見出し画像

ミュージカル「辺獄に花立つ」再演版観劇感想

 こんにちは、雪乃です。今日は彩の国さいたま芸術劇場で「辺獄に花立つ」の再演版を観劇してきました。今日(12月14日)ということにしてください。感想が書き終わらなかったので。(これ「応天の門」の感想文でも言ってたな)

 昨年の10月に下落合のTACCS1179で上演された「辺獄に花立つ」がMono-Musicaの結成20周年記念公演として、スケールアップしての再演となった本作。初演版で魂が震えるような衝撃を受けた作品を再び観ることができて、心より嬉しく思います。

 初演の感想はこちら。

 劇場が変わったことで、演出や舞台セットも変更された「辺獄に花立つ」。さい芸の小ホールはステージから天井までがすごく高い劇場なので、照明がまるで天から降り注ぐ光のようで美しかったです。光が舞台上をあの世とこの世に分け、あるいは天国でも地獄でもない辺獄に変貌させ、あるいは月の光を舞台上に落とす。照明好きとしては、照明が様々な表情を見せてくれる演出で、照明を見ているだけでも楽しかったです。

 劇場に入ってまず目に飛び込んでくるのが、舞台に川のように横たわる真っ赤な布、そして初演からお馴染みの文机。舞台後方には宗教建築を思わせる塔やそれに続く階段があり、ステージが広くなったからこそできる演出に。そしてステージが広くなり、登場人物たちの間の物理的な距離が生まれ、その距離によって、舞台上で生まれる断絶や別れに一層の説得力をもたらしていました。

 初演は超至近距離(※まさかの最前列)で観劇したので、まるで自分も大正時代を生きたかのような没入感があったのですが、再演はウイング席からの観劇。舞台との間に距離が生まれたことで、大正時代を俯瞰するような感覚になりました。

 また劇場が広くなったことで、「辺獄に花立つ」や「犀の角のように」「硝子の監獄」など重厚な楽曲がまるでグランドミュージカルのようなスケール感で響く。これを現地で聞けるのが、もうたまらなく幸せなんですよ。一方で大正時代に実際にあったかと思うような曲もあり、華やかなダンスナンバーもあり、現代的な楽曲も有り……と、改めて「辺獄に花立つ」の楽曲の幅の広さに驚きました。

 ストーリーは初演と同じく、「長らく男だと思われていた謎多き詩人・立花潮が実は女であった」ということを文学研究者の森貴彦が知り、彼が「潮」の人生を追っていく……というもの。初演からキャストが一部変わったことに伴い脚本にいくつかの変更点もあり、初演を観たからこそ違いに気づくことができて楽しかったです。

 それではキャラクター別感想を。

斉藤潮/立花潮
 
 女性の「斉藤潮」は夫を亡くし、義理の母のタツと2人で暮らしながら紡績工場で働く女性。詩を書くことは好きですが家事が不得手で、家を守ることこそ女の本分、女に読み書きは不要だとだと言うタツからは不出来な嫁だと怒られてばかり。一方、もう一人の「潮」──男性の「立花潮」は姉の祥子と2人で暮らしながら奔放に詩を書いています。
 対照的な2人の潮ですが、その2人とも当時の「普通」に合わせて生きることができず、それぞれの世界で「自分が男/女であったなら」と、もう一人の自分を夢想します。しかし女の潮が男であっても、男の潮が女であったも、潮の望むようには生きられなかったであろうことは、2人の潮の存在が図らずも証明してしまっているのがもどかしい。2つの魂がクライマックスで1つになっていく様は、まるで2本の川が同じ海に流れ込むような壮大さとこの上ない安らぎ、そして自由を以て描き出される。真に自由になった潮による「幸せだなあ。」という台詞は初演でも圧倒されましたが、また別の角度から観る再演版もやはり胸に迫りました。
 潮を演じるしひろさんの凄さは、女性の潮と男性の潮で骨格から違って見えること。女性の潮が窮屈そうに見えるほど、男性の潮が長い手足で心のままに駆け回る姿がより無垢に見える。潮が駆け回る場が広がったことで、男性の潮が持つ奔放さや幼さ、天賦の才がより伸びやかに見えました。一方で誰が手を伸ばしても決して届き得ぬ残酷さを孕んだ才能とそれが生み出す孤独が一層深く描き出されていました。

