鈴木ユキオの思考 「舞踏について」
舞踏に出逢ったのは23歳の終わりの頃、確か1月か2月だった。5月で誕生日を迎えるので、実質24歳と言ってもいいのかなとも思う。年齢なんて関係ないとはいえ、「遅く始めた」という感覚は持っていて、「もっと早く始めていれば」「もっと早くに出会っていれば」とも思うのだけれど、何事も出会うべき時に出会うものなので、きっと早く出会っていたら、その時の私は見向きもしなかったのかもしれない。どんな分野でも早くから自分のやりたいことを見つけられている人を見ると、羨ましさと尊敬の念が浮かぶ。
舞踏のワークショップを受け、身体を動かすことは好きだった。そして、ダンスを習ったことはなかったが「自分の身体でもできる、やっても良いんだ」と感じられたことも大きかったと思う。
もちろん当時はそんなことも考えておらず、ただ仲間といることが楽しく、昔の舞踏の話を先生から聞くことが楽しくて続けていたのだと思う。
何事も「楽しい」ということは大切ですね。
その後、舞踏を背景にもつ方達が「コンテンポラリー」と呼ばれるフィールドで踊っているのを観て、「あまりジャンルにこだわるのは意味がないのか」と思うようになり、特に『舞踏』と名乗ることもなくダンス・パフォーマンスという感じで踊っていくことになる。むしろ、いわゆる『舞踏』のようなことをせずに、自分のやり方を作り出せないかと考えていくようになる。
そして、現在。
師である室伏鴻に10年ご一緒させてもらったことで、舞踏のフェスにも時々呼ばれ、室伏鴻から教わった事を世界中の人にシェアしている。
長く時間がかかったが、最近、やっとほどよい距離が取れる気がしてきている。近すぎて離れた時もあるし、否定してしまう時もあったのだけれど、今はやっと自然に『舞踏』と接することができるようになってきたのかなと思う。
そのような経緯から、「舞踏にもダンスにも自分の居場所だと確信することができないんだ」という話を海外でしていた時、ワークショップの受講生から、「ユキオは橋渡しだね」と言われたんですね。
“Bridge“ という言葉が妙にしっくりした感じがあった。
きっとこれもタイミングなのでしょう。そしてたった一言の英語だったのもよかった気がします。
舞踏と舞踊の『間』にいるからこそ、人とは違う踊りや作品を作ってこれたのであって、その『間』こそが自分がいる場所なんだと思ってはいたのですが、それでもやはりどこにも所属していない寂しさを感じてはいたのも事実です。
そんな時に“Bridge“ という言葉をかけてもらって救われた気がしました。
私がいるここは『どこにも所属できない断絶された場所』ではなく、その両方の『橋渡し』なんだと言われたことが、なんだかとても嬉しかったんですね。
物事は捉え方なんだなとも思います、でもそう捉えるにはタイミングも必要です。
鈴木ユキオ 2024.8.25
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