【本の感想】クダマツヒロシ『令和怪談集 恐の胎動』
怪談師として、語りもこなすクダマツヒロシ氏の単著一冊目。
本作の収録話は、彼の語りも含めてクダマツヒロシらしい切り口の話が並ぶ。
全31話の中でも、王道の様式を保った怪談もある(「訪問者」「理科室の女」)。
だが、本書に収録されているものの大半は、怪談の定石と外しの狭間をいくような、スレスレのものだ。例えば「御厨子開帳」や「豚の椅子」「恐の胎動」では、生理的嫌悪を衝く描写が隅々まで行き渡っているし、いささか不謹慎な描写を含んだ「エアガン」や「散眼」では、ポップさに反しての加速度が素晴らしい。
中でも、前後編に分けられた「燃える家」では、怪異に至るまでのヒトコワの生々しさがそのまま怪異にスライドし、後味の悪さに読者を引きずり込む圧の強さを感じる。人としての倫理を外すことも厭わない、欲を生々しく押しつける。
この話は、怪異に成るまでの人の業を沸々と煮沸し、浴びせるような悪辣さを感じる。連鎖する、というよりは飛び火していく理不尽さを強く刻んでいる。虎視眈々とこちらの頸を狙っている。頚椎が軋むような怪談だ。
男の歪んだ執念と思い込みの認知が死へと転じるような「逆さ富士」。
怪異そのものの悲哀はどこ吹く風、家族の淡々として細々とした凶悪さをコンパクトに描く「誕生日」。
引き込む怪異の無邪気さと狂暴性が遺憾なく発揮された「みんな仲良く」。
不可解さと不吉さが綯い交ぜになって情緒を空中に投げる「アロワナの祭壇」。
謎めいた女の不気味さと執念深さがどこまでも追いすがってくるような、氏の代表作の1つでもある「「サカキレイコ」について」。
前述のサカキレイコにも通じるような不気味さと不穏な空気を撒き散らす女が恐怖を呼び起こす「モルダー先輩」。
氏の語り同様に、淡々と、されど熱を帯びて観客の頸を次々と縊り落としていく感覚は真骨頂と言える。
実話怪談は、体験者の事実(事象の真偽は問題にしておらず、あくまで体験者にとってその事象は現実であると考えている)を話者/作家のフィルターに通して乱反射するものを味わう楽しみ方を筆者はしているが、本書の持つエグみや軽快さは、クダマツヒロシ氏ならではのものと感じる。
本書に通底しているのは、粘着性のへばりつくような恐怖であり、不穏である。
決してバランス良く、(ベテラン作家のように)巧く書こうとはしていないが、自身のフィルターをしっかり通過して、体験談を濾し取っている。そのため、どの話もじっとりと生暖かい湿度を感じた。
各話の方向性が多岐にわたるため、とっ散らかりそうになる寸でのところで、大胆さと強引さでグッと自身の懐に引き込む力強さは新人ならでは。
この辺りの歪さと暗い熱が、今後どれだけ研磨され、言葉を尖らせていくのか楽しみになる一冊でもある。
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特に気に入った話は「透明トンボ」で、在りし日の祖父との交流を書いた心温まる不思議な話かと思わせて、最後の急落が良い。遠野物語にも相通ずる叙情性も感じる。反面、体験者の感じた置いてけぼりの恐怖と共に、心に残る爽やかな読後感だった。
3/3のリリースイベントでは、この話を語りとして初めて聴いたが、一つの考察として、「透明なトンボ」あるいは「透明な何者か」は魂の象徴ではないか、と想像はできた。
特にトンボは「死者の魂を運ぶもの」あるいは「魂そのものの象徴」ともされる場合があるため。虫自体にそのような伝承は古今東西あるし、トンボではないが富田安洋氏の代表作の1つ「カマキリ」にもそれを匂わせる描写もある。
祖父が態度を急変し、体験者からトンボを奪った上で此岸に孫を置き去りにするのも、何らかの一瞬で自身が死んでいるのを自覚し、魂の象徴たるトンボを持って彼岸に去った、というような解釈も成り立つ。なぜなら、そのトンボは魂だから、生者が持つべきものではないから。
もしかすると、そのトンボ自身が祖父の魂そのもので、棺に虫かごが置かれていたのも、孫との最後の思い出だったから、という解釈もできる。
「透明な何者か」の隊列、注連縄が巻かれた大木の切株や祭壇、というのも死者の葬列にも思えるし、体験者が一目見て怖気を感じたのも、見てはいけない彼岸の儀式を目にしたからではないか。
この話は緩急の隙間が見当たらないため、落差が凄い話になっていて、その辺りが筆者に刺さった。ある種の寓話、あるいは昔話のような余韻も心地好い。
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クダマツヒロシ氏の執筆中のお供であり、本書収録の各話にリンクするプレイリストもSpotifyで作成した。
ラインナップを見れば彼の趣味は一目瞭然であり、そのバンドのファンには必見の後書きも楽しく、また、怪談師としての彼を追っているファンをニヤリとさせる心配りも嬉しい。