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『中国が世界を攪乱する』全文公開:終章の1

中国が世界を攪乱する』が東洋経済新報社から刊行されます。
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・5月22日(金)に全国の書店で発売します。

これは、終章の1全文公開です。

1  医師の警告を活かせなかった中国国家体制の重大な欠陥

無視された医師の警告
 新型コロナウイルスに関するニュースの中で、中国の1人の医師の死亡記事が世界の注目を集めた。
 この医師は、武漢市中心医院の李文亮医師。2019年12月30日、「7人がSARS(重症急性呼吸器症候群)にかかり、私たちの病院に隔離されている」とSNSに投稿した。
 警察は、これを社会秩序を乱すデマだとして問題視し、2020年1月3日に李医師を呼び出して訓戒処分とした。このとき、8人の医師が処分された。
 李医師は、処分されるおそれがあると知りつつ、警告を発したようだ。そして、病院で治療にあたり、感染して死亡したのだ。
 疫病に関して、現場の医師の情報は重要だ。このとき、それを重視して即座に対応すれば、拡大を防止できたかもしれない。
 しかし、その当時、中国当局は、情報を抑え込むことに終始していた。その結果、感染が拡大してしまったのだ。ここに、中国という国の重大な欠陥が現れている。

現場の情報を社会全体の行動にどう結び付けるか?

 かつて、経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクは、現場の人(man on the spot)が持っている情報を、社会全体の情報として共有するための仕組みについて論じた。
 状況を最もよく知っているのは、現場にいる人だ。その情報が、価格という簡単な情報に集約されて、他の人々に伝えられる。そして、社会全体としての需要と供給が調整される。ハイエクは、このようなメカニズム(価格メカニズム、あるいは市場メカニズム)によってこそ経済が運営できるのであり、中央計画当局が指令を発する計画経済体制では経済は運営できないとした。
 彼が考えたのは需要・供給の調整だが、同じことは、疫病への対処にも当てはまる。「現場の医師の重要な情報を社会全体としての行動にどう結び付けられるか?」という問題だ。中国における情報処理メカニズムは計画経済のそれと似たものであり、計画経済が失敗したのと同じく、現場の情報を社会的行動につなげることに失敗したのだ。
 これは、疫病の問題に限らない。同じことがあらゆる問題について言える。現場から発せられる多数の情報の中にはデマもあるだろうから、それをどう評価するかも重要だ。また、政治的な事柄については価値観の違いによって評価が違うから、必ずしもある考えだけが正しいというわけではない。それをどう調整するかも重要な課題だ。中国では、悪い情報は隠蔽される。貿易戦争が中国経済に与えている影響も、正確にはわからない。
 前述の李医師は、2020年1月30日にメディアの取材に対して、「健全な社会であるならば、声は一つだけになるべきではない。公権力が過剰に干渉することには同意できない」と語った。この発言は大変重い。
 さまざまな声があってこそ、そしてそれを調整するメカニズムが機能してこそ、健全な社会が実現できるのだ。中国にはそうしたものが欠如している。これこそが、信用スコアリングや顔認証等について問題としたことだ。

