平和賞によせて。恵まれた国の私の日記
相も変わらず、自由気ままに日記を書きたいと思います。
本日18時すぎ、ニュースを見ていたところノーベル平和賞が発表されました。個人ではなく、今回は世界食糧計画が選ばれましたね。
こちらについては、新聞やニュースサイトの方がはるかに詳しいのでそちらを参照していただければ幸いです。
さて、気になったのは『食料』と『食糧』。前者は食べ物を指すので、例えば私の好きなキュウリも魚も入ります。一方、後者は主食を指します。
おかずが無い、という状態は経験があるでしょう。主食が無い、はどうでしょうか。主食が「買えない」のか、そもそも「無い」のか。日本では、「無い」という状態はゼロと言って良いでしょう。
飢餓、というのはどういうものなのだろうと考えます。お腹が空いた、では無く生物的に危険信号を出している状態が続いているというのは。どうやって仕組みを変えればいいんでしょうか。
人道支援というのは、本当に立派なものです。ですが、その一方で人々は寄付に慣れてしまうと協力隊出身の方に伺ったことがあります。持続可能、とよく言いますが支援がなくなった後でも彼らが生きていけないと意味がないということだそうです。
例えば、水泳をするとします。浮き輪ではじめて、ビート板、最後は自分でバタ足が理想です。でも、いつでも浮き輪を貰えるとして疲れるバタ足をするでしょうか。溺れている人には浮き輪がいります。でも、浮き輪を与えたなら次に溺れないように教えるところまでがセットです。
主食が無いというのは、残念ながらもう何百年も前からの課題です。今はもう水に課題が移って数十年です。水戦争という言葉もセンセーショナルでは無くなってしまいました。あたりまえになってしまいました。
今日、私は平和賞の速報を夕飯を食べながら見ていました。温めたご飯に、エビと、キュウリのお漬物がありました。十分な飲み物が冷蔵庫にはあるし、お茶をわかす水道と火もあります。家にはお菓子だってある。
それが悪いとは思いません。ただ恵まれた国に生まれたな、と思います。
でも、これはなんだかおかしいな、とも思うのです。
今年は日本人とらなかったね…平和賞はそりゃコロナだったもんね…個人じゃないよね…最近の文学賞は詩が好きなのかな…こういう思考が、ただ当たり前のように自分の肌を流れていくのが、なんとも。
表現しにくい、虚しさがありました。
私は、私の身勝手さと向き合うところからはじめないといけないかもしれません。このnoteすら、なんとなく自分は悪くない、考えてますよという自分自身をだます行為なのでしょう。
私は飢餓のことを思いながら、日本の中で生活に苦しむ子供がいることを知りながら、きっと明日も普通にご飯を食べます。私の健康のために食べます。甘いものを楽しみます。
でもきっと、考えないよりはましだと・・・思いたいです。
マザーテレサのようには、なかなか生きられないなぁ・・・笑。