年金崩壊後を生き抜く「超」現役論 第2章の3
『年金崩壊後を生き抜く「超」現役論』(NHK出版新書)が12月10日に刊行されます。これは、その第2章の3の全文公開です。
3 65歳支給が継続できるとするトリック
トリック1 マクロ経済スライド
財政検証には、いくつかのトリックがあります。
第一のトリックは、「マクロ経済スライド」です。まずこれについて説明します。
これは、現役人口の減少や平均余命の伸びに合わせて、年金の給付水準を自動的に調整する仕組みです。
マクロ経済スライドによる毎年の切り下げ率は、公的年金の被保険者の減少率(およそ0.6%)と平均余命の伸びを考慮した一定率(およそ0.3%)の和である0.9%とされています。
「所得代替率50%が確保される」と言われると、すべての受給者の代替率が50%であるように受け止めてしまいます。しかし、財政検証でいう所得代替率は、新規裁定された直後の受給者についてのものであることに注意しなければなりません。裁定後時間が経った受給者の代替率は、マクロ経済スライドによって、これより低くなってしまうのです。
ところで、実際の制度では、マクロ経済スライドの発動に制約が加えられています。
すなわち、「適用すると年金名目額が減少してしまう場合には、調整は年金額の伸びがゼロになるまでにとどめる」という限定化がなされているのです。
つまり、年金の名目額を引き下げることはありません。ですから、マクロ経済スライドは、物価上昇率が0.9%程度以上にならなければ発動されません。
実際、マクロ経済スライドは、2004年に導入されたにもかかわらず、2015年までの10年超の期間には、一度も発動されませんでした。
トリック2 実質賃金効果:実質賃金が上昇すると、既裁定年金の実質価値は下落する
第二のトリックは、実質賃金上昇がもたらす効果です。
いま物価上昇率をp、実質賃金上昇率をrとしましょう。すると、名目賃金上昇率は、p+rです。
1人当たり保険料は、p+rに比例して増えます。また、1人当たり新規裁定年金(新たに裁定された年金)はほぼ名目賃金上昇率に比例して増えるので、やはりp+rに比例して増えます。ところが1人当たり既裁定年金は、物価上昇率だけに比例して増えるので、pに比例して増えます。
したがって、保険料収入の伸びは、年金の伸びよりもおおよそrだけ高くなります。rが高いと、年金財政に有利に働くのです。これを「実質賃金効果」と呼ぶことにしましょう。
1人当たりの既裁定年金の所得代替率は、rがプラスだと自動的に低下していきます。
すでに述べたように、財政検証でいう所得代替率は、新規裁定された直後の受給者についてのものです。既裁定者の所得代替率は、マクロ経済スライドによってこれより低くなります。それだけでなく、「実質賃金効果」によっても、既裁定者の所得代替率は、新規裁定者のそれより低くなるのです。
このように、ある時点における年金の平均的な実質価値は、裁定された時に比べて、低下してしまうわけです。裁定後時間が経つほど、低下率が大きくなります。
実質賃金の上昇によって、こうしたことが起こるのです。
「インフレ税」ということがしばしば言われます。これは、名目値で一定のものの実質価値が、インフレによって減価することを言います。年金に対しては物価スライドがなされているので、インフレ税は発生しません。しかし、実質賃金が上がると、それに対しては既裁定年金はスライドしないので、インフレ税の場合と似た効果が発生するのです。
繰り返しますが、「所得代替率50%が確保される」と言われると、すべての受給者の代替率が50%であるように思います。
確かに、裁定された直後の受給者についてはそうなのですが、実質賃金上昇率が高い社会では、裁定後時間が経った受給者の代替率は、「実質賃金効果」によって低下してしまうのです。
これが、財政検証の第二のトリックです。
マクロ経済スライドだけでは、受給者と被保険者の変化に対処できない場合があります。しかし、実質賃金上昇率が高ければ、「実質賃金効果」が働くので、対処できてしまうのです。これらによって、年金財政が好転することとされているのです。
