ドラッカーを読むより、聖書を読もう
◇ 史上最強の説得者 イエス
イエス・キリストは、史上最強の説得者です。
これだけ多くの人々を、これだけ強く、しかもこれだけの長期間にわたって、説得してしまった人は、他にはいません。
イエスの説教は、影響力が永続しただけではありません。いくつかの場面で、信じられないほどの強さを発揮しました。
まず、布教の初期の段階で、数多くの殉教者を生み出しました。ネロ治世下のローマにおけるキリスト教徒への迫害は、数多くの殉教者を生み出しましたが、キリスト教はそれによって弱まるのでなく、かえって強まり、ローマを征服してその国教となり、さらにヨーロッパを征服したのです。
影響力の極みが、十字軍です。
十字軍は、「神が望んでいる」(Deus lo vult)という宗教的義務感だけによって結成された軍隊であり、領土の拡張というような現世的目的は、ありませんでした。
実際、第1次十字軍が出発した時、そのリーダーたちに領土的野心はまったくなかったのです(ただし、結果的には、十字軍国家を建設することになったのですが)。
十字軍が終わって後も、キリスト教の膨張活動は続きました。マゼランが世界周航を行なった大きな理由の一つは、キリスト教の宣教です。「遠い異国にプレスター・ジョンという国王が治めるキリスト教国が存在する」という伝説が、マゼランを支えたのです。
また、ジェスイット教会は、宣教者を遠く日本にまで派遣しました。しかも、遠藤周作の『沈黙』に描かれたような殉教に会うことが、あらかじめ分かっていたにもかかわらず。
一人の人間の考えが現実社会に大きな影響を与えたもう一つの例として、マルクスの共産主義があります。
しかし、共産主義国家ソビエト連邦は、70年しかもちませんでした。
それに比べてキリスト教の教えは、2000年の歴史を持っています。しかも、その力が衰えているようにも見えません。
また、共産主義は、説得と合意によって広がったのでなく、暴力革命と恐怖政治によって強制されたのですが、キリスト教においては、こうした要素はありません(注1)。
(注1)中世ヨーロッパの魔女裁判には、恐怖政治の要素があります。しかし、これはカトリック教会の教義によるものであって、福音書に見られる原始キリスト教の教義によるものではありません。
◇ 聖書をビジネス書として読めるのは、キリスト教徒でないから
これほど強く人の心を捉えることができた思想は、他に例がありません。
シェイクスピアも説得術の宝庫です。ただし、マクベスの魔女はフィクションです。それに対して、こちらは現実の話です。
キリスト教が説得しえた人の数は、累計で一体何人いるのでしょう?まさに、数えきれないほどいます。
イエスの説教法は、福音書に記録されています。
したがって、福音書は説得法の最高の教科書であり、人類の歴史上、もっとも長く読まれている説得法の教科書ということになります(注)。
説得法に関するビジネス書は世にあまたありますが、聖書を超えるビジネス書はありません。そうしたアプローチで聖書を読み直してみれば、有用なノウハウを数多く学べるでしょう。
2000年間も読まれているのですから、せいぜい50年のドラッカ―よりは、ビジネス書としてずっと有効であるに違いありません。
ドラッカーを読んでいる人に対して、また次から次へと現われるビジネス書に追い掛け回されているビジネスパーソンの方々に対して、私は、「なぜ聖書を読まないのか?こちらのほうがずっと役に立つのに」と注意したい気持ちです。
このノウハウを活用しない手はないのです。
聖書とシェイクスピアがなぜ書店のビジネス書のコーナーに置いていないのでしょうか?考えてみれば不思議なことです。
ところで、聖書に魂の救いを求めるのでなく、ビジネス書ないしは説得のノウハウ書と見做し、あまつさえ、魔女の手法と同列に置くのは、キリスト教徒から見れば、許しがたい冒涜行為ということになるでしょう。キリスト教徒であれば、神聖な福音書をとりあげて「説得法の教科書だ」とか、「最高のビジネス書だ」などとは、到底言えないでしょう。
こうしたことが言えるのは、私がキリスト教徒でないからです。だから、聖書を客観的に見ることができるのです。
聖書を歴史上最高の説得法の教科書として利用できるのは、キリスト教徒でない者の特権です。
私が聖書を読んだきっかけは、文学作品の中に聖書の引用が頻繁に登場するからです。とくに、ドストエフスキイの作品は、聖書を知らないと理解できないところが多いのです。
逆に、ドストエフスキイを読んで、聖書が初めて理解できたところもあります。
例えば、「キリストの最初の奇跡が、水を葡萄酒に変えるという、どうでもよいようなものであるのはなぜか?」ということです。私は、この疑問を長年抱いていたのですが、『カラマーゾフの兄弟』を読んで、その答えを得ました(「ドストエフスキイ、『カラマーゾフの兄弟』」参照 )。
また、イタリア・ルネッサンスに至るまでの西洋絵画のほどんとは、宗教画でないにしても、聖書に題材をとったものですから、聖書を知らないと理解できません。これも、聖書を読んだ一つの理由です。
こうした事情で聖書を読んでいるうちに、聖書そのものが文学作品としてすぐれていることが分かりました。そして、聖書が説得法の教科書であることをも発見したのです。
では、具体的にどのような点で、聖書が説得法の教科書になっているのでしょうか?それについて、以下に述べます。
(注)ただし、キリスト教が2000年の長きにわたって続いているのは、聖書の力だけによるのではありません。カトリック教会の布教方法に成功の大きな原因がありましました。
そして、ローマカトリック教会の教義は、福音書で伝えられるイエスの説教そのものではありません。これは、吉本隆明が『マチウ書』(講談社文芸文庫、 1990年)で述べていることです。しかし、すべての出発点がイエスの布教であることは、間違いありません。
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