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天叢雲剣を咥え、安徳天皇を抱いた、壇ノ浦の龍宮城の大蛇(龍王)

天叢雲剣あめのむらくものつるぎくわえ、安徳天皇あんとくてんのういだいた、壇ノ浦だんのうら龍宮城りゅうぐうじょう大蛇おろち(龍王りゅうおう)》

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ここでは「へびとしての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう」にまつわるお話のひとつとして、『源平盛衰記げんぺいじょうすいき』に記されている、「壇ノ浦だんのうら竜宮城りゅうぐうじょう竜王りゅうおうと、天叢雲剣あめのむらくものつるぎのお話」を紹介します。伊吹弥三郎いぶきやさぶろうというのは、鬼伊吹おにいぶきとも呼ばれ、酒呑童子しゅてんどうじ伊吹童子いぶきどうじ)の父親であるとされることもある人物です。
今回紹介するお話は、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうについての記事のなかの、「せんかおをもつ弥三郎やさぶろう」という項目でお話していることの一部です。「せんかおをもつ弥三郎やさぶろう」のお話は、下記リンクでご覧いただけます。

▼参考記事:伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや井明神社いのみょうじんしゃ : 姉川あねがわき、妹川いもうとがわぼっした、伊吹山いぶきやま水竜鬼すいりゅうきせい
▼「せんかおをもつ弥三郎やさぶろう
https://wisdommingle.com/?p=30320#dannouradragon

源平盛衰記げんぺいじょうすいき』日巻第44「老松おいまつ・若松剣を尋ねる事」

(※引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。)

平家が宝剣〔天叢雲剣あめのむらくものつるぎ草薙剣くさなぎのつるぎ)〕を取って、都の外へ持ち出して、准后(平時子)が持って海にお入りになったけれども、上代ならば紛失しなかったであろう、末代であることが悲しいことだ。海にもぐる海士あまに命じて海底を探り、泳ぎの達者な者を入れて求められたけれども、とうとう見えない。朝廷では天の神、地の神に祈り、仏教の大法秘法を行われたけれども、しるしがない。後白河法皇はたいそうお嘆きになった。仏神の加護がなくては、尋ねて得ることは難しいと、賀茂大明神に七日間御参籠になった。宝剣の行方ゆくえについてお祈りをなさった。七日目に夢のお告げがあった。
「宝剣の事は長門の国壇ノ浦の老松・若松という海士に命じて、お尋ねなさいませ」
 と霊夢があらたかであったので、法皇は還御かんぎょになり、九郎判官ほうがんを召されて、お夢の趣旨に任せて言い含められた。
 義経は百騎の軍勢で西国へ下向、壇ノ浦でふたりの海士を召された。老松は母であり、若松は娘である。院の命令のおもむきを言い含められた。母子ともに海に入って、一日経ってふたりともに浮き上がった。若松は、
「差しさわりはありません」
と申す。老松は、
「わたしの力ではかないません。不思議な差し障りのある所があります。普通の人間が入れる所ではありません。法華経を書写して、それを身にまいて、仏神ぶっしんの力をもって入りましょう」
 と申したので、貴い僧を集めて、法華経を書写して老松に与えた。海士は身に経を巻いて海に入って、一日一夜上がらなかった。人は皆老松は死んでしまったのだと思い、嘆いていたところに、老松は翌日の午の刻ばかり(午後十二時頃)に上がった。判官は待ち設けて詳しい事情を聞いた。老松が、
「内々に申すべきことではございません。帝の前で申し上げましょう」
 と言ったので、それならばと相連れて上洛する。判官がことの次第を申し上げると、後白河院は老松を院の御所法住寺殿(六条殿か)に召された。庭上ていじょうに参上して、老松は、
「わたしは宝剣を尋ねようとして、竜宮城と思われる所へ入りました。そこは金銀の砂を敷き、美しい階段を渡し、二階建ての楼門を構え、さまざまの殿閣を並べていました。そのありさまは普通の人間の住まいに似ていない。心で想像することも、言葉で表現することもできない。しばらく総門(外に構えた正門)にたたずんで、『大日本国の帝王のお使いです』と申し入れますと、くれないの袴を着けた女房がふたり出て、『何事ですか』と尋ねました。『宝剣の行方をご存でしょうか』と申し入れますと、この女房達は内に入り、しばらくたって出て、『しばらくの間お待ちなさい』といってまた内へ入りました。
 だいぶたって、大地が動き、氷雨ひさめが降り、大風が吹いて、天がそこで晴れました。しばらくして先の女がやって来て、『こちらへ』と言う。老松は庭上に進みました。御簾みすをなかば上げていた。庭上より中を見ますと、長さはわからないが、臥した長さは二丈(六メートルほど)もあろうかと思われる大蛇が、剣を口にくわえ、七八歳の小児を抱き、眼は日や月のようで、口は赤くてしゅを差したようです。舌は紅の袴を振るのに似ています。言葉を出して、
『やあ日本のお使いよ、帝にこう申し上げなさい。宝剣〔天叢雲剣あめのむらくものつるぎ草薙剣くさなぎのつるぎ)〕は必ずしも日本の帝の宝ではない。竜宮城の重宝である。自分の第二の王子は、私の不審を蒙って、海中に住むことなく、出雲の国簸川ひのかわの川上で、尾と頭がともに八つある大蛇おろちとなり、人を呑むこと毎年に及んだが、素盞嗚尊はかの国の王者を憐れみ、民を大切にして、かの大蛇を殺された。その後この剣を尊はお取りになって、天照大神に差し上げた。
 景行天皇の御代に、日本武尊やまとたけるのみことが東夷を平定された時、天照大神より斎宮いつきのみやをお使いとして、この剣を下してお与えになられた。私は伊吹山いぶきやまの裾で、臥した長さが一丈の大蛇となって、この剣を取ろうとした。けれども尊は勇猛でいらっしゃる上に、勅命によって東国に下られていたので、私を恐れることなく、飛び越えてお通りになったので、取ることができなかった。その後計略をめぐらして取ろうとしたけれども、できなかった。簸川の川上の大蛇は安徳天皇となって、源平の戦乱を起こし、剣を竜宮に取り返した。口にくわえているものはとりもなおさず宝剣である。抱いている小児は先帝安徳天皇である。平家の入道太政大臣清盛公より始めて、一門の人々は皆ここにいる。見なさい』
 とそばにある御簾を巻き上げると、法師を上座に据えて、気高い貴人が大勢並んで座っていらっしゃいました。
『お前に見せてよいものではない。けれどもお前が身に巻いている法華経の尊さに、経に結縁けちえんするために、もとの姿を変えずに会うのである。未来永劫えいごうこの剣を日本に返すことはないであろう』
 といい、大蛇ははらばいになって内にお入りになりました」
 と奏上したところ、法皇を始めとして、公卿がたは皆同じく不思議なこととお思いになった。それによって、三種の神器の中で、宝剣はなくなったと決定したのであった。

