溶ける雪
あ、雪。
ふと、誰かが呟いた。
空を見上げるとちらちらと、白い雪が舞っているのが見える。
手のひらの上に落としてみると、それは音もなく溶けて消えていった。
それを綺麗だ、とは思わなかった。
ただ、吹き付ける風がいっそう冷たくなったように感じ、最悪…と一人愚痴る。
事務所の周りは駅の近くなだけあって、クリスマスのイルミネーションが煌びやかに装飾されていた。
そこかしこでサンタクロースが手招きし、たくさんのカップルが手を繋いで歩いている。
ほんと、呑気な人たち。だなんて空で唱えながら、刺すような冷気に思わずコートをぎゅっと抱きしめた。
今日は12月23日。土曜日。学校は休みだけど、どうせ家にいたってやることもないので、私はこうして事務所まで向かっている。
透は…どうかは知らないけれど、雛菜と小糸も事務所にいるらしい。
どうやら冬休みの課題を一緒にやるとかなんとか言っていた…気がする。
華の女子高生アイドルがクリスマスに宿題って…なんて思い、自分もその華の女子高生アイドルだということに気が付き自嘲気味に笑った。
私の場合、華は華でも花…ドライフラワーだろう。乾いて色褪せた花。
そんなくだらないことを考えながら駅からの道を歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
いつもと変わらないスーツ。ピシッと決めた立ち姿。本音を見せないあなた。私たちのプロデューサー。私の、他人。
こんなところで油を売っているあの人に一言言ってやろうと後ろからそっと近づこうとして、足が止まった。
あの人の隣に、誰かが立っていた。嬉しそうに笑うあなた。私たちの前では、私の前では一度だって見せたことのない顔。はづきさんじゃない。桑山さんでもない、緋田さんでも、誰でもない、見たこともない、大人の女性(ひと)だった。
顔がカッと熱くなるのを感じた。思わず踵を返し、思わず事務所に向かって駆け出した。
途中、何度も人にぶつかりながら、事務所の扉を開ける。
息ができない。呼吸がままならない。
足がふらつき思わず倒れ込む。
雛菜と小糸が私を見るなり、血相を変えて駆け寄ってくる。
耳鳴りが酷い。二人が何を言っているのか、全く頭に入ってこなかった。
私の意識はそのまま遠のき、ブツリとそこで途切れてしまった。
バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえる。
円香ちゃんかな?そんなに急いでどうしたんだろう、と私は雛菜ちゃんと顔を見合わせた。
今日は特にレッスンがあるわけじゃないけど、冬休みの宿題をこの際やってしまおうと事務所で集まる約束をしていたのだった。
バタンと荒々しく扉が開く音がする。
雛菜ちゃんは円香せんぱいおそい~だなんて言いながら廊下へと続く扉を開けると、
そこには真っ青な顔で倒れ込む、円香ちゃんの姿があった。
「ど、どうしたの!円香ちゃん!!」
「円香先輩っ!!」
円香ちゃんは酸欠なのか、過呼吸と、顔は真っ赤なのにだらだらと冷や汗をかいている。
こんな円香ちゃん今まで見たことがなかった。
二人で急いでソファまで運び、横にさせると、ようやく落ち着いたのか円香ちゃんはすぅすぅと寝息を立て始めた。
「そうだ、透先輩!」
透ちゃんに連絡を取る雛菜ちゃんを見て、私もプロデューサーさんに連絡を入れる。
プロデューサーさんは今日はお休みだったけれど、連絡を入れるとすぐに折り返しの電話がかかってきた。
「小糸!さっきの話、円香は大丈夫か!?すぐに向かうから待っててくれ!もし苦しそうならすぐに救急車を呼んでくれ!」
電話の向こうでバタバタと音が聞こえる。
どうやら何か立て込んでいる様子だ。
後で!という言葉を最後に電話は切れてしまった。
目を開けると、見慣れない天井だった。
いや、見慣れた天井でもあった。
何故自分が事務所のソファで眠っているのか、少し考えた後、あぁ…と息を漏らす。
あの後、無我夢中で駆け出してしまい、事務所にたどり着いたところで倒れてしまったのだった。
雛菜と小糸は…と目線だけ動かしたところで、台所から透が姿を現した。
「おー、目、覚めた。大丈夫?」
「なんで…」
透は何も言わずソファへと腰掛ける。
そのまま手に持っていたマグカップをこちらへ渡してきた。
「飲む?ちょっと高いやつ。」
