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第1章  戦時体制が戦後に生き残る(『戦後経済史』全文公開:その3)

2 傾斜生産方式とインフレ

基幹産業を再建する
敗戦によって荒廃していた日本経済の復興のためにまず行われたのは、金融機関の救済でした。1946年度の一般会計予算の2割が産業経済費に充てられ、戦時補償の打ち切りなどに伴う銀行の損失を補償し、その破綻を防いだのです。
続いて行われたのが、「傾斜生産方式」による基幹産業の再建でした。不足する資源を石炭と鉄鋼を中心とする基幹産業に重点的に配分し、生産設備を復旧させて、産業の生産力を回復させようとする政策です。46年暮れに決定され、47年から実施されました。
傾斜生産方式の仕組みは、価格差補給金と復興金融金庫の融資を中心としています。価格差補給金とは、一般会計から支出される補助金です。政府が公定価格を定め、それによって生じた企業の赤字を財政支出で補填するもので、石炭に対する価格調整補給金として40年に開始された制度です。
たとえば、石炭の価格を抑えて鉄鋼会社に安く買わせ、次に鉄鋼の価格を抑えて加工メーカーに安く買わせる。そして、赤字となる石炭会社と鉄鋼メーカーに補助金を支給するのです。価格差補給金は47年度予算のおよそ4分の1を占めるほど巨額なものでした。
復興金融金庫は、基幹産業の設備投資と運転資金を融資する組織で、46年に作られた日本興業銀行復興金融部を、47年1月に独立させたものです。融資の財源として発行された復興金融債(復金債)の発行額は、当時の全国の銀行貸出額の4分の1近くにまでなる巨額のもので、その7割が日銀引受とされました。
復興金融金庫による基幹産業への融資は政策金利で行われ、その利率は物価上昇率をはるかに下回っていました。融資といっても、事実上は政府が日銀に紙幣を刷らせ、それで得た資金を企業に与えたのと同じことでした。
この資金の配分を行うにあたって、戦時中に作られた間接金融中心のシステムと、政府による金融機関の融資統制システムが全面的に活用されました。これらの仕組みによって、政府は資源配分を完全にコントロールすることができたのです。
こうしたシステムは、もともとは軍需産業に資源を集中させるためのものでした。その仕組みを、戦後になって対象を軍需産業から基幹産業に変え、利用したわけです。
傾斜生産方式によって、基幹産業は急速に立ち直りました。石炭や鉄鋼は増産され、炭鉱ブームが到来しました。日本のGNP(国民総生産)は、46年には4740億円でしたが、47年には1兆3090億円、48年には2兆6660億円と、拡大していきました。
日本では戦争で工場や社会的なインフラストラクチャが破壊されたため、戦後はそれらの再建から始めなくてはなりませんでした。しかし、それゆえに経済が成長できたという面もありました。イギリスの場合、空襲を受けたとはいっても、第二次大戦前からの古い設備やインフラが残っていました。そのため工場の生産設備が旧式だったり、街灯がなかなか電灯にならずいつまでもガス灯が残っていたというような面があります。日本では工場やインフラの大部分が壊滅してしまったため、新しい時代に適合した設備や社会インフラを作ることができたのです。それが経済成長を加速した面もあります。

インフレによって旧地主階級が没落する
傾斜生産方式は、インフレを引き起こしました。多額の復金債が日銀引受によって発行されたため、通貨供給量が過剰となり、インフレが発生したのです。経済全体の供給能力が限られる中で、政策的に過剰な需要が創り出されたのですから、当然のことです(図表1―1参照)。
なお1946年2月の「新円切り替え」「預貯金封鎖」(旧円が新円に切り替えられ、同時に銀行預金の引き出しが制限された措置)がインフレの原因だとする見方がありますが、これは逆です。インフレになったから新円に切り替えざるを得なくなったのです。
高率のインフレは、社会の各階層にどんな影響を与えたのでしょうか?
