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まる裸の自分を見せる勇気※09※

今の私に出来ること。自分に出来る事はなんだろう?そう考えている時に、このはるさんの記事を読んだ。

私も、虐待を受け、深い傷を負い、なんとか生きてきた身。私は今まで、余程信頼している人でない限りは自分の過去なんて話しては来なかった。話せなかった、怖い記憶が戻りそうで。
だけど、なんでだろう?はるさんの文章を読んでいると、私も記憶の道を辿り、伝えていきたいと思えたんだ。

私は、その頃まだ10歳だった。毎日学校に行くのが楽しみで、友達とのお喋りも大好きで、捻挫していても松葉杖で学校に行く程。そんな明るく、元気な小学生だった。

母は忙しく仕事で殆ど家を開けていたけれど、父は仕事をコロコロ変えては辞め、家の中で出来る英語の先生をし始めた。生徒募集の看板を、家の前に立てて。すると、ちらほらと生徒さんが来るようになった。

しばらくは、そんな生徒さんが来ると一緒になって授業を受けていた。そんな時間は、楽しく過ごしていた。でも、ある時から父に異変を感じ始めた。

煙草を吸いながら、自分の部屋に籠り英語のテープを聴いていた。私は別にあった広い居間で、学校の宿題をしていた。そうすると、急にカチャンっと父の部屋のドアが開く音がして。機嫌のいい時は、冷蔵庫から物を取り出してその部屋へ戻っていくけれど、ある時‘ ’こっちにおいで‘ ’と言われてから、父の愚痴を聴くようになり。それから、段々とそれが暴力へと変わっていった。
最初は、おせんべいの蓋で叩かれたり蹴られたりその程度だった。それが日に日にエスカレートし始め、‘ ’一緒に死んで‘ ’と包丁を何度も突きつけられ、ある時は首を締められ。妹に手を出そうとするものならば、私は妹を寝室に隠し私自身に暴力の刃が来るように仕向けた。どうしても守りたかったんだ、愛する妹を。
決死の思いでまだ10歳の私は、110番にSOSをかけた。‘お父さんから暴力を振るわれてます。殺されるかもしれないから助けてください。‘そう伝えた私に警察さんはこう言った。‘そんな事じゃ私達は動けません‘と。勇気を振り絞った小さな心に、初めて大人への信頼がなくなってしまった瞬間だった。

そんな日々が続いて、私も6年生になっていた。その頃の私は、クラスメイトも5年生の時から変わってなんていないのに、友達と誰ひとり喋れなくなっていた。声を失くしてしまった。笑うことも微笑む程度しか出来なくなってしまった。

昼休みもいつも、1人。そんな私が迷わず向かう先は、決まって‘ ’音楽室‘ ’だった。そこでピアノを弾く時間だけが、私が私で居られる居心地のいい時間だった。
ある日の音楽の授業。先生から、‘ ’クラスの歌を作りましょう‘ ’と五線紙を渡された。作詞と作曲の勉強。私も数日かけて、ほんとうに短い曲だけれど曲を完成させた。すると次の授業で、先生が‘ ’祐貴子さんがとってもいい曲を作ってくれました。‘ ’とピアノで歌いながらクラスメイトに聴かせてくれたんだ。その時、自分の何かを褒めて貰えた気がして子供ながらに嬉しい気持ちでいっぱいになった。

そんなこんなで楽しく行っていた学校にも、とうとう行けなくなってしまった。友達にも会いたい、勉強もしたい、なのに声も出ないし体も学校へと向かなくなった。一日中家にいて、父の相談役・暴力の捌け口になっていた。毎日毎日、生き延びる事で必死だった。ピアノを弾く時間だけは、唯一の心の救いだった。

そうして、中学生になり。大人しい性格が原因になりいじめの対象になってしまった。今思えば、私をいじめていた先輩達も何かで、もがき苦しんでいたのかもしれない。でも1人じゃなかった。支えてくれる友達がいつも、そんな私を気にかけてくれていたから。

