猪口礼湯秘話
おはやしこよし
江戸の何処かの岡場所で 格子はさんで客を呼ぶ 女郎はどこからきたものぞ
白粉つけて狐憑き 提灯掲げて太鼓持ち なじみがつけばもうけもの 苦界も渡海も金次第
やれ吉原じゃというけれど 川越えずとも丘がある 岡目八目世の常だ
チャンチキ チャンチキ チャンチキチ チャンチャンチキチ チャンチキチ……
暮れゆくお江戸に花が咲き やがて朝にはつゆ落ちる 色はにおえど散りぬるを 諸行無常が人の夜か
其の一 初回
夕暮れの手前、お糸は二階の一室の掃除をしていた。客が帰ったので後始末である。
早く片づけてお客がとれるようにして次をとりたい。畳の上に転がった安物のかんざしを拾って無造作に髪に挿して布団をはたいていると、
「お糸、片付いたかね」
開けっ放しのふすまから年増女が顔をのぞかせた。女郎屋の遣り手である。
「すんまっせん、もすこし」
「そうかい、なにゆっくりでいいよ。今日はお客が少ないから他に空きもある。それなのにあんたはもう二人とったから大したもんだ。これからはその調子でやっておくれよ」
「へえ」
お糸が一日で二人も客をとるのは珍しいことだった。それも今日は昼から夕暮れまでのうちに早くもで、これは今まででいちばんはやい。ひょっとしたらここで働き出してからはじめて一日で三人の客をとれるかも知れない。
お糸は客をとりはじめてからまだ一年にもならない。生来引っ込み思案だから男をひくコツがわからない。器量は良いとまではいえぬし、下総の貧乏百姓の出だから品も知もない。
とはいえ色々ないのはここで働いている他の女も同じようなものだ。まずみんな金がない家に生まれたからこの岡場所に売られてきた。中には女衒にさらわれてきた娘もいる。やりとりの形は奉公働きとはいえ、売り買いの物として故郷から江戸に連れてこられたのである。
器量があればそれでまずよし、なければ愛嬌そのほかで客をたぐりよせるしかなかった。実際、お糸のひたむきさが良いと言ってくれる客もいた。
岡場所の遊女は一日に幾人も客をとらねばならぬ。そうしなければ生きて苦界を出るという消えかけのろうそく灯りのような頼りなくも一縷は残る望みが芯から絶たれてしまう。これが消えればあとはお先真っ暗、黄泉の道行き。
客を多くとればそれだけ早くここをでることができる。はじめは泣いて落ち込んでいた彼女も、年上の遊女からそうなぐさめられて日々を過ごすうちに徐々に考えを変えていた。
こうして掃除をしているときに窓の外を見やると、場所が門前町の片隅だけあって色んなものが目にとびこんでくる。寺社の境内から背を伸ばす大木は故郷の森を思い出させてくれ、眼下を楽しそうに歩く人々はここを出た自分を想像させてくれる。それらが彼女のいっときの心の安らぎであった。
と、気がゆるんだせいかめまいがした。
お糸は男と寝るのが主たる仕事だが、岡場所の店々も常にやっているわけではないので、しまっている時はあらゆる雑用をやらされている。ここに売られてからは身も心も常に忙しかった。近ごろは働き過ぎのせいかだるくて、今のようにめまいがすることがときどきある。
「ありゃあ、人がいたとは。御免よ」
男の声に振り返ると、さきほど遣り手が立っていたふすまのところに、地味な灰色の着流しと羽織を身につけた男が立っていた。髷はきちんと整えた小銀杏で、しっかりと髭を剃った顔が人のよさそうな笑みを浮かべている。
「びっくりしたよう。おじさんあんたお客さん……ではなさそだね。ひょっとして」
お糸がにじりよりながらたずねると、男は手を合わせて何度も頭を下げた。
「ああすまないよ、どうか静かにしておくれ」
「盗っ人さんだね。人のよさそな顔してわるいおじさんだ」
「やっ、やっ、盗っ人じゃあないよ。本当だ」
「じゃあお客さんなん」
「お客さん、じゃあないねえ」
男が真面目に答えるものだから、思わず吹き出してしまった。お客だと言っておけばいいのに。
「うそ下手だね。じゃ護摩の灰かなんかだろ」
「あたしゃそんなのじゃないって。ほら旅する格好には見えないだろう。どっちかってえとほらあれだ、八丁堀の旦那方に使われる、」