庶民への影響は比較的少なく、多額の金融資産や不動産を所有する地主や富裕層が大きな被害を被ったのです。
労働者の賃金は物価にほぼスライドして上がるし、家族経営の商店や零細工場では、売上は物価に比例して増えていきます。しかも、インフレに伴って借地や借家の賃料の実質負担が減りました。ですから、その日暮らしの庶民たちは、その日暮らしであったがゆえに、インフレによって生活基盤が破壊されることはありませんでした。苦しくはあったけれども、インフレと共に歩むことができたのです。
ところが、日本の旧支配階層である地主階級は、多額の資産を保有しており、その実質価値がインフレで急激に減少することになりました。農村においては、地主は戦後の農地改革によって所有地の大部分を買い上げられていました。そして、代金として渡された交付公債の実質価値が、高率のインフレで目減りしてしまったのです。
都市部の地主も、インフレに苦しみました。戦時中に改定された借地法・借家法においては、地主は一方的に賃料を改定することが許されません。インフレで物価が高騰しても、それにスライドさせて賃料を上げていくことができなかったのです。そして一度結んだ借地契約・借家契約は、裁判所が認める「正当事由」がない限り、解約できないとされました。インフレによって地主の実質収入が激減したのです。
金融資産に対する財産税の影響も甚大でした。46年に成立した財産税法は、個人所有の財産に対して財産税を課す法律であり、課税価格1500万円超に対する税率は、90%にも上る高率のものでした。
農地改革、借地法・借家法の改正、インフレ、財産税。これらにより、日本の地主階級と富裕層は没落しました。
ヨーロッパでは、第二次大戦後も広大な土地を所有する貴族階級や、不労所得で経済を支配する資本家層が温存されました。しかし、日本では、戦前の支配階級が戦中と戦後の十数年で一掃され、「一億総中流」と言われるような社会構造の基本が作られたのです。
これは、「不労所得を認めない」と宣言した、戦時中の革新官僚が行った多くの改革がもたらした結果であったのです。

ドッジを操った大蔵官僚
インフレは、日本政府にも恩恵をもたらしました。国債の実質価値が下落したため、莫大な残高となっていた戦時国債の重圧から逃れることができたのです。これによって財政は健全化し、後述するドッジ・ライン以後長期にわたって、一般会計は、国債発行のない均衡予算を続けることができました。
しかし、インフレが続くと公務員の給与も上げねばならず、その他の財政支出も増えます。だから、どこかでインフレを止める必要があります。ただし、そのためには、強力な引き締めが必要です。そうすれば、不況に陥ります。
引き締め政策を日本政府に断行させたのが、アメリカのデトロイト銀行頭取であったジョゼフ・ドッジです。GHQ経済顧問として1949年2月に訪日し、財政金融引き締め政策を立案して、池田勇人蔵相に49年度予算案を提示しました。政策を立案したのも予算案を作成したのも、公式にはドッジとされています。
しかし、民間銀行のトップではあっても財政の専門家ではなく、日本の予算制度についても経済についてもなんの知識もない彼が、来日後たった2か月で、膨大な作業が必要な予算案など作れるはずはありません。それはすべて大蔵官僚が行ったのです。ドッジはそれに名前を貸しただけというのが実情だったはずです。以下は私の推測ですが、緊縮財政を主導したのは、ドッジではなく大蔵省だったと思います。
インフレを止める必要性は明らかでしたが、そのための引き締め政策が、国民に重い負担を強いることも明らかでした。それを強行すれば、国民の非難が集中するでしょう。
そこで大蔵官僚は、占領軍の権威を利用することにしたのです。強硬な均衡財政主義者を経済顧問として連れてきて、占領軍司令部の名で緊縮財政の命令を出させ、それにやむなく従うという形で予算を組めばよい。
