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『日銀の限界』全文公開:はじめに

 『日銀の限界』円安、物価、賃金はどうなる?(幻冬舎新書)が1月22日に刊行されました。
 これは、はじめに全文公開です。

はじめに

 なぜ異常な円安を止められなかったのか
 本書のタイトル『日銀の限界』には、3つの意味がある。
 第一は、異常な円安を止められなかったことだ。
 円安は、国民生活に多大な悪影響を与える。その弊害が誰の目にも明らかだったのに、日本銀行は、円安が異常な水準に進むのを止めなかった。これが「日銀の限界」の第一の意味だ。
 では、何が制約だったのか? 日銀は、その制約から脱却できたか? 日銀がこれから進めようとしている金融政策は、国民生活から見て、正当化できるか? これが、本書が追究しようとするテーマである。
 なお、2024年7月末から8月初めにかけての株価暴落を止められなかったことは、日銀の限界ではない。株価変動は、もともと激しい。株価下落に対して、どの国の中央銀行も、少なくとも形式的に言えば、責任を負っていない。日本銀行もそうだ。

「異常な円安」がもたらした「異常な経済」
 2022年頃から24年7月にかけて、顕著な円安が進み、同時に株価が目ざましく上昇した。バブル後最高値の更新が、連日のようにニュースとなった。
 また、23、24年春闘での賃上げ率が歴史的な高水準となり、それまで停滞していた日本の賃金がようやく上昇するとの見方が広がった。日本経済が停滞から脱却し始めたとの意見が、多くの経営者などから聞かれるようになった。
 しかし、これらは、実体経済の再生によって生じたものではなかった。これら全ては、異常な円安によってもたらされた、異常な現象にすぎなかったのである。
 22年以降、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)をはじめとする世界の中央銀行が、インフレ対策のために急速な利上げを行なった。それにもかかわらず、日本銀行だけが、低金利政策に固執し続けた。その結果、日本の金利水準が世界標準に比べて著しく低くなってしまった。
 これによって生じた金利差を利用して利益をあげようとするヘッジファンドなどが、「円キャリー取引」という投機取引を拡大し、円安が異常な水準にまで進んだ。
 つまり、異常な円安は、投機の産物だったのだ。本書ではこれを「円安カジノ経済」と呼んでいる。
 円安になると、なぜ株価が上昇するのか? それは、企業の利益(とくに製造業の輸出関連大企業の利益)が、円安によって自動的に増加するからだ。
 円安になると円表示での輸出額が増えるので、売上高が増える。円表示の輸入額も増えるので企業の原価も増えるが、企業はこれを販売価格に転嫁する。したがって、粗利益(売り上げ―原価)が増える。そして、賃金を一定にすれば、利益が増えるのである。
 異常な円安の影響は、日本国内の多くの経済活動や、日本人の生活のさまざまな側面に及んだ。
 まず、海外からインフレが輸入されて消費者物価が上昇し、国民生活を圧迫した。
 日本の賃金が外国に比べて安くなったため、貴重な労働力を外国に奪われるという事態も生じた。
 また、日本人が海外を旅行するのが困難になった反面で、外国人にとって日本への旅行は極めて安いものになった。このため、多数の旅行客が日本に殺到し、観光公害の問題を引き起こした。

 どこまで円高になるか?
 以上で述べたバブル経済が、2024年8月に崩壊した。
 為替レートは急激に円高になった。異常な円安が今後どこまで修正されるかは、日米金利差がどこまで縮小するかによる。それは、日米の金融政策によって決まることだが、アメリカの金融政策の影響が圧倒的に大きい。なぜなら、アメリカの金利引き下げ可能幅は大きいが、日本の金利引き上げ可能幅は小さいからだ。これは、金利引引き上げに対する日本経済の耐性が弱いためだ。これが「日銀の限界」の第二の意味だ。

