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ボッティチェリ、「ラーマ家の東方三博士の礼拝」とメディチ家

マネーの魔術史』第1章の3で、中世イタリアのフィレンツェで、メディチ家が銀行業で成功したことを述べました。下は、メディチ家の紋章。

 彼らは、最初は両替商でした。東方との貿易で、さまざまな種類や品位の貨幣が集まります。それらを両替するのです。
 そのうち、要求払い預金を受け入れ、顧客の指示に従って、勘定振替によって決済するようになりました。12世紀ジェノバの両替商で、すでにそうした取引が行なわれていたことが分かっています。
 こうして、両替業のテーブルが預金振り替え銀行になりました。別々の両替業者に口座を持つ場合でも相殺決済できました。
 両替業と預金振り替え業は、当初は未分化でした。区別がなされるようになったのは14世紀初頭です。14世紀後半には、振替や小切手などを用いて、現金を動かすことなく決済が行われるようになりました。
 ただし、14世紀以前の銀行とは、街頭にテーブルを置いてベンチに腰かけて行う、屋台のような存在に過ぎませんでした。
 そうではあっても、ここで生じた変化は重要です。貨幣はモノから情報になったのです。つまり、数字になったのです。テーブルの上に金貨を並べる必要はありません。帳簿さえあれば十分です。預金元帳がすべてです。
 
 ニール・ファーガソン『マネーの歴史』によれば、1390年代より前のメディチ家は、銀行家というより、ギャング一味と呼んだほうがふさわしい存在でした。金融業者というよりは、ケチな騒動を起こすチンピラの類として知られていました。
 これを大銀行に発展させたのは、ジョバンニ・ディ・ヴィッチ(1360-1429)です。彼の息子コジモ・イル・ヴェッキオ(1389-1464)は、政府の実権を握り、フィレンツェ共和国を統治して、「祖国の父」と呼ばれました。コジモの孫ロレンツォ(1449-1492)が1469年に銀行を引き継いだときには、本格的な銀行になっていました。メディチ家は、2人の法王、2人のフランス王妃、3人の公爵を輩出するまでになりました。

 ロレンツォは、「偉大なロレンツォ」と呼ばれました。これは、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッチチェリ、ガリレオなど、多くの芸術家や学者のパトロンとなったからです。

 いまフィレンツェを訪れる人は、数々の壮麗な建築物に感嘆の声を上げます。ドゥオモ、旧ビッティ宮殿、ヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ等々。建物だけではなく、その中には、人類の宝物と言える美術品があります。この街が世界で最も美しい街の一つであることは、誰も認めるでしょう。
 それらの多くは、メディチ家が残したものです。メディチ家の繁栄こそが、花の都フィレンツェを作ったのです。

 ボッチチェリは「東方三博士の礼拝」を10点近く描きましたが、「ラーマ家の東方三博士の礼拝」と呼ばれる作品(この画は、2016年に日本で公開されました)には、メディチ家の人々が描かれています。

 幼児イエスの足を洗うのがコジモ。ヴァザーリは『ルネッサンス画人伝』で、この作品を絶賛し、とりわけコジモ像について、「数多いコジモの肖像の中でもっとも生彩に富み、かつもっとも自然なものである」と述べています。
 右手に彼の息子ピエロ(赤い衣装)とジョバンニ(白い衣装)がいます。ロレンツォは薄青の衣装。弟のジュリア―ノは剣を握っています。

 ニーアル・ファーガソンは、『マネーの歴史』(早川書房)の中で、「かつて街頭にテーブルを置いて商売していたギャングの一味は、神に近い存在にまで上りつめた」、「この画は『メディチ家の礼拝だ』」と言っています。

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