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ニューロダイバーシティ:障害は社会が作っている


まえがき

 前回のNoteの冒頭で、「ニューロダイバーシティは、脳の多様性を尊重し、社会をより包括的にするための取り組みです。この概念は発達障害者に焦点を当て、彼らの個別の特性を障害ではなく多様性として受け入れることです」と記載させて頂きました。今回は、障害とは何かという点から入り、多様性を受け入れるとはどういうことなのかを綴りたいと思います。

障害とは何か

 このNoteのタイトルにもしてますが、私は「障害は社会が作っている」と考えてます。正確に言うと、そのように考えさせられることがありました。以下ではその様子を紹介させていただきます。それは、ある高校の文化祭で、福祉課の催し物に参加し、障害者として疑似体験をしたときのことでした。

二足歩行者という障害
この世界は車いすの方々がマジョリティで、二足歩行者が障害者である環境設定でした。つまり、社会を構成するマジョリティが車椅子で生活している世界です。そこに飛び込んだ私たち(催し物の参加者)は驚きの連続です。以下、その様子です。
・レストランに入ると、天井が140㎝くらいと低く、腰をかがめないと入れないし、天井に頭をぶつける
・かがんだ状態なので、あっという間に腰が痛くなる
・テーブルはあるが、椅子は私たち障害者向けに2席だけ用意
・椅子も生産があまりされていないので、高価になり、多く用意できない
・それでも、2席あれば、障害者対応認定店とのこと
・結局、座れない方のために、ヘルメットも無償貸し出しサービスあり
・そして、車椅子の店員の方と雑談するとスポーツの話題になり、
「えっ、二足歩行者の方がバスケットやるのですか?足がつったりしないのですか?」とか、
「二足歩行の障害があるのに、皆さん活動的ですね、よく障害の乗り越えて頑張られてますね」等、温かい声がけをもらえるのだが、非常に違和感を覚える(「あれ、私って、こんなに惨めだったのかな・・」っと)

非常に素晴らしい催し物でした

 皆さん、如何思われたでしょうか?。この催し物に参加して、私が学んだことは障害はケガや病気が作り出しているのではなく、社会が作り出しているということでした。結局のところ、社会を構成するマジョリティの身体的な特性、マジョリティの方々ができる、あるいは、マジョリティにとって仕組みが効率的という前提で作られた社会により、マイノリティの方々が障害として扱われているということです。
そして、上記※でも記述しましたが、なんだか、配慮の仕方次第で、受け入れられていると感じる場合と、親切だけど何だかモヤモヤする感じを受けたりします。マジョリティの方がもつマイノリティの方々への認識と、マイノリティの方々が持っている認識の違いによって起きていると思います。マジョリティの方々が気が付いていない、障害者に対する誤解があったように思います。「社会的にマイノリティだからと言って、そんなに悲しくないし、自分らしく生きていきたい」、そんな思いも持たれているのではないかと、気づかされました。

多様性を受け入れるとは何か

 前節では、想像しやすくするために、身体障害を例に障害とは何かを述べさせていただきました。同様のことは発達障害にも当てはまると思います。マジョリティの方々にあわせた全員一律の教育カリキュラム、これはマジョリティの方々にとっては非常に効率的に作り上げられていると思います。特に各科目の勉強を通じて教育目標の達成に向けて学ぶという仕組みは長い間をかけて出来上がったものだと思います。
 一方、発達障害の方々にとっては、これが非常に困難になることがよくあると思います。各科目の勉強そのものは決して嫌いでもないし、むしろ学びたいのだが、「友だちが何を考えているか読み取れなくて、学校には行けない」、「頭では理解しているけど、ノートを取るのが苦手(脳の指令が手先に十分に届かない)」、「忘れ物の頻度と量が半端なく多く、落ち込んでしまう」などなど。このように、マジョリティの方々にとっては、「そんな事たまにあるよね」的なことでも、発達障害を持つ方にとっては、その頻度と量が極めて多いことによって、学校にいけなくなってしまうことがあります。そして、発達障害がゆえにおきる学校生活における困難は、本人の工夫と周りの理解や支援で対応できる場合もありますが、基本的には本人の努力と、周りからの支援でマジョリティに合わせるというのが現状ではないかと思います。そして、よく聞く話としては、発達障害があるので通常クラスだとうまく本人が対応できないので、支援級に入るよう勧められた、入ってみると本人に合わせてくれているものの、マジョリティである通常クラスに追い付くための支援があり、結局、発達障害の生徒本人の特性を、言わば「通常の型」にはめるような取り組みになっている、ということがあります。但し、支援する側も決して強要しているという意識はなく、そのように対応してあげることが結果的に良い効果を生み出すという善意のもとに行われている点は忘れてはいけないと思います。(この点は今回論点がズレるので、またどこかで改めて書きたいと思います) 

型に合わせないと、いけないものでしょうか?

このように、多様性を受け入れるということが、ありのままを受け入れるのではなく、マジョリティの方々に合わせるように受け入れることにつながっている点があることを認識しておくことは、ニューロダイバーシティを考えるうえで、重要と思います。多様性を受け入れるということは、マイノリティの方々がマジョリティに合わせるように、努力することや、周りが支援することではなく、マイノリティの方々も「自分らしく、生きていける」そんな社会にしていくことが本当のニューロダイバーシティにつながるのだろうと思います。道のりはまだまだ長いですが、そのような社会になることを目指して、私はこのNoteを書き続けたいと思います。

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