最も重要なトリック:非現実的な経済前提
実は、トリックは以上で述べたものだけではありません。
もう一つのトリックがあります。そして、これこそが最も重要なトリックなのです。これについて、以下に説明しましょう。
以上で述べたトリックが実際に働くためには、経済条件が必要です。以上の結果は、物価や実質賃金の伸び率が高いと仮定してあるから可能になるのです。
第一に、高い物価上昇率はマクロ経済スライドを可能にし、他方で保険料収入を増加させます。したがって、年金財政に有利に働きます。しかし、実際にはそうした高い上昇率は実現できないので、マクロ経済スライドは実行できません。したがって、所得代替率の調整はできません。
第二に、高い実質賃金上昇率は、既裁定年金を増加させず、他方で保険料収入を増加させます。したがって、やはり年金財政に有利に働きます。しかし、実際にはこれも働かないので、年金の実質価値調整も実現できません。
こうして、実際には、以上で述べたトリックは実行できないのです。
いま、物価上昇率も実質賃金上昇率もゼロであるとしましょう。
まず、被保険者1人当たりの保険料は増加しないので、2020年度から被保険者数の変化率(第2章補論2から0.883)をかけると、2040年度の保険料収入は、2015年度の0.883倍となります。
一方、2020年度と2040年度の平均的な受給者を比較すると、マクロ経済スライドが発動できないので、裁定年金額は変わりません。
したがって、2040年度の給付額は、受給者の変化率(第2章補論2から1.036)をかけて、2015年度の1.036倍となります。
給付水準を2020年度と同じに保つには、第2章補論1で述べている理由により、保険料率を2040年度までに約17%引き上げなければなりません。
これは、かなり難しいことでしょう。
高い物価上昇率と実質賃金の伸び:現実離れした経済前提
このように、年金財政を維持できるかどうかは、経済前提に強く依存しています。2019年財政検証の経済前提の主要な内容は、図表2-2のとおりです。
消費者物価と実質賃金の上昇率について、現実離れした高い値が想定されています。消費者物価上昇率については、ケースⅠからⅣで、年率1%を超える伸び率が想定されています。
しかし、現実の消費者物価(生鮮食料品を除く)の対前年比を09年以降で見ると、14年に2.6%になったのと18年に0.9%になったのを除けば、0.9%未満です。14年に高くなったのは消費税増税の影響であり、それを除けば0.6%程度です。
また、実質賃金の上昇率もかなり高く想定されています。どのケースでも、実質経済成長率よりかなり高くなっていますが、これはあり得ないことです。ケースⅤとⅥでは、実質経済成長率がゼロもしくはマイナスであるにもかかわらず実質賃金の伸び率がプラスになるという、奇妙な姿が想定されています。
ところが、現実の実質賃金は、毎月勤労統計によると、2012年の104.5から18年の100.8まで低下しています。つまり、「実質賃金伸び率はマイナス」というのが日本経済の実態です。ところが、そうした姿は、財政検証では排除されてしまっているのです。
このように、財政検証で想定されている消費者物価や実質賃金の伸びは、現実の日本経済とはかけ離れたものです。
積立金の想定運用利回り:高すぎるが影響は少ない
公的年金の主要な収入としては、保険料と国庫負担の他に、運用収入があります。
これに関連して、積立金の想定運用利回りが異常に高い前提になっていることがしばしば問題視されます。確かに、想定されている利回りは高すぎます。
現在、10年国債の利回りがマイナス0.2%を下回っていることと比較すると、現実経済との乖離が甚だしいことは、間違いありません。
しかし、これは年金財政にあまり大きな影響は与えません。なぜなら、積立金の運用収入は保険料収入の1割未満でしかないからです。
また、将来は積立金が取り崩されていくので、その比率はさらに下がるでしょう。したがって、しばしば指摘されるほどの大きな影響はありません。
財政収支に影響する重要な要因は、運用利回りよりも、消費者物価と実質賃金なのです。