「岡っ引きかい」
「そうそれそれ、そっちの方が近いよ」
「近いってなんだい。それに岡っ引きなんて盗っ人とそんなにかわりゃしないよ」
「こいつはうまいこという嬢ちゃんだ」
「そんなほめられ方されてもね。なんにしたって人を呼ぶよ」
「おっとそいつは勘弁しておくんな」
「やましいところがある奴はそう言うんだよ」
「ないと言えばうそになるから困るねえ」
「そうだろ」
「うーん、困ったな。どうだい嬢ちゃん、ひとつ話に乗ってくれないかい」
「わたしを買ってくれるってんならいいよ。どうせならここから出しておくれよ」
冗談と本気を半々でもちかけた。
「ははは、そっちはあいにく今はちょっと無理でねえ。どうだい、あたしゃあ手妻が得意でね。それに色んなお国の話を知ってるんだ、そいつを見せて話してきかせるから、あたしのことは黙っといてくれねえかい」
手妻とは手品ともいい、なんにもないところから物を出したりまた消したりする芸事の一つである。
「手妻ねえ。お話ねえ。いよいよ怪しい人だねえ。でもねえおじさん、こんなとこきたんならわかるでしょうよ。お金にならねお話につきあってる暇ないんだよ」
と言っておきながら駄菓子菓子、お糸はすこし考えた。彼女はふるさとの村で女衒に買い叩かれ、親たちに金が渡る代わりとして江戸に連れてこられてこの店に入れられた。それからのちは、敷地の外に出たこともほとんどない。下総生れだが関八州はもちろんこの江戸のこともまだよく知らず、京大坂はたまに人から聞いてあこがれる夢物語。いつかは……
「おじさんは京の都も知ってるのかい」
「おうともさ。よく行ってるよ。もっと西国の話も、遠い遠い海の向こうの話もできるよ」
「そこまでいくと言いたい放題だよ。だって知ってる人なんていねよ。ただのほら吹きじゃないか」
「おっとっと、嬢ちゃんそいつは見ての聞いてのお試しだよ」
男は言うが早いかお糸の目の前でもみ手をし、
「さあ鬼が出るか蛇がでるか」
パッと両の手のひらを広げてみせた。どちらの掌にも白い薬包が乗っかっている。
「おじさんやるねえ。盗みをするにゃそれくらいできないと」
軽口は叩いたものの、手妻には感心した。
「こいつは南蛮の人からもらった粉薬でね、お湯に溶かして飲むとなんにでも効く上にとっても甘くて美味しんだよ」
ここまで奇天烈なことを言われるとなんだか可笑しくなって、話に乗ってみる気になった。
「毒じゃあないのかい。この薬缶にまだぬるま湯が残ってるからさ、まずおじさんが飲んでごらんよ」
「あいよ」
男は手近の湯呑にお湯をそそぎ、薬包のひとつを器用に片手だけでひらいてさらさらと流し込んだ。茶色い粉末だ。湯呑の中がすぐに染まって色づいた。
「なんだか泥のようだねえ。本当においしいのこれ」
「おいしいさあ。からだにもいいのさあ。あたしゃできればいつでもこれを飲みたいね」
「ふうん。これの名前はなんての」
「よくぞ聞いてくれました。こいつはね、滋養強壮、精力増進、万病に効く……」
「口上はいらね」
「おっとすまないねえ。こいつはね嬢ちゃん、猪口礼湯さ」
其の二 裏
ちょこれいとう、うめかったなあ……
お糸は他の女たちよりも小半刻はやく寝床につき、真っ暗闇の中で猪口礼湯の味を思い出していた。
あの薬湯を「盗っ人」の男が飲ませてくれてから半年経っている。思い出は日がたつごとに薄れるのが相場なのに、あの日のことはむしろ濃くなっていくようだった。
「どうだい嬢ちゃん、おいしいだろう」
男にそう言われた彼女は言葉を返せなかった。猪口礼湯のあまりのうまさに彼女は一瞬、周りのことを全て忘れたのだ。なめらかな舌触りとのどごしの、あまいあまい、味わったことのない素敵な飲み物に、彼女のつらい日々はほんのいっときまとめて蹴散らされた。
その日の夜、お糸は三人目、四人目と客をとることができた。ちょこれいとうの力だと、彼女はおもった。
半年前のあの日を脳裏に浮かべて横になっているこの部屋は彼女ひとりきりで、納戸のようにせまくるしい。だが、枕布団のほかは薬缶と湯呑に行灯くらいしか物はない。
