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第1章  戦時体制が戦後に生き残る(『戦後経済史』全文公開:その4)

3 本格的な経済成長への助走

朝鮮特需がもたらされる
日本経済が終戦直後の復興から高度成長に移行したきっかけは、1950年6月に始まった朝鮮動乱(朝鮮戦争)でした。金日成率いる北朝鮮軍が、北緯38度線を越えて韓国に軍事侵攻を行ったのです。
当時小学校4年生だった私は、新聞で毎日、戦況を眺めていました。また、映画館では本編の前に必ずニュース映画を流しており、そこでも朝鮮戦争の動向が紹介されていました。
この戦争は、日本にとって救いの神となりました。韓国を支援するため米軍が参戦し、日本がその補給基地となったため、戦争による特需が発生。日本経済はドッジ・ラインによる不況から脱することができたのです。
朝鮮戦争後、中国は「大躍進政策」(58〜60年)を始めます。毛沢東の指揮の下、鉄鋼生産でイギリスに追いつくという目標を掲げ、急速な経済成長を実現しようとしたのです。しかし、これは経済の実態を無視した愚かな政策で、この強行によって大飢饉が起こり、数千万人の国民が餓死したと言われます(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958―1962』、草思社)。中国が共産主義支配下でこのように迷走し、西側先進諸国に対して経済的な鎖国を続けたことが、日本の経済成長の基礎条件を作ったのです。

価格方式と割当方式
資金にせよ物資にせよ、何かを配分する場合、「価格による調整方式」と「統制的割当方式」の二通りの方式があります。
たとえば50人の生徒がいる教室で、20個しかない風船を配るとします。風船の数が足りないので、20個をどの生徒に割り当てるか、という問題が発生します。
一つの方法は、風船がほしい生徒に、「教室の掃除をします」というように、風船に対して支払う対価を申告させることです。そして、高い対価を申告した生徒(「たくさん掃除します」と申し出た生徒)から順に風船をあげていくわけです。これが「価格による調整方式」にあたります。
もう一つの方法は、風船をあげる生徒を先生が決めることです。たとえば「A君はいい子だからA君にはあげるけれども、B君は悪い子だからあげません」というように、先生が一存で決める。これが「統制的割当方式」です。
価格による調整方式をとる場合、一般の経済資源であれば、「いくらで買います」という金額を提示します。高い価格を提示した人が、その資源を獲得できることになります。自由主義的市場経済では、基本的にこの方法によって、限りある資源がさまざまな用途に配分されます。
しかし戦時経済においては、市場による配分ではなく、政府の割当によって資源を配分することが行われました。典型的なものが、食料の配給です。
企業に対しても、1938年の「国家総動員法」に基づき、さまざまな生産財について統制と割当が行われました。直接金融から間接金融への転換も、こうした統制を可能とするために行われたのです。
これは日本に限ったことではありません。戦時下では多くの国で統制が導入されました。アメリカすら、例外ではありませんでした。
日本では、終戦後もしばらく生活必需物資についての配給が行われていましたが、経済活動が正常化するにつれて統制は解除され、市場経済に戻っていきました。
企業が必要とする資源や資金についても、本来は市場機能による配分を行うべきです。価格や金利を提示させ、高い価格や金利を払うと申し出た企業に配分すればよいのです。しかし、50年代の日本では、以下に述べる二つの方法によって、割当が行われました。