斉藤タツ
 斉藤潮の亡くなった夫の母。家を守ることが女の役目であると潮に説き、潮が詩を書くことに反対します。
 一見すれば抑圧的で古い慣習に囚われた義理の母に見えるタツ。しかしタツは夫を亡くし、必死に息子を育ててきた人でもあり、だからこそ次第に明らかになっていくタツの正しさがきちんと血の通った価値観として見えてくる。単に「新しい女」に対峙する存在では終わらせず、タツはタツの正しさを、人生を信念を持って生ききるところが、この作品の大好きなところです。初演でも思いましたが、タツを演じたヤヤさんが本当に年老いた女性にしか見えず、改めて役者の凄さを実感するお役です。本当に「上海花影」の夕月と同じ方ですか?
 関東大震災の後、地震で亡くなった女性たちについて「じっと人様のために生きて、身を粉にして働いて、死ぬときばかりが平等であった。」と言うシーンがあるのですが、この台詞はタツにしか言えないと改めて実感しました。どれほど必死に生きても透明化されてきた女たちを掬い上げ、彼女たちが確かに生きていたことを可視化する言葉。再演でもやっぱりこの台詞が大好きです。

白舟雪路
 女性の手で作られた雑誌「青嵐」の編集長。モデルは実在した運動家である平塚らいてうです。雷鳥を思わせる白地に黒の斑点が入った着物に赤い帯、そして黒いショールという出で立ちが素敵。レビューショーのドレス姿やモダンなワンピース姿も素敵でした。
 血を流さない言葉の革命を起こすという信念を持ち、女性の権利獲得のために奔走する雪路。一度決めた道は譲らない面も有り、タツとのやり取りからも分かるように、同志である千枝子とは互いにないものを補い合いながらここまで歩いてきたのだと分かるキャラクター造形がやはり好きです。
 そして雪路といえば、千枝子を失い、初演では「青嵐」の仲間である美鶴が、再演では「青嵐」の出資者であるハナ江が彼女のもとから去ったのちに歌われる「雪の路」というナンバーです。たとえ独りになっても、共に歩む者が隣にいなくなっても、それでも未来を、道なき道を切り開くために、足跡一つ無い雪原を踏みしめて歩いて行く。そんな雪路の決意が、ジュンさんの繊細で透明感のある声で歌われるこのナンバーが私は本作の中で一番好きで。どれくらいかというと、初演時にこの「雪の路」に対して「雪の上に刻んだあなたの足跡が導く時代がわたしの未来」という返歌を作ったほどです。そんな大好きなナンバーが生でもう一度聞けるなんて、そんな幸せあっていいんですか……?
 ちなみに「雪の路」は初演のフルバージョンが劇団公式Xにて公開されています。全人類聞いてください。

折川千枝子
 雪路とともに「青嵐」の編集に携わる、雪路にとっては無二の存在。相手によって交渉方法を巧みに変える柔軟さと、強かさを持ち、正攻法ではない手段をためらいなく取ることのできる、雪路とは異なる強さを持った人間です。あくまで「言葉の革命」を望む雪路の理解者であると同時に、千枝子はリアリストな面もあり。そんな彼女の強さも人間的な魅力も存分に描かれていただけに、雪路と異なる道を選ぶ場面では分かっていてもやはり辛く……。かつ初演を観ていて、雪路と別れた千枝子がどのような結末を迎えるかを知っている状態で再演を観たため、初演以上に観ていて辛かった。初演でも千枝子のパートナーである高良のモデルを察した時点である程度予想はしていたんですが、千枝子はあまりにも残酷すぎる結末を迎えます。まさしく大正時代の光と闇を同時に背負っているお役でした。

寺嶋ハナ江
 再演から登場した人物で、潮の詩を「青嵐」編集部に紹介するという、初演の美鶴の役割を担っています。しかし潮と同じ工場で働く美鶴とは対照的にハナ江は資産家の夫人で、女性による文芸雑誌の刊行という「青嵐」の理念に共感し、出資者となっています。
 お着物の着こなしから品のあるたおやかな佇まいまで、大正時代から抜け出してきたかのような空気をまとっていたチャングさん。Mono-Musicaの公演は何度か観劇していますが、実は初めましての方。歌声も詩を読み上げる声も柔らかく、また私の席からはハナ江の表情がよく見えたのですが、どの表情も繊細で、台詞のないシーンも含めて素晴らしかったです。 あと現在「カムカムエヴリバディ」絶賛視聴中(2周目)のため、冒頭で広島ことばが聞こえた時点でもうすでに泣きそうになりました。「カムカム」の劇中で話されているのは岡山ことばなので厳密には違う地域のことばなのですが、やはり山陽地方の言葉って良いですね。「この世界の片隅に」の広島ことば・呉ことばも好きです。
 2幕では政治色の強い活動を始めた雪路に対し、出資をやめることを告げるハナ江。亡き夫の遺産を自由に使える立場にあるように見えて、それは彼女自身のお金ではなく、あくまで夫のお金。タツとは異なる裕福な立場だからこそ、この時代で夫を失ったあとの妻がどう生きていくのかを描き出す存在でした。