夏がさっさと去ってしまって既にすずしい秋の今、薬缶の中はとっくにさめきっていた。行灯のほうは破れており、あかりをともそうにも中にろうそくも油もない、ただの置き物だ。
「お糸、調子はどうだい」
入り口の板戸が少しひらき、廊下からかすかな光と共に遣り手の顔がのぞいた。お糸の寝床をこの部屋にうつす差配をしたのはこの女だった。
「へえ……」
どう答えたものか、お糸にはわからなかった。
ほかの女たちからは、あの子は頑張り過ぎたのだと言われていた。たしかにそれはあったろう。お糸はお客を四人とることができたあの日から、前にも増してすべてに力を入れて張り切って働いた。
彼女がそうするほどにお客はとれるようになり、年季明けがもやのかかったうすぼんやりとしたまぼろしからはっきりとした道しるべに思えてきた。彼女はますます頑張った。
そして倒れた。
ある日の宵の口、高熱が出て廊下で崩れ落ちたお糸は、布団に運ばれたあとは三日三晩目を覚まさず熱にうなされた。いまではなんとか働ける程度には調子がもどったが、以前のようにしゃかりきに動こうとすると身体が田んぼの泥になるんじゃないかと感じるほど重くなり、わるくすれば気を失いそうになる。
それでも働かねばならなかった。形ばかりの年季奉公だから、食事も着るものもすべて店に金をとられる。休めばそのぶん借金が上積みされていくのだ。だからお糸は、自分の身体をだましだまし客をとるしかなかった。
遣り手とのあやふやなやり取りが終わってからすぐに、
「やあ嬢ちゃん」
あけっぱなしにされていった板戸の隙間をするりと、風のような身のこなしで男が入ってきた。
「具合が悪いようだね」
男は部屋の中が暗いのを気にせずに枕元にすわると、心配そうに彼女を見つめた。
お糸の方は半年振りの突然の再会に驚いたが、男があまりにも普通にしているので、盗っ人ならいきなりくるのも暗がりになれているのも当たり前かと妙に納得して受け入れた。
「おじさん、ひさしぶり」
「ひさしぶりだね」
「でもおあいにくさまだよ。ここに持ってけるようなもんありゃしないよ」
お糸は寝たまま男を見上げて笑顔で憎まれ口をたたいた。と、急にはげしいせき込みに襲われて身体を丸めた。
男はなれた手つきで彼女の上半身を起こして後ろに回り込むと、背中をさすってやった。
「時々はね、こうしてせき込んでさ、苦しいけどね……平気だよ」
「そうかい、よかったよ」
本当には思っていないことを言い合う。向きあっていたらたぶんお糸はたまらず泣いていただろう。彼女は話を変えようと思ってか、また憎まれ口を叩いた。
「盗っ人に心配されてもね」
「や、嬢ちゃんそりゃあ違うって」
「どう違うんだい」
「盗っ人はね、猪口礼湯なんて持ってないよ。こりゃあ手に入れるのが難しいんだから」
「それはどうだか。どこからか盗んだんじゃないの」
「なにを言いなさるか嬢ちゃんよ。あたしは猪口礼湯をくれた南蛮さんとは仲が良いんだよ。こないだ会った時にはまたすごいことを教えてもらったくらいさよ」
「へえ。どんな」
「あれは粉薬だからお湯に溶かさなきゃ飲むのに難儀するだろう。こぼれたりする心配もある。そこでね、丸薬にしようじゃないかと盛り上がってるんだとさ」
「ふうん」
「次くる時はお土産に丸薬になったやつを持ってくるよ」
「それもいいけどね。だったらおじさん、お客さんとしてきてくれりゃいいのにさ」
「すまないねえ。おじさんも色々あるのさ」
「いいよ。でもきっとだよ。持ってきてね」
「おうともさ。今日はこないだと同じので我慢しておくれ」
「持ってきてくれたの」
お糸は目を輝かせて振り返った。
「もちのろんだよ」
「あ、だけど湯がないよ。ぬるま湯もないんだ」
「なに大丈夫さ。あたしゃ手妻が得意だからね。まずは嬢ちゃんが飲みやすいよう部屋を明るくしないとね」
男は破れ行灯に手をのばし、「さ、起きな」とささやいた。すると不思議なことに行灯にあかりがともった。
あっけにとられたお糸に男はニッと歯を見せて、今度はさめきってしまった湯の成れの果てをそそいだ湯呑の口を手でおおって、