通産省による為替管理
第一は、外国為替の管理です。これは通商産業省が行っていました。この制度の基礎になったのは、1949年12月に公布された「外国為替及び外国貿易管理法」(通称「外為法」)です。この法律の原型は、32年の「資本逃避防止法」です。
同法は、30年代の世界不況期に、高橋是清蔵相が日銀引受による国債の発行を通じて財政の拡大と通貨供給量の増加を図った際に定められました。法律の目的は、円安予想による資本の海外逃避を防止することです。この法律は33年に廃止され、同年施行された「外国為替管理法」に引き継がれました。それが戦後の外為法に衣替えされたのです。
外為法では、日本円を外貨に両替できるのは、政府の指定を受けた外国為替銀行に限られることになっていました。外国から何かを輸入するには、外貨が必要です。輸入代金の決済に必要となる外貨資金は、外為銀行の輸入承認を受けて発給される決まりでした。
ところが49年の外為法では、輸入承認は、通商産業大臣の許可を受けなければ得ることができないとされていたのです。つまり外国から何かを買うには、それがどんなものであれ、通産省の許可が必要だということです。政府は企業が私的に外貨を調達する道を塞いだのです。これは、外貨資金の割当制度です。
なお外為法を補足する法律が「外資に関する法律」(外資法)です。戦後の日本経済を再建するにあたって、国内の資金不足を解決するために、外資導入の必要性が唱えられました。そこで外為法の規制に例外を設け、一定の範囲内に限って外国から日本国内への投資を容認し、利益や元本の送金を保証するという内容です。これは50年5月に公布されました。
外為法により、通産省は強大な権限を持つことになりました。企業関係者が、通産省の許可を得るために、通産省の廊下に列を作ったのです。これは、「虎ノ門銀座」と呼ばれました。
アメリカの国際政治学者チャーマーズ・ジョンソンは、『通産省と日本の奇跡』(TBSブリタニカ)の中で、「当時の通産省は日本経済の中で絶大な力を持っていた」と述べています。これは正しい指摘です。
ところで、高度経済成長期に日本経済に対する関心が世界的に高まると、ジョンソンの記述が引用され、「日本経済は通産省が管理する日本株式会社である」と言われることが多くなりました。「奇跡の高度成長を実現したのは、日本株式会社システムである」という主張が展開されたのです。しかし、この考えは、誤りです。
通産省が強い権限を持っていたのは、外貨資金割当制度が機能していた50年代までのことです。60年代からの高度成長期には、外為法は改正され、通産省はすでに外貨割当の権限を失っていました。

日銀による窓口規制
割当方式の第二は、日本銀行による「窓口規制」です。
1940年体制型の金融システムでは、企業の投資資金は、銀行からの借り入れで調達します。その過程に日銀が介入していたのです。これが窓口規制です。なぜ日銀が民間銀行の個別融資案件に影響を及ぼし得たのでしょうか? その背景は、次のようなものです。
本章の1で述べたように、戦時中の日本では、1937年に制定された「臨時資金調整法」に基づき、統制的資金配分が行われていました(37年は、日中戦争が始まった年です)。
この法律によって、融資や社債・株式の発行など企業の資金調達の手段は、全面的に政府の許可制とされ、官僚が構成する臨時資金調整委員会が、重要度に応じて各産業を格付けしました。それに基づいて銀行や証券会社の団体が個別案件を自主的に審査し、「不要不急」産業への投資を抑制し、軍需産業に資金を集中したのです。
この体制は、40年に制定された国家総動員法に基づく「銀行等資金運用令」によって補完され、戦時中のみならず戦後においても、設備資金統制の法的枠組みとして使用されたのです。
戦後の45年には「臨時金利調整法」が制定され、預金や貯金の利率、貸し付けの利率、手形の割引率、当座貸越の利率など金融機関の金利の最高限度が定められました。これによって金利が政策的に低く抑えられたため、資金に対する超過需要が発生しました。つまり、市場の調整機能を制限し、割当によって資金配分を行う制度的枠組みを作ったのです。
企業に資金割当を行ったのは、民間銀行でした。銀行員が「床柱を背にして座る」と言われた背景には、こうした事情がありました。
しかし、銀行は預金だけでは資金需要を満たすことができず、日銀からの借り入れに頼っていました。そのため、日銀は民間銀行に対して絶大な支配力を持っており、個別案件にまで口出しして、企業への融資を統制することができたのです。これが窓口規制です。
一万田尚登日銀総裁は、「法王」と呼ばれました。その権力を象徴するのが、川崎製鉄問題です。ドッジ・ライン実施後まもなく、川崎製鉄が千葉県に巨大な一貫製鉄所を造ろうと計画しました。しかし、一万田総裁は「引き締め政策に逆行する」としてこの計画に反対し、「建設を強行するなら千葉にペンペン草を生やしてみせる」と言ったとされます。
47年、大蔵大臣となった栗栖赳夫(前興銀総裁)は、就任に際し、大蔵省登庁前に日銀に寄り、一万田総裁に挨拶したとされます。これを聞いた当時の大蔵省主税局長池田勇人は、烈火のごとく怒ったそうです。以後、池田と一万田の抗争が、面白おかしく語られることになります。
ところで、いかに国内で金融統制を行っても、企業が海外市場で起債などの形で資金調達ができれば、統制は尻抜けになってしまいます。これを防ぐため、戦中戦後の日本では、長期にわたって金融鎖国が行われていました。その根拠法が、前述の外資法です。
このように、戦後の日本は、金利抑制と資金配分統制、金融鎖国の下にありました。戦時期に形成された40年体制が、経済をコントロールしていたのです。

