何も期待しないことでやっと心から誰かを愛せる
私が映画に求めているのは
娯楽よりも人生の教訓や道徳心や教養なのですが
昨日見た「女の一生(1967/松竹映画)」という作品は
上記三つのどれにも当てはまらない物でした。
しかし大変感銘を受けたのでどうにかして伝えたい。
主人公は信州の名家に育った世間知らずの美しい女性で、
この女性が次々と不幸に遭うだけの物語なのですが
身も蓋もないラストを観たとき
この女性が心底愛しいと感じました。
そして映画を観る姿勢を正されたのです。
その前に枕として紹介したいのはこちらのドラマ
すでにアマゾンのレビューが4.7という高評価を叩き出しているラブロマンスアンソロジーです。
先日も少しご紹介していますが、
ラブをテーマに
様々な人類愛を切り取っています。
ドアマンとの友愛を描いた一話目は
"これはただのラブロマンスドラマではないですよ"
ということをはっきりと明言した名作です。
二話目も大変素晴らしく、
こんな素敵な話がまだ何本もあるのかよ!
という喜びでワクワクします。
ただ敢えて警鐘したいのですが
良い話は消費物です。
「今日も仕事で嫌なことがあったな
よし今日はドラマを見ながらお酒を飲んでストレス発散でもしよう
なんかほっこりするドラマないかな」
そんな時、このドラマはとんでもないくらい幸福にさせてくれます。
でもそれまでで、
現実は心優しいお節介なドアマンなどいません。
お節介なライターもいません。
もちろん親切な人はいますが、
だからと言ってそれだけで人生がうまくいくことはありません。
意地悪なこともたくさん起こります。
結局は自分で立ち上がるしかないんです。
そこに勇気をくれたり、溜飲を下げてくれるのがコンテンツの力なのですが
それだけに収まらないのがコンテンツの懐の深いところなのです。
世界的文豪・モーパッサンの名作を、『砂の器』の野村芳太郎監督が格調高く描いた文芸大作。戦後の日本を舞台に、気高く、美しく、ただひたすらに生きながらも、夫に裏切られ、子供にも裏切られてゆく女の悲劇を、美しい信濃路の四季を背景に描く。
内容は煽り文のまま、美しい信州の風景を背景に
レイプや不倫三昧の夫に苦しむ、無垢で世間知らずの女性がさらにのたうちまわる話です。
不幸に不幸を重ねた人生に疲れた伸子は、40か50のはずなのに70なんじゃないかというほど老け込みます。
なぜ自分はこんなに不幸なのか
人生を嘆く姿はかくも滑稽です。
なぜならその不幸は自分で招いているからです。
いつも人生を他人のせいにし、問題から逃げ、現実を知ろうとしない
視野の狭い女性、伸子
どんどん不幸になっていく主人公を見て
良いぞもっとやれ
と掛け声をかけたくなるほど
自分で立ち上がりません。
何の教訓も学ばない伸子を見て
これが"人間"だと思いました。
私は映画に、人に、期待していました。
例えば母に対しては
”私は毒親だった”と自ら気づいて
親子関係を修復しようと前に進んでくれたらと
または性的暴行をしてきた人が
”あの時はとんでもないことをした”と改心してくれないかと
過度な期待ではないですが、
心のどこかで祈っていました。
(そうすれば自分も安心して過ごせるから。)
しかしそのように内省して、
アドラー心理学を読んだり
考え方を変えようと努力できるのは
ごく限られた人たちだけです。
不幸と思う女性はずっと不幸と思い続けるし、
犯罪を犯した人は何が罪なのか気づけません。
教訓から学ぶこともしません。
人なんてそんなものですよ とこの作品では示していました。
映画は主人公がやっと自分の人生を肯定的に思えるところで終わりますが
子離れできていない伸子の姿勢にはこれからの人生も不幸が続くことを示唆しています。
主人公に何も手を差し伸べない残酷な脚本は
ベタな演技でもリアリティに満ちていました。
そして鑑賞者(私)が誰かの人生に期待をすること自体が
エゴであるということに気付かされました。
人に期待することを諦めることで
様々な人間を愛しく思えるのだと思います。
これも一つの愛の説きかたですね
モダンラブもおすすめですが、
より哲学性がこもった本作は
日本映画のコンテンツの強さを知れると思います。
(2h カフェにて 。コーヒーとアップルパイを食べながら)