情報隠蔽に走った中国当局

 新型コロナウイルスが検出された2020年1月9日以降も、武漢市は「3日以降、新たな症例は見つかっていない」との説明を繰り返した。武漢市の対策が後手に回った結果、ウイルスは1月中旬から始まった春節(旧正月)の帰省ラッシュに乗って拡散してしまった。さらに、大量の旅行客を、日本をはじめとする世界に送り出した。
 武漢では、1月18日に「万家宴」と呼ばれる春節の到来を祝う中国南部の伝統行事が行われた。各家庭が手料理を持ち寄って歓談するもので、2020年の催しには4万世帯以上が参加した。これによって感染が拡大した疑いもある。
 地方政府が自主的な対策をとれないのは、中央の権力が強すぎるからだ。武漢市の周先旺市長は、1月27日、中国国営中央テレビのインタビューで「感染状況の情報公開が遅れた」と認めた。一方で、「地方政府は情報を得ても、権限が与えられなければ発表することはできない」とした。中央政府の許可がない限り、地方政府では対応もとれないし、情報公開もできないというのは、中国の統治機構の深刻な欠陥だ。
 1月20日に、習近平の重要指示が出された。それを境に中国国内はパニックに突入。発表される感染者の人数は、19日までの62人から20日には198人に急増し、それ以降、加速度的に増えた。
 1月23日、武漢は公共交通機関を閉鎖し、武漢を事実上閉鎖都市とした。1000万を超す人口の都市を封鎖するのは、人類史上例のないことで、中国政府が極めて強い権限を持っているから可能になったことだ。これによってウイルスの他地域への拡散を防止できれば、それは、中国政府の持つ強い力のプラスの側面だと考えることができる。
 しかし、早く対処していれば事態は変わっただろう。欧米諸国や日本であれば、もっと早い段階で、より緩やかな措置が取られたことだろう。
 「問題がない」としていた直後に1000万都市を封鎖するというのでは、落差が大きすぎる。事前に察知した市民の中には、封鎖令が発布される直前に脱出した者が多かった。周先旺市長は、26日夜に、「封鎖前に、500万人余りが市を離れていた」と明かした。

言論統制強化か、言論自由化か?

 本稿執筆時点では、この問題がどう収束していくのか、見通しがつかない。
 締め付けが強化される可能性もある。これまで中国では、SNS上の問題発信を徹底的に削除し、厳しく統制してきた。これから、情報統制はさらに強化されるかもしれない。天安門事件でなされたのと同じ強硬策が繰り返される可能性もある。
 中国の強硬的な姿勢を感じさせたのが、WHO(世界保健機関)への圧力だ。WHOは緊急事態宣言を遅らせただけでなく、2020年1月30日にようやく出された宣言では、中国政府の対処を賞賛するという異例のものとなった。そして入国制限などに対して否定的な見解を示した。
 これが中国政府の強い圧力の結果であることは明らかだ。中国政府は、国内の反政府勢力だけでなく、国際機関をも屈服させる力を持っていることを示すものだった。
 しかし、情勢がここまで悪化してしまった後では、言論を自由化しない限り事態は治まらないとも言える。
 事実、「言論の自由」を求める国内世論が高まっている。前述の李医師の警告を勇気ある行動だとする評価が、広がっている。世論は、政府の情報隠蔽体質に対する批判を始めている。天安門事件当時と比べて、SNSの力は格段と強くなった。投稿は削除しきれないほど多いとも言われる。


人々のグローバルなつながりを拡大できないか?
 この事件を契機として、中国の情報政策が大転換することを期待できないだろうか? これは、夢のような話と言われるかもしれない。しかし、必ずしもそうとは言いきれまい。
 先に述べた李医師の警告は、責任感の強い知的な人々が中国に存在することを示している。こうした人たちの発言が、さらに広がっていかないだろうか?
 2017年に、中国テンセントと米マイクロソフトが共同で開発した会話ボット「BabyQ」が、「中国の夢とは何か?」という質問に対して、「アメリカに移住すること」と答えたことが話題になった。これは、会話ボットの教育に用いられた中国のSNSで、そうした考えが多数流されていたからだろう。つまり、そうしたメッセージは「誰もがそう考えていること」なのだ。
 中国のサイトを見ると、「外国で働きたい」という書き込みがたくさんある。中国の若者たちは、グローバル志向を強めている。
 中国で、こうした考えは、マグマのようになって、地表に近づきつつあるのではないだろうか?
 この動きをさらに活性化するために、われわれは積極的に関与できるかもしれない。つまり、中国国内のそうした人々との交流を深めるのだ。
 もちろん、国と国の間には外交関係があるし、企業の取引関係もある。また、さまざまな分野に、交流を促進するための団体が多数ある。こうしたルートを通じての交流は、もちろん必要だ。しかし、これらは、特定の目的を持って設立されたものであり、しかも、組織を通じるものだ。
 私が考えているのは、もっと非公式な交流だ。組織の一員として接するのではなく、直接の利害関係を持たない個人と個人とのつながりを作るのだ。あまり強くはないが、情報の交換ができる関係だ。
 そうした草の根レベルの交流こそが、もしかしたら、これからの世界史の流れを変えていくのかもしれない。


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