こうした推測を裏付けるのが、宮沢喜一の発言です。彼は後日、「われわれはGHQのニューディール官僚にいろいろ文句を付けられて、さんざん痛めつけられた。そこで、なんとかその仕返しをやってやろうということで、ドッジという頑固な人を連れてきて、見事に仕返しを果たしたのだ」と述べています。
宮沢は、49年当時、池田蔵相の秘書官として、講和条約締結の準備を担当していました。英語に堪能だったので、GHQやドッジとの交渉でも前面に立っていました。この発言は本当のことを言っているのだと思います。
ドッジの有名な言葉として、訪日時の記者会見における「日本経済は両足を地につけておらず、2本の竹馬に乗っているようなものだ」というものがあります。2本の竹馬とは、一つは復金融資や価格差補給金という補助制度、いま一つはアメリカからの援助です。そういう状況はよろしくないので私が変える、という趣旨のスピーチだったのですが、私は、「来日したばかりのアメリカ人が、なんで竹馬を知っているんだ?」と、疑問に思っていました。アメリカにも「スティルツ」という竹馬に似た器具はあるのですが、日本の竹馬のように誰もが知っているものではありません。
これも推測ですが、記者会見前のレクチャーで宮沢がドッジに話すよう依頼した内容を、ドッジがそのまま口にしたのでしょう。あるいはスピーチの草稿を書いたのが、宮沢本人だったのかもしれません。
真相は不明ですが、この年度に実施された緊縮財政は「ドッジ・ライン」と称されました。これは、予想通り不況を引き起こしました。国民の不満は強かったと思いますが、GHQからの命令であれば、日本国民は「しかたない」とあきらめるしかありません。池田大蔵大臣は、「中小企業の一部倒産やむなし」等、不況を容認する発言を繰り返しました。インフレは終息し、この年の4月には、1ドル=360円という公定の為替レートが定まりました。
これも宮沢が語っていることですが、彼がある新聞記事を見つけてドッジに見せたところ、ドッジが喜んだのだそうです。その記事には、「泥棒がカネを盗んだ」とあった。ドッジは、「やっと泥棒もカネを盗むようになった」と喜んだというのです(インフレ時には、泥棒はカネでなくモノを盗みます)。これは、宮沢の自慢話なのです。実際には自分で緊縮財政を計画し、実施したわけですから。
しかし、緊縮財政が引き起こした不況は、高まっていた社会不安をさらに強めることになりました。この頃の日本では、社会主義運動が力を増し、労働争議が頻発していました。ドッジ・ライン前年の48年には、映画会社・東宝の労働争議がもつれ、米軍の装甲車や戦車までが出動、「来なかったのは軍艦だけ」と言われるほどの騒ぎとなりました。
同年9月に、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されました。49年には、下山事件、三鷹事件、松川事件など、労働問題が背景とみられる不審な事件が続きました。10月には、中華人民共和国が成立。日本における共産主義革命は、実際に生じることがあり得るものでした。

シャウプ勧告に中身はなかった
1949年5月、ドッジの訪日から3か月後に、コロンビア大学教授カール・シャウプを団長とする税制使節団が来日しました。使節団は、同年8月に第一次報告書を作成。これが、シャウプ勧告と言われるものです。その内容は、税制の簡素化、運用の公平化、地方財政の強化等を指示するものでした。税の教科書では、「戦後税制の基礎がここで作られた」とされています。
しかし実際の報告書の内容には、「ほとんど見るべきものがない」というのが、私の感想です。
「プロローグ」で簡単に説明したように、日本の戦後税制の基本は、40年の税制改革によって確立されたものです。明治以来の日本の税制は、地租や営業税など、所得を正確に把握しなくても税額の算出が可能な、前近代的な税を中心としていました。徴税に必要なインフラが整っていなかったので、これはいたしかたないことです。しかし、その結果、第一次世界大戦以降急速に発達した近代的な産業への課税が不十分なままでした。昭和に入っても、直接税の比率は低く、31〜36年の平均で国税収入のおよそ3分の2が間接税で占められるという、間接税主体の税体系が続いていたのです。