1940年体制下でこそ可能だった重化学工業化
日本産業の重化学工業化は、以上で述べた仕組みによってこそ実現したのです。仮に価格方式がとられていたら、重化学工業化が進行していたかどうか分かりません。なぜなら、当時の日本で比較優位であった産業は、繊維など労働集約的な軽工業だったからです。限られた資本は、短期的なリターンを求めて、軽工業や商業への投資に向かったでしょう。将来を見据えて重化学工業化を実現しようとする資源配分は、市場原理を否定する1940年体制下だからこそ、実現できたものです。
ところで、割当方式による人為的な資源配分は、利権と腐敗の温床となります。1948年6月に起こった昭和電工事件は、同社が復金融資を得るため、政府高官や復金幹部との間で贈収賄を行った事件です。割当を行う官僚は強い権限を持ち、したがって、腐敗が生ずる危険性が高いのです。現在の中国には、それが典型的な形で表れています。戦後の日本でも、腐敗がまったくなかったわけではありません。昭電事件以外にも、表に出てこない問題があったことは間違いないでしょう。ただそれらは、体制の存立を揺るがすほどの問題にはなりませんでした。
産業資金の配分権という巨大な権力を握っていた日本の経済官僚制度は、完全にクリーンではなかったかもしれないが、国民の不満を爆発させて体制が覆えるような腐敗には至らなかった。この点は強調してよいと思います。

4 「もはや戦後ではない」

神武景気と岩戸景気が始まる
朝鮮戦争中の1951年、アメリカのサンフランシスコにおいて「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」が結ばれ、翌52年4月に発効。日本の占領は終了しました。53年の3月に、ヨシフ・スターリンが死去。日本の株価は暴落しました(スターリン暴落)。朝鮮戦争が終結し、朝鮮特需が消滅するという予測が広まったためです。予想通り、7月に朝鮮休戦協定が調印されました。ただし、特需の反動はあったものの、その後も日本経済の成長は続きました。
54年12月からは、「神武景気」が始まります。「神武天皇が即位して以来の好景気」という意味です。この景気拡大は、復興需要や朝鮮特需に依存する成長から、投資や消費など内需の増加による自律成長に移行したという意味で、本格的な経済成長の始まりと評価されます。これによって日本経済は戦前の最高水準を上回る規模にまで回復しました。白書は、「もはや戦後ではない」と、戦後復興の終了を宣言しました。
55年11月に自由党と日本民主党の二つの保守政党が合同し、自由民主党が結成されました。それに先立つ社会党再統一と合わせ、このときに誕生した政治の基本的な体制は、長く変わることがなく、「55年体制」と称されました。
本格的な高度成長に突入した日本では、国民の生活水準が目に見えて向上しました。
50年代後半には、「三種の神器」と言われた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が普及し始めます。それまではハリウッド映画の中で見ることしかできなかったテレビや冷蔵庫を、実際の生活の中で使えるようになったのです。こうしたことが可能になった背景には、電力事情が好転したということがあります。それまでのように停電が頻繁にあるようでは、家電製品を使うことはできません。
LPレコードが手に入るようになり、それまでラジオで聞くしかなかったクラシック音楽の全楽章を、1枚のレコードで聴けるようになりました。私が最初に買ったのは、カール・ベーム指揮ベートーベン交響曲第6番。1枚2300円しました(当時の大学卒男子の初任給は1万3000円程度)。わが家も、2階建ての「本建築」になりました。「今日の生活は昨日より確実に豊かになる」ことが、実感できる時代になったのです。
中学2年生のとき、口径10センチの反射望遠鏡を作りました。神田小川町にある誠文堂新光社で反射鏡と接眼レンズを買い、あとはすべて自作です。たまたま火星が接近していた年で、白い極冠を見ることができました。
当時の東京での日常的交通手段は、バスと都電でした。地下鉄丸ノ内線は池袋―御茶ノ水間しかなかったため、中央線で霞が関に通う役人たちは、バスや都電のほかには、四谷から歩くしか方法がなかったようです。
58年からは「岩戸景気」が始まり、日本経済はさらに成長します。その一方で、50年代末から、日本市場の自由化を求める声が、欧米諸国で強くなっていました。59年のIMF(国際通貨基金)やガット(関税・貿易一般協定)の総会で、日本に対して通貨の交換性回復や国内市場の開放が要求されました。