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚……あとは忘れたポンポコプイ」
男が手をどけると、湯気がたちのぼった。お糸はびっくり、目が皿になってしまった。
「……すごいねえ」
「あれもこれも手妻のなせるわざさね。さて」
男はいつの間にか手に持っていた薬包から茶色の粉末を湯呑へ入れた。
ああ、ちょこれいとうだ。
「嬢ちゃんお飲み。これをくれた南蛮さんも心配していたよ。病が治っちまうまではいかないが、とっても楽になる」
お糸は湯呑を両手で差し出してくれた男に礼を言おうとしたが、涙にはつきもののしゃっくりがとまらなくなってなかなか言えなかった。
其の三 馴染み
再会からまた半年経った。
お糸の病状は秋のあいだは小康の綱渡りをなんとか保てたが、冬の寒さで一気に落ち、新年を迎え江戸が華やかに賑わう頃には客をとるのは到底できないところまで悪くなった。寝床から厠に行くのも大変で、立つのがむつかしいので這っていく。板戸の開け閉めすら難儀するので、開け放しだ。そのせいで廊下から絶え間なく押し入ってくる寒さが彼女をさらに弱らせた。
「糸、夕飯いるかい。おい、返事しな」
遣り手が廊下からぶっきらぼうに怒鳴った。
「……いらんです…………」
すきっぱらなのだが体がうけつけない。近ごろは水のようにうすい粥ですらなかなか喉を通らない。激しい咳で吐いてしまう。入るものは減る一方なのに出るものは増えていた。喀血が日に日にひどくなっていたのである。
「嬢ちゃん、こんばんは」
男は前と変わらず突然現れ、音を立てずに枕元にすわった。お糸の応えは、ない。今の彼女は手足はやせほそり葦のごとくで、髪を結うのをやめた頭は不釣り合いに大きく見える。
彼女は男が入ってきたのに気づかずに、仰向けになって焦点の定まらぬ瞳を天井へ向けていた。
「猪口礼湯もってきたよ。いつもの粉薬のと、こないだ言った丸薬のと、両方さ」
「……」
「南蛮さんがうまいこと丸薬をこさえてね。嬢ちゃんにあげてくれっていったのさ」
あえて体調に触れずおだやかに話しかけているうちに、お糸は気づいて男の方に顔を向けた。なにかをいいたいのだろう、口をゆっくり動かしているが、そこから出るのは苦しげなヒュウヒュウという音だけだ。くちびるは日照りの田畑を想起させる荒れ具合で、一年前の面影は消えかけている。
「水、飲むかい。白湯がいいかもしれないね」
男は部屋の片隅に転がっている湯呑をとって、自分の着物の袖口で丁寧にふきあげてから水を注ぎ、手妻で白湯を作った。
お糸は起こした半身を支えられながら少し飲み、ようやく声が出た。
「おじさん……わたし、しにたない……」
死相を浮かべ、おびえに満ちた目で助けを求める彼女に、男はやさしく語りかけた。
「大丈夫だよ、嬢ちゃん。あんたは大丈夫。猪口礼湯をお飲み。楽になる、元気になるよ。まずはいつもの薬湯の方を作ってあげよう」
男は今までと変わらぬ様子で猪口礼湯を作り始めた。それをぼんやりと見ていたお糸に、突如稲妻のような衝撃が走った。そうか、そうだ、そうにちげえね……
病身の少女にこのようなものがまだ残っているのは意外といえるはげしい怒りが、猪口礼湯を作ろうと湯呑に目を落としている男に対して湧き上がった。
「どうしたい、嬢ちゃん」
男は湯呑を見たままたずねた。
「おじさん、あんた、あんた……人殺しだろう」
「どうしたんだい。あたしは盗っ人でも人殺しでもないよ」
「うそつけ……あんたはじめっからわたしを殺す気だったんだ。だましたんだ。ちょこれいとうはやっぱり毒だったんだ。わかったんだよ」
「嬢ちゃん、なにを言いなさる。これは毒じゃあないよ」
「うそつけ……うそつけ、うそつけ、うそつけえええ!」
お糸は力を振り絞って男にとびかかった。そんなことをしたとて萎え切った病身の娘、どうなるものでもないが、死にたくないという生き物の感情と更に、それすら上回る憤怒と悲しみが彼女の体を駆り立てた。
湯呑は落ちて割れ、猪口礼湯の茶色がそこらに野放図に広がっていく。
だまされていた!
