みなもと太郎先生のこと。 その1
「風雲児たち」「ホモホモ7」などで知られるマンガ家のみなもと太郎先生が亡くなった。僕は生前、何回かお会いする機会があり、「風雲児たち」がNHKでドラマ化された際には広告ポスターをつくる幸運にも恵まれた。
僕にとってみなもと先生は、素晴らしいマンガ家というだけではなく、世界を見つめる「視点」を教えてくれた人だった。以下、先生のことを書いていきたい。
みなもと作品との出会い
思い入れたっぷりにはじめたのはいいものの、実は僕はそれほど古参のファンというわけではない。手塚治虫の「ルードウィヒ・B」で言及されていたので、子どもの頃から名前は知っていた。しかし、実際に「風雲児たち」を読んだのは、大人になってからだった。水道橋博士が、たしか「外国人に読ませたい日本のマンガ」というテーマで紹介していたのがきっかけだった。「幕末を描くために関ヶ原からスタートし、1979年に連載がはじまり今でも続いている」(先生の死去により未完となってしまった)と知り、もともと「三国志」など長編歴史マンガが好きだったこともあり、大いに期待してページをめくった。
…しかし、第一印象は、あまりいいものではなかった。長期連載なだけあって、第1巻の絵柄は、さすがに古臭く感じられた。ギャグが出るたびにズッコけたり、ハリセンでつっこんだりするのも、やはり古いな思った。「これがみんなの絶賛する「風雲児たち」なの?」と思いながらページをめくったというのが正直なところだった。
そんな印象が一変したのが、巻末の「ギャグ注」だった。
ギャグ注とは、みなもと先生の文章をそのまま引用すると「時代の変遷と共に難解となる恐れのあるギャグをセレクトし、若き読者の本書理解の一助となることを願ったものであるのであるのだ」。劇中で登場したギャグの元ネタが解説されている。
たとえばキャラクターがずっこける時の「どんがらがっちゃーん」という擬音には
「このオノマトペを発明したのは大正時代の上方落語会の風雲児、初代・桂春団治。この破壊音のあとラッパを踏んで「ブップー」と続くのが正式とされる」(「風雲児たち」ワイド版1巻より引用)
というギャグ注がついている。
ハリセンでのつっこみには
「大阪名物 ハリセンチョップ:関西のお笑いグループ「チャンバラトリオ」の必殺アイテム。頭(カシラ)の南方英二氏によると「素人さんのつくるハリセンは先端まで折ってしまうので加工音が出まへん。折り目は根元だけにつけるのがコツですわ」とのこと。ぼくはこの話を南方師匠から直接おそわった」(「風雲児たち」ワイド版1巻より引用)
というギャグ注がついている。
この調子で、お笑いや落語、当時流行していたテレビCMまで、あらゆるギャグの元ネタにびっしりと注釈がつけられていたのだ。
ほんの一コマ登場するだけのギャグに膨大な背景があることに、当時の僕は圧倒された。みなもと先生のギャグは、感覚ではなく、教養なのだ。(おそらく他のすべてのギャグもそうだ)
歴史マンガの描写そのものが、大衆芸能の歴史の引用で成り立っている。このメタ構造の凄まじさに気づくころには、すっかり「風雲児たち」の世界にはまっていた。ワイド版を一気に購入し、今日にいたるまで繰り返し読んでいることは言うまでもない。
「訃報をきっかけに「風雲児たち」を読んだけど、ピンと来なかった」そんな当時の僕のような人は、どうか「ギャグ注」を読んでほしい。みなとも漫画独自の魅力や楽しみ方がわかるはずだ。
ギャグを通して描かれた「怒り」
デフォルメしたコミカルなキャラクターで歴史を描く「風雲児たち」。しかし、そこにあるのは、単純な喜びや楽しみだけではない。
「風雲児たち」では、他の歴史マンガやドラマでは主役にならないような人物たちの活躍が描かれる。
保科正之、林子平、最上徳内、ジョン万次郎、田沼意次など…
そこから感じられるのは、「才能がある偉大な人たちが、ふさわしい評価を受けていない」という、みなもと先生の怒りだ。
「風雲児たち」にとどまらず、さいとう・たかをや平田弘史の再評価、漫画賞の審査といったみなもと先生の活動の原動力は、この「怒り」であったように思う。
中国の歴史書「史記」を記した歴史家・司馬遷は、才能がありながら報われない人物があまりに多いことに憤り、「天の力は微なり」という言葉を残している。
歴史を描くものとして、みなもと先生にも、司馬遷のような思いがあったのではないだろうか。
先述の林子平は、日本は海国であり外国の侵略に備えて海防に力を入れる必要があると唱えていた。現代人の僕たちからみれば、ごく常識的な主張だが、当時の幕府はそうは思わなかった。子平に帰郷させた上で、蟄居を命じたのだ。林子平はその後、不遇のうちに56歳で亡くなった。
子平の死の60年後、ペリーが黒船を率いて浦賀にやってきたのは、ご存じの通りだ。幕府とペリーは小笠原諸島の領有権をめぐって対立。しかし、幕府はかつて自らが発禁にした子平の著書「三国通覧図説」の記載を証拠に、ペリーに小笠原諸島を日本領として認めさせることに成功する。
愛国とは時の政権におもねることではない。かつて売国奴扱いされた人物が国を救うこともある。そんな視点を持つことができたのも、みなもと先生のおかげだ。
このように、1ファンとしてみなもとマンガに親しんできた僕に、チャンスが訪れた。みなもと先生ご本人とお会いし、仕事ができることになったのだ。
(その2に続く)