 生産性向上を伴わない「物価と賃金の好循環」はまやかし
 2024年の春闘以来、賃金が上昇している。しかし、いま生じている賃上げは、生産性の向上によってもたらされたものではない。企業は賃上げ分を、販売価格に転嫁している。これは、消費者の負担において実現している「悪い賃上げ」だ。
 日銀は、この過程を「物価と賃金の好循環」だとし、望ましいものとしている。しかし、これは、コストプッシュ・インフレであり、賃金と物価の「悪循環」だ。賃上げが進むと、物価が上昇する。そして、物価が上昇するために、さらに賃金を引き上げなければならなくなる。
 また、企業は、輸入物価が下落した局面において、これを販売価格の低下に還元しなかった。こうした企業行動を、本書では「強欲資本主義」と呼んでいる。
 本当に必要なのは、日本経済の実体を強くすることだ。そのためには、金融政策の正常化が必要だが、それだけでは十分でない。日本経済のさまざまな側面で改革が求められる。これが「日銀の限界」の第三の意味だ。日銀がいくら金融政策を行なって経済を活性化しようとしても、企業が「強欲資本主義」を貫いていたら、いつまでたっても国民の生活は豊かにならないだろう。
 持続的成長のためには、さまざまな政府施策が必要だし、経済の構造改革も必要だ。また、日本人一人ひとりが努力することが必要だ。

 各章の概要は、以下のとおりだ。
 第1章においては、2024年7月から8月初めにかけて起きた株価大暴落について述べる。暴落の直接のきっかけは、アメリカの景気動向指数の悪化だが、基本的な原因は、日米の金融政策の違いによって金利差が拡大し、それによって円安が異常な水準にまで進行していたことだ。それが限度に達したために、為替レートに変調が生じ、その結果、株価が下落したのである。

第2章では、異常な円安が日本国内の経済活動や日本人の生活に与えたさまざまな問題を見る。
 まず、人材競争で外国に競い負けすることや、観光公害などの問題がある。さらに、日本人が海外留学できなくなることや、海外への資金流出という問題もある。
 その反面で、企業の利益は自動的に増大した。この効果があるため、これまで日本では、円安が望ましいとする意見が強かった。しかし、企業利益が円安で増大するのは、企業が原材料価格の上昇を消費者に転嫁するからだ。だから、消費者の立場から見て、円安に望ましい面は一つもない。

 第3章では、円安をもたらした構造的要因について考える。デジタル赤字や新NISAによる海外への資金流出は、それ自体としては大きな問題だが、円安の原因とは考えられない。最も重要な構造要因は、日本経済が弱体化しているために、金利を十分な高さに引き上げられないことだ。

第4章では、日本銀行の金融政策のあり方の基本を問題とする。日銀は為替レートの水準を問題にしないと説明したことがあったが、それは正しいことだろうか? 他方で、日銀は株価の変動には極めて敏感だ。これは、中央銀行の政策のあり方として正しいと言えるだろうか?

 第5章では、円レートの将来の見通しについて述べる。円キャリーの巻き戻しで、どこまで円高が進むか? 購買力平価との比較などによって、この問題を論じる。

 第6、7章のテーマは、企業がさまざまな負担を販売価格に転嫁するという「強欲資本主義」だ。日本の場合には、第7章で論じるように、円高が進んで輸入物価が下落したとき、企業はそれを販売価格に反映させなかったという事実がある。

 企業が賃金上昇分を売り上げに転嫁することは、日本では「物価と賃金の好循環」と言われている現象だが、深刻なコストプッシュ・インフレをもたらす「悪い賃上げ」だ。この問題について、第8章で分析する。
 円安に頼った見かけ上の利益増ではなく、生産性の向上を図り、長期的に安定的な成長を実現することが必要だ。日本では、技術的に可能であっても、関係業界の反対のために新しい技術を導入できない場合が多い。ライドシェアリングがその一例だ。この問題について、第9章で論じる。
 第10章では、日米新政権の発足により、これからの日本経済がどのように展開するかを論じる。

2024年9月 野口悠紀雄


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