また、戦前の財政構造は、今日に比べてずっと地方分権的でした。現在のような地方交付税交付金や国からの補助金は存在せず、地方政府の財政収入は、自分たちで自由に内容を決められる独立税と、税率を独自に定められる国税の付加税とからなっていたのです。
この税体系を一新したのが、36年に成立した広田弘毅内閣で蔵相を務めた馬場鍈一です。大蔵省出身で勧銀総裁から蔵相に転じた馬場は、37年、「所得税を基幹税、財産税を補完税とし、これに加えて一般売上税を導入する」という、まったく新しい税体系の創設を打ち出したのです。
間接税中心の税制を直接税中心に変えて、これまで課税が不十分だった産業に国税の網をかぶせる。同時に地方政府の財政自主権を大幅に制限し、国が集めた税収を地方に配分する形にする。こうして国による地方の統制を強めることがその狙いでした。
馬場の税制改革案は、財界の強い抵抗ですぐには実現できなかったのですが、戦争の激化と戦時財政需要の拡大により、40年4月、米内光政内閣において実施されました。
この税制改正で特筆されるのは、給与所得の源泉徴収制度が導入されたことです。これは、低所得層にも広く納税を求め、戦費調達のために国税の増収を図るためのものでした。またこのとき法人税が独立の税となり、所得税・法人税という二つの直接税を中心にした税体系が確立されました。
地方については、「地方団体間の財政力の調整と財源の保障を図る」という名目で地方税制調整交付金制度が創設され、地方政府がほぼすべての財政収入を独自に徴税する従来の形から、国が補助金や交付金によって地方財政を補填するという姿に変わったのです。このとき以後、現在に至るまで、地方政府は財政面で国に依存することを余儀なくされています。
このときに確立された税制が、シャウプ勧告で大きく変えられたという事実はありません。37年に提案された馬場税制は、40年に実施されなかった一般売上税が89年に消費税として導入されたことを除けば、現在に至るまで何も変わっていないと言ってよいのです。
私は、シャウプの招聘も、大蔵官僚が計画したものと考えています。教科書の説明では、「シャウプ使節団は滞在中、精力的に活動し、わずか3か月という短期間で膨大な報告書を作成した」とされているのですが、実際には、その報告書は、大蔵官僚が作成したものだったのでしょう。シャウプは名前を貸しただけだったはずです。シャウプもドッジと同じく、日本の官僚が自分たちの政策を実施するための神輿だったはずです。

真の狙いは自営業者の懐柔
では、このときの大蔵省の狙いはなんだったのでしょうか。それは、税制の改革ではなく、運用の緩和にあったと私は考えます。具体的には、青色申告の導入による自営業者の懐柔です。
青色申告制度とは、零細自営業者について、実態は個人業者であっても、法人と同じような税制上の扱いを認めるものです。家族従業員に給与の支払いを認めるなど、税制上の特典がいくつかあります。この制度は、零細事業者の不満を和らげるために導入されたものだと考えられます。
これには背景があります。シャウプ勧告が出る前年の1948年は、きわめて厳しい徴税が行われた年でした。それは、47年から申告納税制度が始まったためです。申告納税制度とは、納税義務者自らが税額を計算し、課税当局に申告・納付する制度です。先に触れたように、給与所得者の収入については、40年に源泉徴収制度が導入されて確実に捕捉できるようになったのですが、企業や自営業者については、申告納税制度が取り入れられ、自己申告に基づいて所得税、法人税、住民税などが徴収されることになりました。
しかし、申告納税制度は、納税者が正しい収入を申告することが前提です。徴税当局は、脱税を防ぐため、「最初が肝心」と課税強化に乗り出し、徹底的なチェックを行ったのです。
この年、わが家は更正決定を受けました。「更正決定」とは、税務署長の権限で申告内容を変えて課税する措置であり、悪質な脱税に対するものです。現在ではほとんど出されず、申告漏れ等の問題は「修正申告」で済ませるのが普通です。
