麗だぞ」
重厚な扉を開け放つと、集っていた大勢の魔族に悪魔に魔物が、けたたましい歓声を上げた。
大広間にひしめく異形の者達は、想像以上の数だった。恐怖と畏怖を抱きながらも、孤独の魔王の人望を、肌に感じずにはいられない。
魔王が片手を払うと、一瞬にして静寂が広がる。
「友よ、師よ。今日は我が妻の為、御足労頂き感謝する。久しく見ない顔も大勢居るようだな、嬉しいぞ」
魔王の通った声が大広間に響き渡る。間を置いて、一斉に歓喜の声が沸き立った。
ガルトの腕をガッチリと組み、魔物たちが分かれた広間に歩み進む。
玉座の前には威風漂う年老いた悪魔が一人、道を阻むように立っている。
「立派になったな、孫よ」
「ジジィこそ、元気そうじゃねぇか。この様子だと、迎えはまだまだ来ねぇな」
「まったく、口ばかり達者になりおって」
魔王の軽口を聞き流し、老悪魔はじぃと、紅い瞳でガルトを見た。
「…貴殿がエリシール殿か? 話に聞いていたのとは、少し違うようだが」
「俺の趣味に合わせて、髪を短くしたからだろ」
魔王はガルトを抱き寄せた。老悪魔は品定めでもするかのように、頭の先から爪先までじろりと見てくる。
「なるほど…人間にしておくには勿体無い美貌だな、こんな人間二人とおるまい。魔王の妃にこそ相応しい」
世話役の小悪魔共が小さな黒い羽根で宙を舞いながら、酒で満たされたグラスを運んで来た。魔王は大広間に向き直り、グラスを高く掲げる。
「呑め、唄え、騒げ! 我ら魔族の繁栄と、人間共の滅亡を願って!」
乾杯の音頭に一層激しい歓声が上がる。ガルトは釈然としないまま、ちびりとグラスに口を付けた。
魔族の集会とは、何とも面白いものだ。皆一様に笑って、歌って、喧嘩して…人間と、何ら変わらない…
豪奢な金の細工、ビロードに刺繍の施された玉座に二人寄り添い座り、魔族の騒ぐ様子を眺めた。
「──さっきの老鋲は何者だ? ただ者では無さそうだったが」
ガルトは小声で呟くように魔王に尋ねた。
「あれか? うちのジジィだよ、先々代の魔王だ。今は魔界の深淵を牛耳ってる」
「魔界の深淵…魔界は王が総べているものでは無いのか?」
「魔王は人間界を総べるものだ。魔界と人間界との、境を護る門番みたいなものだな。まぁ言うても、人間を統率出来てもないし、大して偉くは無い。ははッ」
魔界の序列か…人間の国と、大差無い…
大勢の魔物に囲まれて、次々と挨拶にグラスを合わせる老悪魔は、どす黒いオーラを纏って談笑している。隙が無い。
「まぁ、ジジィも隠居して丸くなっちまったもんだ。現役時代は俺なんか足元にも及ばない、他の悪魔が近寄る事も無い、それはそれは怖ろしい魔王だったんだぜ?」
「人間の世界でも、先々代の魔王の話は聞いている。人々は怖れ、笑う事も出来なかったと。今でも泣く子を黙らせるのに、その名が出る程だ」
「だろうなー」
間の抜けた魔王の返事に、ガルトはぷっと吹き出した。
「ディの名前じゃ、泣く子が笑っちゃうかもな。ははッ」
「…ほっとけ」
集った魔族の一角で、やいのやいのと歴代魔王の覇業が語り合われている。ガルトの左眉が、ピクリと動いた。
「やっぱ、魔王様で名高いのは、先々代のゼノア様だよ! あの方のお陰で我ら魔族が、人間どもを恐怖に陥れられたんだからな!」
「いやいや、現魔王のディ様だって凄いぞ! 知ってるか?
魔王の中でも最高の魔力と謳われたジェイド様を亡き者にした人間を、返り討ちにしたんだ! それも、赤子の手を捻る様に易々と!」
「そうだ、一番は憎き先王の仇を見事に討った、ディ様だ!
──その、身の程知らずの人間は、何て言ったっけ?」
「業突く張り人間どもが、“英雄”、とか呼んでる奴だろ? …えーと、何だったかな…?」
「ううーんと…?」
「ガギグゲゴ…ガ…ガ…」
「あ。確か、ガリウス、とか」
バリンッ!