(出典: 石黒吉次郎 [翻訳] (2005年) 「老松おいまつ・若松剣を尋ねる事」, 『源平盛衰記げんぺいじょうすいき』日巻第四十四, 『完訳 源平盛衰記 8(巻43-巻48) (現代語で読む歴史文学)』, 勉誠出版, 52~56ページ.)

伊吹弥三郎いぶきやさぶろうについての解説記事

ここで紹介している内容の、完全版&最新版の解説記事は、下記リンクでご覧いただけます。
せんかおをもつ弥三郎やさぶろう」の項目も、下記リンクでご覧いただけます。

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや井明神社いのみょうじんしゃ : 姉川あねがわき、妹川いもうとがわぼっした、伊吹山いぶきやま水竜鬼すいりゅうきせい
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滋賀県と岐阜県の境界にそびえる伊吹山いぶきやまの周辺には、「鬼伊吹おにいぶき」と呼ばれた伊吹弥三郎いぶきやさぶろうという人物にまつわる伝承が、たくさん残されています。伊吹弥三郎いぶきやさぶろうは、酒呑童子しゅてんどうじと同じ性質をもった人物として描かれることがあったり、酒呑童子しゅてんどうじ伊吹童子いぶきどうじ)の父親であるとされることがあったりと、酒呑童子しゅてんどうじにも縁のある人物です。上記リンクの記事では、その伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」と「死んだ場所」として、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と、「井明神社いのみょうじんしゃ」を紹介します。

「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

天叢雲剣あめのむらくものつるぎくわえ、安徳天皇あんとくてんのういだいた、壇ノ浦だんのうら龍宮城りゅうぐうじょう大蛇おろち(龍王りゅうおう)》

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倉田幸暢
たくさんの人が、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうとおもいます。 https://wisdommingle.com/memorandum-of-intent/