 我らがキャメロット
1956年、私は都立日比谷高校に入学しました。そこは、われわれにとってキャメロットの地でした(「キャメロット」とは、アーサー王伝説に出てくる都)。
入学式での校長訓辞、「英国イートン校に範をとり、諸君を紳士として扱う。紳士の自覚をもって行動せよ」を、いまも覚えています。上履きに履き替えず革靴のまま教室に入ってよいというルールは、誠に些細なことではあるのですが、紳士としての自覚を大いに強めてくれました。
創立記念日での天皇来訪が予定されていたのですが、生徒たちはこれに反対し、結局この計画を潰してしまいました。
2年からのクラス編成は、生徒がやります。担任の先生も、生徒が選ぶのです。授業も生徒が順番で発表する方式で行い、先生は窓際で居眠りしていました。隣のクラスでは、国語の先生を「無能だ」として追放しました。鼻持ちならぬ生意気な生徒の集団だったわけです。56年にハンガリー動乱が起きたとき、ソ連に抗議するため、クラス代表をハンガリーに送ろうと決議しました(旅費が調達できず、決議だけで終わりましたが)。
経団連会長であった石坂泰三が学園祭に来て、檄を飛ばしたことがあります。
「諸君の先輩には、役所の事務次官や大企業の社長や東大教授が、掃いて捨てるほど(と、本当に言ったのです)いる。しかし、社会に貢献した者はいない。諸君は決して先輩を見倣ってはならない」
日本では、明治時代から国立大学への進学や中央官庁の採用は、門閥や親の資産ではなく、学力のみによっていました。だから、上流階層の子弟でなくとも、試験の成績さえよければ社会階層の壁を通り抜けられたのです。「それを奇貨とせよ。しかし、いい気になるな」と石坂は言いたかったのでしょう。
日比谷高校のような学校は、もはや日本のどこにもありません。当時の校舎も、もうありません。私が「キャメロット」と言うのは、「その地は失われ、再興できない」という意味でもあるのです。
近くの赤坂見附の駅に、まだ丸ノ内線は来ていませんでした。駅は地下2階建てなので、夏は涼しかった。日比谷高校は駅前から続く坂の上にあり、遅刻坂と言うその坂道の脇には、米軍の家族住宅ワシントン・ハイツがありました。期末試験が終わった日に学校の図書館で阿部次郎の「ルツェルンの春」という随筆を読み、「こんなところは一生行けない」と思いました。シューベルトの交響曲第9番を聴くと、この頃の教室の様子がまざまざと思い出され、未来に対する不安と夢とが交じり合った複雑な感慨が、いまでも甦ってきます。
建設中の東京タワーが少しずつ伸びていくのを、教室の窓から毎日眺めていました。
電話がある家はまだ少なく、近所の電話のある家に「呼び出してもらう」という、いまでは信じられない方法が普通に使われていました。そのため、どうやって電話をかけるのか分からないという者が、同級生に何人もいました(日本電信電話公社〔電電公社〕の設立は52年)。ちなみに、私はいまでも電話に恐怖心と嫌悪感を抱いています。
長距離電話は、申し込んでからつながるまで何時間もかかります。緊急の連絡には電報が使われていました(この当時のことを描くドラマに出てくる「チチキトク。スグカエレ」というのが、それです)。電話連絡がこのような状態なのですから、他家や他社を訪問する場合、予告なしで突然現れるのが普通だったわけです。誰もが携帯電話を持つようになってしまったいまでは、想像もできない社会です。旅行の際の旅館の予約は、手紙でやっていたのでしょうか? 取引先との頻繁な連絡が必要なビジネスなど、どのようにやっていたのだろうと、不思議に思います。
57年10月、世界最初の人工衛星、ソ連のスプートニク1号が打ち上げられました。このニュースを知ったのは、秋の遠足の日でした(この日は快晴でした)。この「事件」は、われわれの世代に甚大な影響を与えたのです。赤坂見附の駅で地下鉄の車輪を見ながら、「世界は物理学で動くのだ。何とか物理学を勉強して世界を動かしてみたい」と興奮したときのことを、はっきり覚えています。後に「遠い空の向こうに」(October Sky)という映画を見て、アメリカの少年たちもまったく同じ思いにとらわれていたことを知りました。
日本では、高校進学率が50%程度、大学進学率は10%ほどでした(図表1―2参照)。「勉強する時間があるなら、家の仕事を手伝え」というのが常識だった時代です。「勉強しろ」と言われるとやりたくなくなるでしょうが、この時代には、勉強ができることが大変な贅沢だったのです。
私はそういう時代に、10%の中に入ることができた。そのことを、大変有難い(文字通り、「あるのが難しい」)ことと考えています。
高い能力を持ちながら経済的な事情で大学に進学できなかった者が、周りにはたくさんいたのです。「October Sky」の主人公も、そうした境遇にいました。彼は、父親と同じ炭鉱労働者になることを運命づけられていたのです。しかし、あるチャンスを掴んで、NASA(アメリカ航空宇宙局)のロケット技術者になる道を歩みました。事情はアメリカでも同じだったのですね。