亡き父の名を聴いて、ガルトは持っていたグラスを握り割っていた。魔族の喧騒が静まって、玉座に一斉に視線が注がれる。
「…おっとぉ」
魔王の呟きが耳に入るか否や、ガルトは隠し持っていた愛刀を引き抜くと、切っ先を魔王の喉元に突き付けた。
「何で花嫁が剣を持ってるんだ?」
「ディ様は、何で動かないんだ?」
魔族共のどよめきは、徐々に広がり大きくなる。
仕舞った、と思った時には体が動いてしまっていた。
──八つ裂きにされる…!── 猛り狂った魔族が、一斉に自分に掛かって来る。
ガルトの抜いた刀が細かく震えた。
「──はは、これはこれは。たった一人、魔王に楯突くとは良い度胸だ。勇気に免じて名を聞いておこうか、人間よ」
魔王はゆっくりと玉座から立ち上がり、わざとらしく講釈を立て刀身を爪で掴んだ。そっと目配せされて、ガルトはゴクリと喉を鳴らした。ちょいちょいと、魔王の片手が小さく催促する。
「わ…私はッ! 英雄ガリウスが一子、ガルト、だッ!
亡き父の仇、この場でえッ、果たさせてもらうッ!」
うわずった声が広間に響く。ガルトは込み上げて来るものを、ぐっと堪えた。
「こうなってしまったものは仕方無い。面白い、相手をしてやろうか!」
魔王はガルトの刀を弾き、片爪を薙いだ。ガルトは咄嗟にしゃがんでかわし、刀を回して斬り上げる。
まるで、あの日の再現だ…
三日三晩の攻防で、最後に立ち回った、あの時の再現。
全く同じ動き、全く同じやり取りを、体が覚えている。
唯一つ違うのは…殺気の一つも篭ってないこと。
「──何だ? 何で魔王様はお妃様と闘ってるんだ?」
「ガリウスの子? エリシール姫じゃないのか?」
ざわめく魔族の中で、老悪魔がぽつりと呟いた。
「ガリウスの子は、男子だろう。見ろ、魔王の落ち着き様を」
「…そうか! これは余興だ!」
どよめきは喝采に変り、やんややんやの声が上がる。皆、流麗な剣舞に、所作に拍手を叩いた。
広間の片隅に一人、静まり定める目が在った。
がらんとした大広間に魔王は居た。
「片付けぐらいして行けよ…」
ぶつぶつと文句を垂れながら、散らかった酒樽にグラスに零れた跡に、独り片付けを進めていた。
玉座の前でガルトが割ったグラスの破片を拾っている時、不意に名前を呼ばれ、振り返らずに立ち上がった。
「ジジィ。帰って無かったんなら手伝えよ」
「片付けるのは、現役の仕事だ」
老悪魔はふうと息を吐き、懐かしい玉座に腰を落とした。
「花嫁は、どうした」
「結構酔ってたみたいだし、疲れてるだろうから、上で寝かせてる」
「はは、優しいな」
皮肉に笑うと、老悪魔はスッと表情を強張らせ、魔王を睨んだ。
「あの剣技、身のこなし、一国の姫が扱えるものではあるまい。戦に身を投じる武人のものだ」
魔王の肩がピクリと動く。
「皆は余興だとはやし立てていたが、儂の眼は誤魔化せんぞ。彼奴は、エリシール姫では無いな」
魔王は、はあぁと長く息を吐き、くるりと老悪魔に向き直った。
「流石、年老いても眼力は落ちてないな。おみそれした。
アイツは…グラハム二世が愛娘を出し惜しみして寄越した、影武者だ」
老悪魔は、はあぁと息を吐いて、額を押さえた。
「よもや影武者とは…魔王一族を見くびってくれたものだ。さっさと始末するんだな」
「はは、そう簡単にいかないから、こうして嫁役、演ってもらってんだ」
「父が父なら、呆れる孫だ」
遠い目をする老悪魔に、魔王はただ笑うだけ。
「──ガリウスの子だとか、ぬかしておったな。本当か?」
「さぁな」
「とぼけおって…軽い火傷で済むうちに、縁を切る事だ」
「嫌だね、俺はアイツを気に入ってんだ。あんなに素直で、愚直で、面白い奴、他には居ねぇよ」
行く末を案じる老悪魔に、聞き分けない魔王。
「まったく、お前という奴は…
口では『嫌い、嫌い』と言いながら、人間に肩入れし過ぎる。これだから儂は反対だったのだ、魔王の血脈が薄れるばかり。一国の姫だと言うから、納得したのを…
この城は魔界と下界を繋ぐ“要”だ。深淵には血の薄いお前を良く思わない者も居る。今も手をこまねいて魔王の失脚を狙っている者が大勢居る。儂の気苦労を減らして、早く隠居させてくれ」
「はは、とっくに隠居してんだろう、ジジィ」
「──荒れるぞ?」
