【小説】イカになれなかった
二人で暮らすには少し手狭なアパートの一室。それでも日当たりは良い方だと思うし、何より私の彼氏——今は婚約者になった——と二人、「結婚したらもっと広い部屋に引っ越そう」と約束を交わしながら借りた大切な部屋だ。アパートの周りの街並みも、古い家が多いながらも綺麗で、私は気に入っている。大学時代から付き合い始めて、今年でもう六年経つ。彼が理学部、私が文学部に通っていた頃。偶然一般教養の授業で知り合って、親しくなった。私が専攻しているジャンルは彼にとってまったく畑違いのはずだけど、彼は熱心に私が学んでいることを尋ねた。
「未知のものが好きなんだ」
そう言う彼の表情がとても輝いていたのを、私は今でも鮮明に覚えている。
今日は日曜日。もうすぐ昼の十二時になろうとしているけれど、婚約者はまだ寝ている。そろそろ起こした方がいいだろうか。彼の好きなものを作って、それから起こしに行こうか。そうだ、それがいい。彼の好きな、甘い卵焼きを焼くんだ。毎日、遅くまで大変な仕事をしているんだから。
エプロンをして私が準備を始める。そのとき、彼が枕元に置いている携帯電話が叫ぶように着信音を鳴らした。けたたましく、高い音。耳をつんざくこの音は、彼が仕事の連絡を受けるときにしか使っていない着信音だ。
着信音が聞こえるや否や、彼は飛び起きる。ばたばたと仕事着に着替えて、弾丸のように玄関へ駆けていく。まるで何かに強く引き寄せられるように。焦っているのに、仕事に向かおうとする彼の目には、いつもいくばくかの無邪気な期待が潜んでいることを、私は知っている。
「たっくん!」
私は思わず彼を呼び止めた。
「ごめんアヤカ、今は」
わかっている。でも、
「早く、帰ってきてね」
「ああ」
彼は短くそう言って、仕事に出かけていった。まだほのかに彼の体温が残る、乱れた布団を片付ける。
さっきまで日の光が差していたはずの部屋が、急に暗くなった。もしかして、雲が出てきたのかもしれない。雨が降ってきたら、洗濯物を取り込んで部屋に干さないと。そう思いながら、ベランダに出る。
ベランダは、部屋の中よりも一層暗い。何か、黒い影に覆われているようだった。これは、雲じゃない。見上げると、そこには、
「イカだ」
空を我が物顔で泳いで、否、飛行しているのは巨大なイカ。白く、なめらかな体を持ったそれは、空を飛んでいようが、どこからどう見てもイカなのだ。家三軒分くらいなら完全に覆い隠してしまえそうだ。
この巨大な空飛ぶイカは、空中イカと呼ばれている。十年前から突如として各地で目撃されるようになった。
空中イカは、生き物とも、現象ともつかなかった。それが本当にイカなのか、誰も知らない。何か直接的な被害を受けた人もいない。地上に落ちてきたこともない。集団幻覚だとか、まったく未知の生き物だとか、さまざまな説が唱えられたけど、どれも確証を得るまでには至らなかった、らしい。中には、イカはUFOだなんて言う人もいた。でもイカがUFOだとして、宇宙人があんなに目立つ乗り物を使う意味なんてあるんだろうか。
イカは今のところ無害だが、何が起こるかわからないので、見かけたら何もせず通報してほしい。それが私たちに求められた、イカに対する対処法だった。
大学で生物学を学んでいた彼は、空中イカを研究する研究機関に就職した。彼が日曜日にもかかわらず呼ばれたのも、イカが現れたからだろう。まったくの未知を研究する機関とだけあって、物理学や化学、彼のように生物学と、あらゆるジャンルの科学者が集められている。だからすごく刺激的で楽しいんだと、彼は就職したての頃私によく話してくれた。子どものような、無邪気な笑顔で。
探究心の塊のような彼にとって、あのイカほど刺激的な研究対象はないんだろう。まるで自分がこの空の主人だと言わんばかりに空中で静止したイカを、私は少しだけ恨みたくなった。
「何よ、イカのくせに」
私が知らない彼の表情を知っているんでしょう、あんた。誰よりも、彼の興味をかき立てて、それでいて、いつも気がつくと消滅している知らせだけが入る。
分けてよ、あんたの未知を。
◇
彼が帰宅したのは、夜八時を少し過ぎた頃。
「おかえり」
「ただいま」
彼の荷物を預かって、「夕飯は? もう食べた?」と尋ねると、「まだ」という答えが返ってくる。
「じゃ、準備するから。待ってて」
食卓に彼の夕飯を並べる。もちろん、昼に作ろうとした卵焼きもちゃんとある。彼の好きな、甘い卵焼きだ。
「アヤカ、今日はな」
そう言って、矢継ぎ早に今日あったことを話し始めた。
彼の話を、私は十分の一も、理解できていないんだと思う。相槌こそ打っているけれど、本当に、それだけ。でも彼はそんなことは気にせず、ただ話し続けている。
「光る個体が現れたんだ。今日の個体もそれかと思ったんだが——」
彼が卵焼きを一欠片、口に運んだ。卵焼きは恐るべき速さで咀嚼されて、彼はそれを飲み込む。そして、また話し始めた。初めて作ったときは、美味しいって言ってくれたよね。私はだし巻き卵の方が好きだけど、あなたが美味しいって言ってくれたから、ケーキみたいに甘い卵焼きを作るようになったんだよ。
視界が滲む。彼の顔が、よく見えなくなる。すると彼は話すのをやめて、
「アヤカ?」
私は目を押さえて、うつむいた。泣いていた。自分でも、気が付かないうちに。
彼がこの仕事に就いてから、言わないと決めていたことが一つだけある。でも、もう、耐えられない。
「ねえ、たっくん」
私は顔を上げて、彼の顔を真正面から見据えて、言った。
「私とイカ、どっちが大事なの?」
三題噺:イカ・街並み・手狭