【小説】君は夜の使者

 長く伸ばした髪の先から雫が滴り落ちた。なんだか今日は髪をドライヤーで丁寧に乾かす気にもならなくて、タオルで軽く拭いただけの、まだ水分を含んだ髪のままで、佳鈴はベランダに出る。
 春になったとはいえ、パジャマのままベランダに出るには、夜はまだ少し肌寒い。
 空は暗澹たる雲に覆われ、星は見えなかった。家の2階にある自室から見えるものも、そう大したものではない。隣家の屋根と、まばらな街灯。11時、夜に沈んだ往来は誰も通ることなく、ただじっと朝を待っているように見えた。

 自分の身の上を思った。思ったら、別に、わざわざ思うほどのものでもなかった。なんとなく就職して1年が経った今。今の職場でやりたいことがあるのかと訊かれたら、返答に困る。かといって別の道に進みたいとか、夢を諦めたくないとか、そういうわけでもなかった。なんとなく就職して、なんとなく——一応、社会人1年目は慌ただしく過ぎ去り、それなりに頑張っていたつもりではあるけれど——働いてみた。今の職場はそこそこ好きだし、人間関係がとりたてて嫌ということもない。仕事はごく普通の事務職だが、自分には合っている。きっと。

 それでも何か、何かが違う。まるで今日の空みたいだ、と自分を重ねた。何か大事な、果てしなく広がっているはずのものが、覆い隠されているようだ。雲が覆い隠す星空のような、そんな何かを。しかしそれが何なのか、分からなかった。雲の向こうに何があるのか、雲が晴れたら何が見えるのか。もしも、雲を突き破ることができたら——

 佳鈴が空を見上げていると、ふいに、雲の切れ目を見つけた。そして切れ目から、きらりと光る何かが見える。星かとも考えたが、それは明らかに、少しずつ大きくなっている。いや、少しずつ、こちらに近づいてきているのだ。

 何かが来る、と分かったとき、「それ」はもはや逃れようもないほど近くまで迫ってきていた。「わたし、ここで死ぬのかな」と思うと同時に、「こんなダイレクトな流れ星ある?」と妙に冷静にツッコミを入れている自分もいる。そして、それはとうとう。

「え、待って」

佳鈴のすぐそばに、落ちた。

 ベランダ、壊れるんじゃないかな。咄嗟に目を閉じ、そんな懸念を抱いた佳鈴とは裏腹に、「それ」は存外、佳鈴の自室のベランダに衝撃を与えなかった。佳鈴の上に覆い被さったはずの衝撃は、あまりにも、軽かったのだ。まるで、羽が降ってきたような。

 佳鈴が目を開けると、そこには、羽が舞っていた。鳥の羽のように見えた。真っ白な羽だ。そしてその羽の中から姿を表したのは、1人の少女だった。真っ白な髪を持ち、背中に大きな翼を生やしていた。
「誰?」
佳鈴が少女に尋ねる。少女はぼんやりと佳鈴の顔を見つめていたが、少しして、ひどく慌てた様子で、
「わ、ど、どうしよう! 私ったら、またやっちゃった!!!」
と、頭を抱える。真っ白な髪をぐしゃぐしゃと引っ掻き回している。
「え、何? どういうこと?」
ベランダにへたりこんだ佳鈴。すると少女は、乱れた髪を軽く手で撫でつけると、佳鈴の方を見た。
「あ、ご、ごめんなさい!」
と言って、続けた。
「えっと、その、星をお見せしたら、元気が出るかなって」
「え」
「だからその、雲を切ってみようかなって思ったんですけど、あんまり上手くいかなくて。私、上からあなたを見たときに、元気がないように見えたから、咄嗟に、何かしたくなって」
(上から見てた、って何。ご先祖さまか何かなの?)
 あるいは、天使か。
 こんな大きな羽を生やした存在、もう天使しか考えられない。いやそもそも天使がまず実在するんだろうか。
 少女は先ほど整えた髪をまた乱しながら、「わ、私、本当ダメだな……」とつぶやくように言っている。佳鈴からそらされた視線は彷徨っていて、うまく居場所を見つけられないように見えた。
「私、いつもこうなんです。飛ぶのもうまくいかないし、今日みたいに落ちちゃうし……本当に、ダメで、何をやってもうまくいかないっていうか……。もっと、役に立てるようになりたいのに、いつもダメで」
少女は、今にも泣き出しそうな声になっていく。
「あの」
 佳鈴は意を決して、天使(暫定)の少女に話しかけてみる。少女は躊躇いがちに、「は、はい」と返事をして、佳鈴へ顔を向けた。
「ダメなんかじゃ、ないと思います」
少女の顔を見据えて、佳鈴はそう言った。
「まだちょっと状況がわかんないけど、私を元気づけようとしてくれたんですよね」
少女が控えめに、首を縦に振った。
「なら、あなたはダメなんかじゃない。ほら、上を見てください」
佳鈴は、頭上を指さした。少女もまた空を見上げる、少女が落ちてきた雲の切れ目からは夜空が覗き、星が瞬くのが見えた。
「星、見えてますよ。月も」
雲の切れ目からは、月明かりが差している。
「私、元気出ましたから。だから、泣かないで」
佳鈴がそう言うと、少女の大きな瞳から涙が溢れる。
「ダメじゃ、ないですか?」
と、少女。佳鈴は「そうですよ」と返した。
「何かしたいって思ったときにそれがすぐできるのって、すごいことだと思います」
 少女に語りかけながら、佳鈴は想いを巡らせた。ああ、そうだ。何かをしたいと思ったときに、すぐにやればいいんだ。自分を元気づけようとして、雲を突き破って、星まで見せてくれた、彼女のように。
雲を突き破って、星を見せてくれるようなひとが、この世界にいるのなら。
 まだもう少し頑張ってみようかな。佳鈴の黒髪を撫でた夜の風は、少女の髪を静かに揺らした。

三題噺:暗澹・身・重なる