魔王はニヤリと笑ってみせた。溜息混じりに立ち上がった老悪魔は、かぶりを振りながら背を丸くして、広間を後にした。
息子と言い、孫と言い、どうしてこうも魔王の自覚が足りんのか…間違えちゃったなー、育て方。
窓から差し込む月明かりで目が覚めた。満月と新月の夜にだけ、魔王城と共に人間界に入り込んだ瘴気は晴れ、厚い黒雲は割れ、天が開ける。星が瞬いているのまで、はっきり見えた。
久しく見なかった月を不思議に思いながら、ガルトはドレスの裾を持ち上げて、ディを探して広間に下りた。
一通り片付け終えた魔王が、天窓から覗く月を見上げていた。月明かりに照らされた魔王の肌は、銀色に輝いていて、到底、悪魔には見えない。まるで──天使。
「ディ?」
呼び掛けに振り向いた銀色の悪魔は、いつもの浅黒い肌の魔王に戻っていた。
「どうした?」
「う? …ううん、何でも無い」
寝惚け眼に幻でも視てしまったか。ガルトが目を擦っていると、魔王がゆっくりと片手を差し出し、微笑んだ。
「お前、踊れるか?」
「いいや…」
答えながらも、無意識のうちに片手が乗る。
「適当に、俺に合わせろ」
魔王が強く抱き寄せて来たので、どきりとした。
スッと出された片足に、思わず後退する。ぐいと押される腰に、体が回る。
「耳を澄ませよ、音楽が聞こえるだろ」
魔王の足を踏まないようにするので、精一杯だ。
「何も聞こえないよ…」
「馬鹿。こういうのは、心で感じるもんだ」
密着している部分から熱が上がって、顔まで火照る。
高鳴る胸に、心を鎮めようと目を閉じた。
すると、おぼつかなかった足元が次第に走り出し、軽快なステップになって魔王に追従する。
「はは、上手いじゃないか」
ガルトは目を開く。魔王の優しい笑顔を間近にして、ドレスの裾を踏ん付けた。
「おっと」
魔王に深く腰を支えられ、転倒はしなかった。
途切れた音楽に、煌煌と降り注ぐ満月の光。
二人きりの空間に、暖かい静寂が流れて来る。
じっとかち合う、紅と蒼。
この日初めて、互いの唇が合わさった。
無言のまま、魔王に手を引かれ階段を上る。熱を持った掌に耐えられず、ガルトは口を開いた。
「──済まない」
「何が?」
「宴で、妙な事をしてしまって…面目を潰してしまった」
「……ぷぅッ!!」
「!!?」
魔王が吹き出し腹を抱えたのでギョッとした。
「いやいや、奴らの盛り上がりよう見ただろ? 大成功だったし! 何だ、黙ってると思ったら、そんな事気にしてたのか?」
「き…気にするよ!」
馬鹿にされたと思い、ムッとした。魔王はひとしきり笑うと、目尻の涙を掌で拭う。
「悪い悪い。まさか、魔王が人間に気遣われるとは、思わなんだ。──嬉しいよ」
「……」
皮肉にしか聞こえないんだが。
「まぁでも、危ない橋だったな。奴らが馬鹿でジジィの執り成しに引っ張られなきゃ、八つ裂きにされてたぞ、お前。あれだけの数の魔物、いくら雑魚でも、ただでは済まなかった」
ガルトは眉間に力を入れて、目を瞑った。
「この城に来た時から、死は覚悟していた。あの場で殺されたとしても本懐だ」
バチンッ
寝間の入口で、魔王の平手が頬に飛んだ。
「お前! いい加減その人間特有の、自分を卑下した物言いは止めろ! どうして無事だったことを喜べない!」
驚き目を見開くガルトを、魔王はそっと抱き寄せ、耳元で囁いた。
「命をないがしろにするな…それでも、自分の為に生きられないのなら──」
魔王に抱かれる両腕が、痛いくらいに強かった。
第六章
目が醒めて最初に、髪を直そうと鏡の前に座った。
ガルトが上げた小さな悲鳴に、寝ていた魔王が飛び起きた。
「どうした!?」
魔王の呼び掛けに、ガルトは肩を竦ませた。鏡から、目が離せない。
「──目が」
ガルトの背後から魔王が鏡を覗き込む。
晴れた空の様に青かったガルトの瞳が、深紅に染まりギラギラと輝いている。
「やった!」
魔王がガルトの脇を抱き上げ、旋回した。
「ち…ちょっと!?」
「やったな、ガルト!」
「何が!?? いや、下ろして!!?」
魔王はガルトを掲げたまま、嬉々として言った。
「紅い瞳は、魔族の象徴だ! お前の体に、俺の血が混じったんだよ!」
「??」
きょとんとするガルトをストンと下ろし、魔王はひざまずいてガルトの手を取った。
「あと、とつきもすれば」