5 戦後史観と1940年体制史観

 通説的な見方:非戦力化と民主化による再建
戦後史についての一般的な見方では、1945年から59年までのこの時期は、「戦後民主主義と平和国家による日本の再建期」とされています。日本は軍事費の重圧から解放されたおかげで、経済成長できた、という見方です。
集中排除法によって企業が分割され、企業の民主化が行われた。ソニーやホンダなど、戦後に新しく誕生した企業が日本経済を牽引した。労働組合も成長して、企業経営に影響を与えるようになった。組合と経営の両面からの民主化によって、企業が活性化した。この流れを推進したのが、占領軍の中のニューディール派と言われた人たちである。
ただし占領軍の方針は、途中から変わった。日本の非戦力化と民主化を推進するニューディール派が当初は優勢だったが、冷戦の進展で路線が転換し、日本を共産主義に対する防波堤にすることに重きが置かれるようになった。そのためには日本の経済力を強める必要があるとして、産業力の強化が重要と考えるようになった。この路線変更はGHQの「右旋回」と呼ばれる。
以上が戦後史の通説的な捉え方です。

 1940年体制史観:復興は戦時体制の最初の成功
それに対して私は、次のように考えます。
GHQは、日本経済についてほとんど何も知らなかった。日本のテクノクラートたちが占領軍の権威を利用して、改革を実現させた。農地改革も日本の官僚が立案して実行した政策であり、日本独特の企業別労働組合も、戦時体制下で準備されたものだった。
戦後の復興期において最も重要だったのは、割当方式による資金の重点配分であった。市場を通じる価格メカニズムによる資金配分ではなく、政策的見地からの資金配分が行われたために、生産力が回復し、高度成長の準備がなされた。こうした過程を支えたのは、戦時期に作られた総力戦のための経済システムである1940年体制だった。
戦時中に確立された体制は、来るべき総力戦に備えた戦争遂行のための経済システムだったが、戦後になってその目的が変更され、軍事力でなく経済力、特に生産能力の増強が目的となった。その目的の実現にあたって、官僚を中心とする戦時体制がそのまま機能した。日本経済をリードした主要企業も、戦時期に再編・形成された企業群だった。つまり、戦後日本の復興を支えたのは、戦時下で確立された制度であった。
以上が私の考えです。この見方を、私は「1940年体制史観」と呼んでいます。
戦後経済の復興とは、戦時下で確立された40年体制が実現した最初の成功であり、続く高度経済成長期に向かっての、重要なステップであったと言えます。


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