しんじてたのに!
たとい盗っ人でも悪い人じゃないと思っていたのに!
ちょこれいとうはあまくておいしいくすりなんだとうれしかったのに!
「うぞづきぃぃぃぃ、ゔゔぞずきぃいっ!」
涙も枯れ果てたように思われたお糸は、滂沱の涙を目と鼻から流し、口からは真っ赤な血を吐きながら男の首をしめようともがいた。
こいつが人殺しなら頼んだのはだれだ
遣り手のおばさんか
店の旦那さん夫婦か
お客さんか
一緒に頑張ったねえさんたちか
女衒のおじさんか
おっとうか
おっかあか
みんなでわたしをだましてたんか
鬼の形相でつかみかかってきたお糸を、男は悲しそうに申し訳なさそうに見つめながらされるがままだった。彼の着ているものはみるみるうちにお糸の吐いた血で染まったが、そんなことはどうでもいいようである。
おっとうおっかあが泣いてたのはうそか
お客さんがほめてくれたのはうそか
ねえさんが頑張ればここから出れるって言ったのはうそか
みんなみんなうそか
わたしだまされてたんだ
この世にほんとのことなんてなかったんだ
ほんとはみんなでわたしを殺そうとしてたんだ
こんならいっそうまれてこなければよかったんだ
そうだ、うまれてこなければよかったんさ
お糸の想いは激情の中で、袋小路に突き当たってしまった。
生まれてこなければ良かった。
途端、彼女の全身から力が抜け、眼の前が真っ暗になった。目を閉じてはいないのに、何も見えなくなった。それでも耳は聞こえた。まるで遠くからの呼びかけみたいに、でもしっかりと。
「……ちゃん……嬢ちゃ……嬢ちゃん……」
ああ、おじさんだ。まちげえね。耳が遠くなったんだろか。
男にからだをしっかりと抱きかかえられているのは見えずとも感触でわかり、お糸は我に返った。
「ごめんね……おじさん。おじさんが人殺しなわけないよ」
「いいんだ、いいんだ」
「こわいよ。しぬのがこわい。いきるのもこわい。くるしい」
「うん、うん……」
「おじさん」
「なんだい」
「いままでありがとう、さいごにね」
「最期なもんかい」
「ちょこれいと、のみたいな。たべたい、な……」
お糸は微笑んで、こと切れた。
「ごめんよ嬢ちゃん、ごめんよ……」
男はそっとお糸を布団に寝かせ着物を整えて、最後に目を閉じてやった。
「あたしゃ駄目だね。自分じゃ昔よりも少しは人情がわかるようになった気でいたけども、自惚だった。嬢ちゃんを怖がらせて余計苦しませてしまった。ごめんよ……」
ドタドタと廊下から人の走る音がし、遣り手が部屋の中にヌッと首だけを伸ばしてきた。
男は逃げず隠れずお糸の枕元にいるが、遣り手には彼の姿は見えていないようである。
「糸、おい、糸や」
しばらく呼びかけても返事なく、ぴくりともしないお糸をじっくりと見て遣り手は、安堵の溜め息をついた。男はそれを聞くや、両手でお糸の耳をどっちもしっかりとおおった。
「ああやっと死にやがった。気の利かない娘だったが正月過ぎてから死んでくれるとはね。さいごにゃちっとは真っ当になってくれたね」
遣り手はなおも悪罵をやめない。まるでお糸が諸悪の権化という勢いである。
「まったく自業自得だよ。寝て無駄飯くらっても体が良くならないのは怠けてるせいだ。世の中ねえ、こんな奴らはどんどん死んだ方がよくなるんだ。たいしてゼニを稼げないくせに飯ばっかり一丁前にくうのばっかりじゃうちらみたいな真人間が割食うばかりだ」