ようやく、自分の身に降り掛かった大事に気付いた。思わず腹部に手を当てる。
困惑しながらも、ガルトは魔王に微笑み掛けた。
物見塔の窓辺に寄り添い座り、魔王はさらりとガルトの髪を撫でた。
「──親になるとは、どんな気持ちかな」
「さぁな。分からねぇけど、強くなるんじゃないのか? 特に母親は」
ガルトがふと、魔王を見上げる。
「ディのお母様は、どんな方だったんだ?」
「俺の母親か…」
魔王は遠くを見詰めて、煙草を咥えた。火を点けて、ひと息。
「俺が生まれた時には死んじまってたから、知らねぇよ」
「あッ…済まない…」
「はは、謝る事じゃねぇし。ガルトの方こそ、どんな母君だったんだ?」
「…私の母親は──」
優しい想い出が紡がれる始めると、魔王はそっと目を伏せて、ガルトの声に耳を澄ませた。
魔王が魔界に出向いた日の事。
ガルトは暇を持て余し、独りの魔王城を落ち着かず、ただウロウロと彷徨っていた。
「あ~ら、おサルちゃん。まぁだ、追い出されてなかったの」
耳障りな甲高い声に、ガルトは眉間に深く皺を寄せ、黙ったまま振り向いた。
「ん? …アンタ、この前見た時と、何か違わない?」
しなやかな女性らしい上半身に、ぬらりと湿った長い胴。
しゅるしゅると、ガルトの周りを紫色の髪が流れる。
「──ラミア…さん」
しげしげと見詰める瞳が縦に伸びた。
「なによ、アンタ。魔族みたいな眼、しちゃってさ。人間だったら、もっと人間らしくしなさいよ。この、メスブタァ!!!」
ラミアの悪態にこめかみが痙攣する。我慢だ、我慢…自分に言い聞かせて、愛想良く作り笑いを返した。
「──ディなら、用事があるとかで魔界に行きましたよ」
「え!? “アレ” に、行っちゃったの!?」
アレ、とは。驚きを隠せない様子のラミアに問い質したい。
ラミアは含み笑いを浮かべ、そわそわと興味をそそられているガルトの周りを一回転した。
「なぁに? アンタ。ディから何も聞かされてない訳? その程度の存在なんだぁ…」
「うん」
ラミアの嫌味に、ガルトは素直に頷いた。拍子抜けして調子が狂う。
「絶対ディなら、あんな呼出し無視すると思ってたのに…ディは、元老…魔界の深淵に招集されたのよ。魔王としての威信を問われてね。アンタの所為よ」
「私の…?」
呑み込めないガルトに、冷やりとした胴体が巻き付く。
「そうよ。ディは今、魔王としての職務を全くしてないの。アンタがこの城に来てからね。このままじゃ、魔王の威厳が問われるわ。人間どもに恐怖と破滅をもたらさないで、何が魔王か、ってね」
ラミアはニヤニヤと笑いながら、ガルトの肩に手を添える。
「魔王一族、先代魔王には前科があるから、子であるディには特に厳しい目が向いているわ。それなのに、また、人間を娶ろうとしたから、古い魔界のお偉様の神経を逆撫でちゃったのよ」
「また…?」
「あらやだ、アンタ知らないの?」
ラミアはわざとらしく口に手を当て、憐れむようにガルトを見詰める。
「先代魔王のジェイド様のお妃も、醜い人間だったのよ」
ガルトは、声が出なかった。出せなかった。息すらも呑み込めない。
「──わ…私は…ディが生まれる前に、亡くなったとしか…」
やっとの思いで絞り出たガルトの言葉に、ラミアは追い討った。
「そうよ。ディを身籠ったまま、燃やされたの。──人間共の手で、板に張り付けにされてね」
── “魔女裁判” 。
この世界の誰もが知っている。魔に堕ちた女に下される、最も重い刑罰── 火刑 ── 溢れそうになる涙を懸命に堪えた。ラミアは静かに淡々と続ける。
「だからこそ、ディは魔王の椅子に座れたのよ。
血筋ってのも大きいけど、母親を殺された憎しみや恨みや怒り、全てが、人間共を滅するための糧と成るから」
口角を耳まで釣り上げて、嗤うラミアの口からは、ちろちろと舌が出入りする。冷やりとした手が、ガルトの頬を撫でる。
「単純な話、アンタが居なければ、ディはお咎めを受ける事も無かった。
アンタさえ居なくなれば、ディは今まで通り、魔王として君臨できるのよ。
──簡単でしょ?」
「わ…私…」
動揺を隠せないガルトに確かな手ごたえを感じると、ラミアはするりとガルトに背を向けた。
「ま、よっおぉ~く、考える事ね。
アンタがこの城に居ても、良い事は一つも無い。
ディが殺されちゃう可能性だって有るのよ?