しかし、小学校2年生だった私がそのとき聞いた言葉は、絶対に「修正申告」ではなく、「更正決定」だった。なぜなのか? 後年大蔵省に入省してからも、ずっと理解できないでいました。母が悪質な脱税をしたはずがないからです。
もっと後になって、48年に、更正決定がきわめて広範囲に行われたことを知りました。国税庁のホームページに、「申告納税制度の理念とその仕組み」という、税務大学校研究部主任教授だった池本征男の論文があります。それは、次のように述べています。
「申告納税制度が導入された昭和22年は、日本経済が疲弊のどん底にあり、インフレがとめどもなく昂進し、所得税の負担は極端に重く、納税者の税務官庁に対する信頼感は最低で、また、税務職員も昭和21年に2万7千人であったのが、昭和23年には7万4千人と5万人弱も増加し、職員も不慣れで、新制度の実施ついて最悪の環境であった。このような環境の下で賦課課税方式から申告納税方式への制度の切替えは税務行政に大きな混乱を招き、殊に、個人所得税においては、昭和23年は約70パーセントに及ぶ納税者が申告怠慢とした政府の更正決定を受け、おびただしい異議申立て(当時の税法では「審査の請求」といった)が行われ、税金の滞納も慢性化した」
この年、営業所得者の70%、都市部ではほぼ100%が更正決定処分を受けたのです。更正決定処分による追徴課税が、所得税の徴税額の約半分に達したと言います。わが家は、「100%の一部」だったのです。疑問は氷解しました。
ちなみに、母は、「悪いことをしているはずはありません」と、あらん限りの帳簿を抱えて税務署に乗り込んだそうです。その後、わが家の税務処理は、若い女性の税理士さんが面倒をみてくれることになりました。この方とのお付き合いは、家族ぐるみでそれから長く続きました。

審議会制度の原型が作られる
ところで、これほど厳しい徴税を行えば、納税者は反発します。これを共産勢力が取り込もうとする動きがありました。1951年には、「中小業者の営業と暮らしを守る」ことを謳う、民主商工会が設立されました。当時は日本でも共産主義革命が起こりかねない状況でしたから、政府もそれを無視できません。納税者の不満分子がそちらに取り込まれないよう、零細自営業者を味方につける必要があったのです。大蔵省は、そのためにシャウプを呼んできたのでしょう。
徴税の運用を緩めるのは、納税者には歓迎されることなのだから、わざわざアメリカ人に頼らなくてもよいはずだと、思われるでしょう。しかし、官庁には、無謬性神話があります。官庁は判断を間違えるはずはない。だから、後になってから「あのときの判断は間違いだった」と思われる場合でも、決してそれを認めない。しかし、方針変更でも、占領軍から言われたのなら、やむを得ません。そこにシャウプを呼んで勧告を出してもらう必然性があったわけです。
ドッジについては宮沢喜一の証言があります。しかし、シャウプ招聘は誰が計画したのか? 誠に水際立った手口で、まったく証拠が残されていません(「後に主税局長から大蔵次官になったあの人だろう」と、私は推測しているのですが……)。
このときに、いまに続く審議会制度の原型が作られました。遂行したい政策を、自分からは決して言わない。学者などを集めた審議会を作り、そこから自分たちが希望する内容の答申を出させ、「ありがたい答申をいただきまして」と押し戴いて、政策を実施するのです。いまの審議会は、黒子丸見え、馬脚丸出しの田舎芝居ですが、ドッジ・ラインやシャウプ勧告は、プロの演出者によるほぼパーフェクトな名芝居でした。
なお、この時期の農業に対する所得移転は、主として食糧管理制度によって行われました。食管制度は1940年体制の重要な構成要素ですが、詳しくは第2章の1で述べたいと思います。







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