榎本謙一郎
 立花潮の幼なじみであり、彼の詩才を見出した編集者。潮が「書くことしかできない」人間だと誰よりも深く理解するが故に彼を厳しく叱咤する存在で、そんな譲一郎と潮が激しく感情をぶつけ合うシーンは初演同様燃えたぎるような、かつ生々しい熱さに満ちていました。その姿はあまりにも厳しく見える一方で、その厳しさは潮への理解が根底にあることが克明に描き出されていました。
 潮の姉である祥子とは思い合う仲でありながら、自分を身請けした旦那への義理を通す祥子と結ばれることを選ばない譲一郎。潮に対しては潮が引いている境界線を越えて踏み込むことが潮への理解であり愛である一方で、祥子に対してはその境界線を超えないことが譲一郎にとっての理解であり愛。対照的な、しかし心の同じ部分から芽生えた感情を併せ持つキャラクターでした。

立花祥子
 立花潮の姉であり、元辰巳芸者。現在は自身を身請けした「旦那」の作った家で弟と2人で暮らしています。
 初演時も思いましたが、やはり日本舞踊のシーンがこの上なく美しい。鮮やかな扇さばきに表現することに徹するかのように伸ばされた指先に所作、腰の入れ方と、凜としていて艶やかでしなやかで、ため息の出るような美しさでした。もう1回日本舞踊やりたくなるなあ。 再演はウイング席からの観劇ということもあり祥子の背中が見えることが多かったのですが、背中で語るシーンの多さに初めて気がつきました。表情からは強さや弟への無償の愛が見て取れる一方で、その背に常に哀しみを背負っている。違う角度で見直すからこそ見えてくる表現の奥深さが印象的でした。

時任祐市
 役所で勤務しながら創作をする新人作家。男性の潮の世界に登場し、潮に対し尊敬と嫉妬と羨望の眼差しを向ける、本作において最も人間らしいとも言えるお役です。
 彼自身も才能のある作家であることを感じさせながらも、しかしその才能が潮には及んでいないという現実を己に、そして観客に突きつける祐市。祐市が望んでやまない文学賞を受賞した潮は、あろうことかその賞状を鍋敷きに使っている。そのことに憤る祐市の言動は極めて真っ当なものであると観客の目に映ります。しかし祐市が「真っ当」で「普通」であるほどに、「普通」の存在が潮の理解の範疇の外にあることを思い知らされる。祐市の生き方に潮もまた憧れの眼差しを向けますが、その憧れはああまりにも無垢で純粋で、祐市が抱く嫉妬も羨望もない交ぜになった感情とは明らかに異なっているからこそ祐市を傷つける。どこまでも「普通の人間」として生きた祐市がとても愛おしいです。

松月
 潮の研究をする貴彦を大正時代へと誘う、人の世と辺獄をたゆたう存在。時間も空間も超越した超常的で異質な存在感を、ずぅさんが圧倒的な歌唱力と演技力、そして唯一無二の存在感を以て、初演に続き体現されていました。ずぅさんのアムドゥスキアスが見たい。(@ミュージカル「CROSS ROAD」)
 松月を見ていると、2つの世界、2つの時空、2つの魂や事象、あたゆるものが重なって存在しうるのではないかと思えてきます。しかしよく考えれば、劇場とは観客のいる客席=現実と、役者が物語を演じる舞台=虚構が重なって存在する特異な空間。時に虚実の境界を飛び越えて客席を巻き込むことのできる松月は、舞台だからこそ生きる存在だなと感じました。
 あらゆる世界を行き来し、人の営みを眺めては楽しむ松月。ただ在り様をあるがままに見ている、それだけなのに、なぜ松月という存在はこれほど奥が深く、時に恐ろしく、そして役として面白いのか。もはや私では言語化できないので誰かお願いします。あと松月様、どうか私を一度で良いので奈良時代に連れて行ってください……お願いします……大学時代を捧げた推しがいるんです……奈良時代に行けるなら私は今から近所の川に飛び込める……。