──アンタが、居る所為で」
石の廊下に残る声は、まるで、呪うように。
ラミアの姿が見えなくなっても、ガルトの耳に残り続けた。
帰宅した魔王の一張羅は、ところどころ綻び、焼け焦げていた。出迎えたガルトの面持ちは暗い。
「──魔界で、何が、あったんだ?」
「何って? はは、コレか」
魔王は笑って上着を叩いて煤を落とした。
「ちょっと挨拶して来ただけだよ。宴会に来れなかった奴らにも、婚姻の報告をしてきたんだ」
「それで、叱責を受けたのか?」
ガルトの言葉に、魔王の顔が強張った。
「こんなの、ただのじゃれ合いだ。何でも無いって」
わざとらしく笑う魔王に、だんだん哀しくなってくる。
「……私の所為で…済まない…こんな目に遭わせてしまって…」
「何があった」
ガルトの言葉を斬るように、魔王は真顔で訊き返した。射貫くような瞳の魔王を、真面に見れない。
「正直に言え」
「──聞いたんだ。ディが、窮地に立たされていると…私の所為で…」
「誰からだ」
ガルトは質問には答えなかった。
「…ディの母上が、人間の手で殺されたことも」
「……チッ」
魔王は舌打ちをして、ポケットから煙草を取り出し火を点けた。
「それで? お前は、どう思ったんだ?」
「どうって…」
「俺が見てもいない過去の出来事で、俺がお前ら人間を恨んでいると?」
ガルトは黙って、うつむいたまま。魔王はふぅと長く煙を吐くと灰を落とし、ガルトの両腕を強く掴んだ。
「良いか。他の奴らはどうか知らないが、俺はそんな些細な事、何とも思っちゃいない」
「些細って…大事な事だよ…」
「お前が何と思おうが、俺は何にも感じちゃいない。本当に人間を恨んでいるのなら、こんな所でのんびりしてないで、地上をとっくに灰にしている。
恨んでいる人間を、種族を嫁にしようと考えるか?
仇だの報復だの目論見なんか、この俺様が持ってると思うか?
そんなまだるっこしい事、面倒臭ぇ。さっさと燃やしちまった方が楽だろ、そんなの」
真っ直ぐな魔王の想いが、人間を何とも思っていない思考が、逆に痛々しく胸に突き刺さる。
「──魔界で、何が、遭ったんだ」
魔王は瞑目し、少し悩んで、語り出した。
「魔界の深淵、元老のジジィ共に呼び出されたんだ。『魔王で在るとは、何たるか』耳にタコが出来る程、説教されたよ。後半は寝てたがな」
ガルトは魔王の上着を握った。
「では、この焼け焦げは?」
「これは…」
ガルトの真っ直ぐな視線に、魔王は下唇を食んだ。
「魔界の説教が、これか?」
「──言えない。この話は、もう止めよう。ガルトの所為じゃない、それで良いじゃないか。いつもみたいに、ほら、楽しく笑おう」
魔王はそっとガルトを抱き締めると、耳元で何か囁いた。
ガルトの眼が見開き、体が凍る。一瞬の間を置いて、ガルトは魔王を抱き返した。
「おかえり、ディ」
「ただいま…」
ガルトの満面の笑顔に、苦笑する。
──他人を操る呪術、 “言霊” ──
いとも簡単に呪術に嵌ったガルトを、愛しくも、切なく思う。
『魔王と勇者』下巻に続く──