男は遣り手の方は一切見ず無表情であったが、遣り手の息が切れたところで顔に微笑みをつくってお糸にささやいた。
「嬢ちゃん、遣り手さんは良い人だね。いままでよく頑張ってくれたって言ってるよ」
散々ののしって気が晴れたか、遣り手は首を引っ込め、廊下で大声を飛ばしながら去っていった。
「おい、誰かきて糸の亡骸を片づけな。怠けと貧乏があたしらに染みついちまうよ」
遣り手の声が遠ざかってから、男は両手をお糸の耳から離し、ひたいをなでた。
「嬢ちゃん、行こうか」
と、横になっているお糸のからだからもう一人のお糸が分身の術のように分かれて起き上がった。魂である。
魂の方のお糸は不思議そうな顔で男と向かい合ってすわり、口をパクパクと開いて閉じて、池の鯉。生者にとってはなんの声もせぬ。が、男には聞こえているようで、
「大丈夫、大丈夫、もう」
といつもの調子で答えた。
「…………」
「怖がらせちゃいけないと思ってねえ」
「…………」
「うん、そうそう、そうだよ。盗っ人じゃなかったろう」
「…………」
「え、命を盗んだんじゃないかって? あたしにはそんな力はないよ。ただの案内人さ。迷わないようにね、こうしてくるのさ」
「…………」
「それはあたしの仕事仲間たちからも言われてるんだ。どうにもね、なぜだかわからないけれども、お節介が過ぎるようになっちまってね。南蛮さんにも言われてるなあ」
「…………」
「うん、うん……もう大丈夫だ。らくになっただろう。さあ旅にいこうじゃないか。どこにいきたいかね」
「…………」
「ははは、そいつぁ安心しておくれな。ちゃんと事情を話しておいたんだ。なに、閻魔さまも鬼さんたちも人でなしより人情があるからね。気のすむまで寄り道してもいいって言ってくれたのさ」
「…………」
「そうかい、じゃあまずは嬢ちゃんのふるさとに行こうか。下総だったね。それから先に何処へ行くかは道すがら考えればいいさ」
「…………」
「うんうん、さっさと出てしまおう。そしてどこかで一休みして猪口礼湯を食べようよ」
「…………」
「なに謝ることはないさ。丸薬の方がまるまる残ってるよ。これはね、人利麩ってんだ。食べた人みんな幸せになって欲しいと願いを込めて作ったんだとさ。そうそう、南蛮さんに嬢ちゃんが食べてどう言ったか伝えないといけないね」
「…………」
お糸はにっこり笑うと、すっかり軽くなったからだを小鳥みたく動かして店の外へ飛び出た。そうしてそのまま門前町の中を走り回った。
でられた。
ほんとのことあるんだ。
お糸は、うれしかった。
きよしおはやし
この世の何処かの岡場所で 格子はさんで客を呼ぶ 女郎はどこからきたものぞ
白粉つけて狐憑き 提灯掲げて太鼓持ち なじみがつけばもうけもの 苦界も渡海も金次第
やれ吉原じゃというけれど 川越えずとも丘がある 岡目八目世の常だ
チャンチキ チャンチキ チャンチキチ チャンチャンチキチ チャンチキチ……
すぎゆく二人を目にとめた 左官と隠居が大声で はよにげ そこゆくおふたりさん
お人よしにもほどがある 彼ら二人に手を振って 娘と男は旅立ちだ
昔も今も変わらぬは 旅は道連れ世は情け 情けは人の為ならず
甘いか苦いか猪口礼湯 どこかで食べよう猪口礼湯
(おしまい)