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衝突!織田信長VS武田勝頼 長篠の戦い

長篠の戦いは1575年5月、三河国(今の愛知県東部)で武田軍と織田・徳川連合軍との間に起こった戦です。最終的にこの戦いに武田軍は敗北し、以後情勢は織田家、徳川家に傾いていくことになりました。

1、長篠の戦い以前の情勢

武田信玄が1573年に死去した後、織田信長は室町幕府第15代将軍足利義昭を京都から追放し、浅井・朝倉家を滅亡させ、周囲の敵対勢力を次々と倒していっていた。しかし、1574年、越前(今の福井県)で一向一揆が起きると、信玄の跡を継いだ武田勝頼はこれを好機と見て織田側の明智城(岐阜県の東側にある城)と、徳川側の高天神城(静岡県の西側にある城)を攻め落とした。この時信長も城を助けるべく援軍に向かっていたが、いずれの城も城が先に落城してしまい間に合わなかった。
1575年3月、信長は石山本願寺(今の大阪城の場所あった寺院)を攻めるため準備を始めた。これを知った石山本願寺はこの信長の動きに対応するため、勝頼に信長を牽制するために軍を動かすよう頼んだ。これを受けた勝頼は徳川家が支配する三河を攻めることを決め、先行の部隊にいくつか城を落とさせた後、4月中旬、三河へ向かって出陣した。
        武田勝頼の像(山梨県甲州市甲斐大和駅前)

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2、三河での戦い

山県昌景ら先行隊は足助城を攻略し、その影響によりで周辺の城も武田に城を明け渡した。その後先行隊は古宮城で勝頼の軍と合流、吉田城へと向かった。吉田城は徳川家康の居る浜松城とその長男松平信康のいる岡崎城を分断できる重要な拠点であったが、家康が吉田城に入って抵抗したため、勝頼は吉田城を諦めて長篠城を攻めることにした。
         1585年3月~4月の武田軍の三河攻め

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    赤▽武田の城、青▽徳川の城、赤✖三河での戦いで武田が落とした城  水⇐合流前の武田側の進軍、赤⇐合流後の武田側の進軍、青⇐徳川側の進軍

3、長篠城での戦い

5月1日、長篠城を包囲した勝頼は様々な手を打ち城を落とそうとするが、徳川家家臣の奥平信昌らが善戦して抵抗したため城は中々落ちなかった。この間に信長は河内(今の大阪府の南東部)の高屋城を攻略して、長篠城へ援軍に向かっていた。5月18日、家康と合流した信長は設楽原に陣を布き、これを受けた勝頼は信長、家康を討つべく有海原へ進軍し、5月20日、連吾川の東側の台地に陣を布いた。
               長篠城

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4、鳶ヶ巣山奇襲作戦

5月20日、信長は家康の重臣酒井忠次に鳶ヶ巣山を奇襲するよう命じた。鳶ヶ巣山は長篠城の東にある山で武田軍はここに砦を築いて長篠城を包囲していた。勝頼が有海原へ軍を進めた後も、勝頼の叔父河窪信実率いる千の兵がここから長篠城を見張っていたため、信長はここを奇襲することで長篠城を救出し、武田軍の背後を脅かすことに決めた。忠次は20日の月の沈む頃に四千の兵を率いて進軍を開始し、深夜山道を使い大きく迂回して鳶ヶ巣山へ向かい、21日朝8時頃、鳶ヶ巣山を奇襲した。奇襲には500挺以上の鉄砲が使われ、信実も何度か砦を奪い返したが戦死し、鳶ヶ巣山の砦は陥落した。これにより長篠城は忠次により救出され、背後を取られた武田軍は安定した撤退ルートを失ってしまい危ない状態となった。
       酒井忠次像(愛知県岡崎市岡崎乙川桜城橋)

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5、設楽原決戦

決戦のおいて織田軍は三万八千程の兵を率いて武田軍約一万二千に対して大きく兵力差をつけていた。この状況で織田軍が採った作戦は野城の築城であった。三重の馬防柵に加え大量の鉄砲と弓を用意し、馬防柵から出ずに武田軍の攻撃を無力化し撃破しようとした。
            信長が本陣を布いた茶臼山

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対する武田軍は敵よりも劣る兵数でも勝つ見込みのある翼包囲を狙った陣形を採った。
            長篠の戦い 両軍の布陣

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青:織田・徳川連合軍、赤:武田軍
織田信忠:信長の長男、北畠信雄:信長の次男、佐久間信盛:織田家の重臣
羽柴秀吉:後の豊臣秀吉、松平元康;家康の長男、内藤昌豊:武田家の重臣
馬場信春:武田家の重臣、山県昌景:武田家の重臣、

決戦は21日の朝6時頃から始まり、勝頼が鳶ヶ巣山の陥落を知ると、背後を取られた武田軍は前面の織田・徳川連合軍を撃破するしか勝機がなくなり、11時頃から武田軍は猛攻を始めた。まず武田軍左翼の山県昌景隊が家康隊に攻撃し、そこから各隊が次々と攻撃を仕掛けていった。武田軍の攻撃により、三重目の馬防柵まで突破される部分もあったが、馬防柵を破壊する作業で多くの足軽が戦死し、兵数・物量で劣る武田軍は次第に劣勢に立たされていった。
                馬防柵

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もはや戦闘を続けることはできないと悟った勝頼は正午頃撤退を開始したが、これを見た織田・徳川連合軍は一斉に柵から出て追撃を行った。これにより午後2時頃武田軍は総崩れとなり、山県昌景らが戦死した。勝頼はたった2人の側近を伴って戦場を離脱。馬場信春らが殿(撤退戦で追撃してくる兵と戦う部隊)を務め戦死した。撤退した勝頼は初め田峯城に入ろうとしたが、菅沼定直ら城兵たちが反旗を翻したため城に入れず、武節城まで落ち延び、ようやく休息できた。
                1585年5月21日の勝頼の撤退ルート

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青✖:勝頼撤退時徳川側に乗っ取られた城

こうして一時期織田家、徳川家に優勢であった武田家は長篠の戦いに敗北し、多くの将兵を失いこれ以降は劣勢となってしまい、1582年、信長の長男・織田信忠によって攻められ、ついに滅亡してしまいました。信長に書記として仕えていた人物・太田牛一によって書かれた『信長公記』によれば武田軍は有海原に出てこず、地形が険しい長篠で待ち構えていれば勝てたと書かれているが、なぜ勝頼は有海原に出てまで織田・徳川連合軍を打ち破ろうとしたのでしょうか?長篠の戦いについてもっと知りたいと思った人はインターネットなどでもっと詳しく調べてみてください!以下参考文献

・信長公記巻八
 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho11.html
・BUSHOO!JAPAN
 https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2020/03/24/20750#i
・決戦! 長篠の戦い
 その19 https://note.com/chamyu/n/nb5ae22c11546
 その20 https://note.com/chamyu/n/n241121eeb62b
 その21 https://note.com/chamyu/n/nfb39dae9002d
・武田勝頼公と北条夫人の部屋
 http://rashimban3.blog.fc2.com/blog-category-9.html

いずれも2020/08/08 17:30確認