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優しい海

気が付くと私は一人、夜の浜辺に立っていた。
その日は満天の星空と、闇を落としたような漆黒の海に、不思議と月が見えない夜だった。
ざざん、ざざん。
波の音が響く。
ざざん、ざざん。
波の音だけが響いている。
ざざん、ざざん。
悲しみも、苦しみも、怒りさえも、波は全てを洗い、流し、攫ってくれる。
波の音は、伽藍洞の私の中に入り込み、心地良い音を反響させる。
ざざん、ざざん。
いっそこのまま、私ごと攫っていってくれるのならば、どれだけ楽なのだろうと、ふと、そう思った。

いつまでそうしていたのだろうか。気が付けば、女が一人、側に立っていた。
知らない顔だった。
銀色の髪を靡かせ、宝石のように紅い瞳、そして雪のように白い女だった。
女は私を見て、何かを話しかけている。
…聞こえない。
何も聞こえない。
ざざん、ざざん。
波の音だけが響いている。

――君は?
今度は私の方から呼び掛ける。
しかし喉から音が出ることはなく、女も私が喋りかけたことに気が付く様子はなかった。
私は諦めてまた海を見る。
水平線の果ては、空と溶け合い、あたたかな闇が延々と続いているように見えた。
だめ、と誰かの声が聞こえた気がした。
周りを見渡してみるが、依然として女が立っているだけで、他には何も見当たらない。
みみをかたむけないで。
また誰かの声が聞こえた気がした。
女を見る。女は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。どうやらその声は女から発されたものではないようだ。
ざざん、ざざん。
それは声だったのか、波の音と聞き間違えたのか、私にはもうわからなかった。
波打ち際まで歩みを進める。気がつけば膝まで浸かっていた。一体この海はどこまで続いているのだろうか。
ざざん、ざざん。
という音と共に歌が聴こえてくる。
振り向くと女が歌っていた。
声は聴こえない。
けれど、不思議と歌は聴こえてきた。
悲しい歌だった。
悲しい歌のはずなのに、女は微笑んでいた。
優しく、押し寄せる波のように。
暗く、深い海のように。
気が付けば女は海へと入っていた。
腰まで浸かりながら、手を差し伸べてくる。
漆黒の闇の中、白い肌だけが艶かしく浮かび上がる
ああ。そうだ。わたしはそこにいきたかったんだ。
 
 
突如、耳をつんざくような爆轟が鳴り響いた。
夜を割く閃光と、海を割らん程の衝撃が走る。
直後、私の手は暖かな感触に包まれた。
誰かが私の手を握っている、そう認識するのに少し、時間が必要だった。
『女』だった。
銀色の髪を靡かせて、宝石のような紅い瞳をした『女』。
けれどもその手は熱く、燃えるように脈打っていた。
「言ったじゃない。私が全力であなたを守るって。」
今度ははっきりと、声が聞こえた。
女の顔が歪む。
顔をくしゃくしゃにさせながら、まるで涙を堪えるように。
「あら、私の真似事がうまいのね。でも残念ね、私の方がもっと魅力的よ。」
『女』がすらりと剣を抜く。おおよそ人では扱えないであろう巨大な剣。それは一瞬、星の光を反射させ、暗闇に一筋の月を描いた。
瞬きすらできぬ刹那に、袈裟まで斬り裂かれた女はそれでも声一つ上げず、一滴の血も流さないまま、ただ虚な目で私たちを見つめていた。
「ドクターにも困ったものね。私を見間違うなんて、失礼だわ。本当に失礼なんだから。」
『女』は少し拗ねたように口を尖らせる。
ドクター、そうだ、私は…
すべての記憶が鮮明に浮かび上がる。水面から飛び出すように。
「そうだったな。…心配かけた。」
直後、水平線の向こうから日が昇る。
空と海は別れ、暖かな光が世界を包む。
身体が浮かび上がる感覚と同時に、意識が空へと引っ張られていく。
行かないで、と女が手を伸ばすのが見えた。
「…ごめんな。君と一緒にはいけないんだ、【スカジ】」
スカジと呼ばれた女がハッと息を飲む。意識を失う直前、女は一瞬だけ微笑んだ気がした。
 
 
いつの間にか眠ってしまっていたのか、気が付けば朝になっていた。
ソファで眠っていたせいか、身体の節々が痛い。
ふと、自分の手が誰かに握られていることに気が付いた。
手を握ったまま、すやすやと寝息を立てる彼女を見て、思わず笑ってしまう。
私は身体を起こすと、彼女のかぶりっぱなしになっていた帽子を外し、横に寝かせて、窓を開ける。
吹き込む風が、銀色の髪を揺らした。
 
もう、波の音は聞こえなかった。


優しい海 了

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