カメラ雑誌の休刊に思うこと
創造と鑑賞というとわかりづらいから、プレイヤーとオーディエンスと呼ぶことにして、その双方が存在する世界のなかで、おそらく写真だけがプレイヤーの数がオーディエンスの数を圧倒しているのではないでしょうか。
言葉を紡ぐことのない読書好き、楽器が演奏できない音楽愛好家、筆を持ったこともない美術ファンといった人たちは容易に想像できますが、「写真はもっぱら見るほうだけで自分ではカメラを持たないんですよ」という人を想像するのは難しいです。
これは写真の魅力を象徴していますが、同時に弱体化していったときに歯止めをかける存在がないことの証でもあります。
たぶん伊奈信男さんだったと思いますが、「評論の役割とは順調に作品が航海しているときには手を出さずに見つめているだけで、すこしでも航路を逸れたりしたときにそっと手を差し伸べて正してやるような存在であるべき」と書いていました。
その評論の存在が、写真にはない。
いい写真は偶然でも撮れるけれど、いい評論は偶然では書けません。
新しい視点を与えて価値を再生産するとか、見る喜びが撮る喜びを高めていくとか、そういうプレサーマル的な役割を果たすところがない。
となるとヒエラルキーが形成されることもなく、体系化されて知が引き継がれていくこともなく、消費の速度ばかりが増していくことになります。
じゃあその評論がどんな場に発表され、どのように読まれていくのが理想かといえば、雑誌だと思います。
質を維持して、なおかつ書き手を育てていくために、まだ形になって残っていくメディアの役割は終わっていないように思うから。
評論の対象と評論を並列して、相互を参照できるようにするために編集という作業は欠かせないもので、権利をクリアする役割が必要で、ハイパーリンクや注釈は利便性が勝って読者のリテラシーを引き上げてはくれません。
好奇心を掻き立てることも、評論の大事な役割です。
雑誌というメディア、ひいては出版という業界の苦境といえばそれまでだけれど、すべての雑誌に写真は密接に関わってきました。
ライブハウスがなくなるとき、そこから旅立っていったミュージシャンたちが有志として集まり、最後のライブを行うことがあります。その機会さえ与えられず歴史に幕を閉じるなんて、あまりに残念すぎます。
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