中学2年生14歳になり、また学校に行けなくなってしまった。親友の子が心配し、よく家のポストに小さな手紙を入れてくれていた。心の支えだった。その子にだけにはほんとうの事を話していた。そうして、長い間何も言えなかった母に、ある時ほんとうの事を告げるタイミングが訪れてくれた。
母がたまたま仕事が休みで、妹と母と車で買い物に出かけることになった。‘ ’母に言ったら殺す‘ ’と言われていた私は‘ ’今しかない‘ ’、そう思った。そうして母がいない間に暴力を振るわれ続けて来たことを話した。そうして後日の早朝、父に気づかれないよう3人で、当時飼っていた愛犬を抱きしめ‘ ’ごめんね。‘ ’と呟き涙を堪え車に乗り家を出ていった。

その当時、少し離れた先で住んでいた母の母(おばあちゃん)の家に一緒に住まわせてもらう事になった。しばらくはそこで過ごし、また学校から近い場所へと移り住んだ。

そうして、3人での生活がスタートしたけれど。私の心はもうボロボロだった。学校に行けなくなり、また妹までもが学校に行けなくなってしまった。しばらくは妹も辛い時期を過ごしていた。けれど妹は、別の中学に転校したら、そこで新しい友達が出来楽しく過ごせるようになった。嬉しかった。
私は、とゆうと普通に出来る事全てが怖くなってしまい。母が、女性の先生がいる精神科を探してくれて初めて私も病院を訪れた。優しい先生だった。でもその頃の私の視界は本当に狭く、覚えてるのは自分の周りの世界だけ。

そうして迎えた、入院当日。大好きなラスカルの大きなぬいぐるみを抱えて、閉鎖病棟へと案内された。ナースステーションを抜けると、そこは鍵の閉まる空間で、私はそこの個室に入院した。

どうやって傷を癒してゆくか、今思えば、きっと先生達も真剣に考えてくれていたんだろう。でも14歳の私は、ただただベッドの上で、涙を流すことしか出来なかった。大好きな音楽をラジカセから流しながら、自分の背負ってしまった傷と精一杯向き合っていた。そこで出逢った研修医の先生とは、20年経った今も、同じ病院の職員として関わらせて貰っています。

”精神科”って聴くと、偏見の目で見られる事もまだ多い気がする。でも、精神科は心療内科と同じで、‘傷つき疲れ果ててしまった心を休める場所‘。
誰だって生きていれば、体がしんどくなるように心が疲れることもある。体と心は繋がっているから、疲れてるなと感じたら、一休みすることも必要で。
はるさんの文章を読んでいると、はるさんも精一杯いろんな時期を乗り越え、生き抜いてきたのだと分かって。でもそんな暗闇の中にいるはるさんの事を、大切に想う人達がここには沢山いる。はるさんが文章で私達に沢山の想いや経験を発信してきてくれたように、皆はるさんを救いたいんだ。今回の入院は、頑張り屋のはるさんを救うための大切な大切な休息の時間なんだと、心からそう想う。

きっと頑張り屋のはるさんの事だから入院中もあれやこれやと想い、考え過ぎちゃうこともあると想うけれど。先生からの言葉も、引き離す為の入院だと言って貰えて…理解して貰えてほんとうに良かったですねはるさん。

私の文章が何になる訳じゃないけれど、いつも発信してくれるはるさんに、私も自分の形で応えたいと想いました。虐待サバイバーのような悲しい過去を持つ人達が少しずつでも減っていくように、そんな心の傷に気づいて寄り添ってくれる人達が増えるように。私もはるさんのような文章は書けないけれど、私なりに発信していく事で、傷つく人達をほんの少しでも減らせるチカラになれるのなら、綴っていきたいとそう想いました。

今まで、旦那さんや子供ちゃんお嫁さんとしても、精一杯沢山頑張ってきたはるさん。

そんなはるさんにとっては、‘ただ休む‘って事はとっても難しいことだとは想うけれど。頑張ってきた自分をまずは自分が愛してあげて。‘いっぱい無理してきたんだよね。心が疲れたね。がんばったね。‘って、自分を褒めることって案外難しいけれど。今はそんな冷えきった心を休めてあげてほしい。

小さな応援が、沢山はるさんの元に届いて、ほんの少しでもの生きる希望みたいな光になってくれたらと…今はただただ願うばかりです。

また、プリンが食べられますように🍮*°

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