マグカップからは甘い香りが漂ってきて、私のお腹はきゅうと鳴った。
「それ、はづきさんのでしょ。」
きょかもらってるからへーき、と透はからからと笑う。
「そんでさ雛菜ちゃんと小糸ちゃんが、樋口が倒れたって泣きそうな声でさ、電話してくんの。」
あの二人の慌てふためく姿が目に浮かぶ。
「ごめん、迷惑かけた。」
「ん、でも死ぬわけじゃないじゃん。」
「死ぬって…」
「そう、死ぬかも~って。でも、死ぬわけじゃないじゃん、樋口が。」
「私のことなんだと思ってるわけ…」
過呼吸で死ぬかは知らないけど
「だからさ死ぬわけないじゃん、樋口がさ、私を置いて。」
「…っ」
そんなこと当たり前だと言わんばかりに、透はそう言い放った。
「で、あったんでしょ。なんか。」
今度は私を真っすぐに見据える。
透き通るようなその瞳が私を刺した。
私は日中のことを思い出して、ぽつりぽつりと呟く。
「…今日、あの人を見た。駅前で。」
「プロデューサー?」
透がプロデューサーに特別な想いを寄せているのはなんとなく分かっている。
それでも私の口からは言葉が零れ落ちる。
それは私のこの胸の痛みを和らげる為なのか、それとも浅倉透の心に触れたかったのかはわからない。
そんなエゴを、私は吐き出したくてたまらなかった。
醜いと、思わず肩を抱き寄せる。
「うん。知らない人と。笑ってて。」
「ふーん、罪づくりだね。その人。」
まるで他人事のような言葉に一瞬、言葉が詰まる。
「浅倉は!…っ」
勝手に私の中に踏み込んできて、ぐちゃぐちゃに掻き回してくる。
そんなこと一つも望んでいないのに、本当にあなたが。
「違うから、それ。」
「…は?」
透はぴしゃりと、そう言った。
「樋口もさ、プロデューサーのこと、大事なんだね。」
樋口「も」だなんて、私にとって、透あの人は、
「そんなわけ」
「勘違い、全部。」
勘違い?透が何を言っているのかがわからない。
「だからさ、ほら。」
透は立ち上がり、冷蔵庫の中から白い箱を取り出した。
その中にはケーキが四つ、入っていた。
青、
「クリスマスじゃん、明日。で、それ、選んでたんだって。」
「ノクチルなんだってさ。特注だって。いいね、こういうの。」
それじゃああの女性は…
「プロデューサー、目立つから。ファンなんだって、私たちの。」
「だから勘違い、全部。樋口の。」
へなへなと全身から力が抜ける。
「…なにそれ。」
同時に、なんだか無性に腹が立ってきた。
「お、戻ってきたじゃん。樋口円香。」
「うるさい。」
透の軽口を聞き流す。
あの笑顔は私たちを褒めてもらえて、まるで自分のことみたいに笑っていたって言うの…?
馬鹿な人、本当に馬鹿みたい。
「ねえ、樋口。」
いつになく真面目な口調で透が言う。
「今日だけだから。」
?
「浅倉?何…?」
その問いかけに答えが返ってくることはなく、透はそのまま部屋を後にした。
時計を見ると時間は既に20時近くになっていた。
そろそろ帰らないと…と席を立とうとしたその時、バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえた。
思わずゲ…と顔を顰める。
勢いよく扉が開かれる。
あの人は肩で息をしながらーー
「なぁ、円香悪かった」
運転をしながら彼はそう言った。
「思わず大声出したのは本当に悪かったって。なんというか、それだけ心配だったんだよ。」
本当にあなたは真面目で、耳障りのいい言葉ばかり選ぶ。
私はそんな言葉を聞き流しながら窓の外の、流れゆく街並みを見る。
イルミネーションが煌びやかに、星のように流れていく。
ドアの向こうはクリスマスムード一色だというのに、私は助手席でぼんやりと揺られているだけだった。
今日はこの人とは口を利いてやらない、だなんて我ながら子供じみているとも思ったが、思いの外効いているようで、少しだけ気分が良い。
それにしても、あんなにも焦っているこの人の姿を見たのははじめてで、いやでも思い出してしまう。
「…円香、今笑ったか?」
?
まったくこの人は何を言っているのだろう。
気が利かないにも程がある。
私は心の中でそんなこと思いながら、窓に映る自分の顔を隠すように、はぁと息を吐き出した。
本当に、ミスター朴念仁ですね。だなんて。
…本当に。
「ねぇー。ねぇーって。プロデューサーも樋口も私がいるの忘れてない?ねぇー。」