森貴彦
 潮の詩を研究する文学研究者。初演にはなかった、貴彦自身が文字を綴るシーンが再演で追加されたことで、「辺獄に花立つ」が「立花潮」というひとりの詩人の作品を継承する作品であるという道が鮮明に作られたように思いました。
 松月の導きにより大正時代に誘われ、2つの世界で生きる潮の人生の目撃者となる貴彦。研究対象の作家の人生をを目の当たりにできるという面だけを見れば、日本文学科出身の身としては羨ましい限りなのですが、時に人生の残酷な側面も目撃しなければならないことを考えると、結構その……複雑というか……。しかし2人の潮の喜びも悲しみも苦しみも、「同じ貴方だった」と受け止めた貴彦の歌う「花を献げよう」は、物語を終幕へと導く大切なナンバー。初演でも印象的だったこのナンバーが文音さんの伸びやかな声によって歌われ、劇場を満たすその瞬間を見届け、いや聞き届けることができて嬉しかったです。

ミヨ
 潮の生まれなかった妹にして、2つの世界を繋ぐ存在。初演時に「天使が目の前にいる……!」と衝撃を受けた方です。時に猫になり、時に潮のイマジナリーフレンドとして潮に寄り添い、時に登場人物の心情を表現し、時に潮の書く詩を舞台上に浮かび上がらせる。あらゆる役目を持つミヨを雪乃さんがダンスのみで演じているのですが、再演版もやはり身体や表情による表現の豊かさや、透明な光を纏っているような存在感が印象的で。そして舞台そのものが広くなったことにより、舞台上を縦横無尽に舞うミヨが物語のすべてをつなげる魂として存在していました。

 再演を観て感じたのは、潮を主人公として物語であると同時に、雪路がもうひとりの主役であったということ。Mono-Musicaの作品は全員が主役と言っても過言ではない作品も多いのですが、こと本作に関しては、潮と共に物語を貫く軸となっていたのが雪路の存在だと思いました。私は雪路さん推しというのもあるのですが、とにかく雪路さんの存在が大きい作品。特に再演版では美鶴が登場しなくなったことにより、千枝子と別れた後の雪路の孤独がより際立っていたと思います。

 今年の9月まで放送されていたNHKの連続テレビ小説「虎に翼」は、まさしく雪路が歩んだ道のように、女性が道なき道を切り開く物語でした。
 物語の最終盤で、主人公の寅子が「声を上げる女はどの時代もいた。ただ時代がそういう女を特別なものにしてきただけ」という旨のことを述べるシーンがあります。このシーンを観て改めて「辺獄に花立つ」を振り返ったときに、雪路や千枝子を知らず知らずのうちに「特別な女性」として見ていた自分に気がつきました。
 雪路も千枝子も、ただ「女は人間である」という至極当たり前のことを主張しているだけ。それは本来、特別なことでも何でも無いはず。それを特別だとしてきたのは社会であり、再演版で貴彦が扮した新聞記者のような「普通の」存在であり、そういう価値観を、私自身が無自覚に内面化していた。雪路や千枝子、そしてそのモデルとなった先人たちの切り開いた道を歩きながら、彼女たちを「特別」かのように扱っていた。選挙権も教育を受けることも外に出て働くことも、「特別」でなくなった今──雪路が望んだ「女が自由に生きられる時代」を、100年後の私たちは維持していかなくてはならないのだと強く感じた再演版でした。
 「辺獄に花立つ」が特集された新聞記事の見出しには「人間賛歌テーマに20年」とあります。人間の愚かしさ、どうしようもなさ、尊さ、愛おしさ、善悪あらゆる面を見せ、その上で「かくも人は美しい」と思わせる。高校生の時にDVDで見た「花廻りの鬼」からずっと、Mono-Musicaの作品にはそのような印象を抱いてきましたが、20周年記念として上演された「辺獄に花立つ」はまさしくその極地だと思います。

 今年は「イザボー」「この世界の片隅に」「CROSS ROAD」「ライムライト」「上海花影」「SONG WRITERS」「応天の門」と、日本発の舞台にたくさん触れた1年でした。なんならこのあと、今年の観劇納めとして「天保十二年のシェイクスピア」が控えています。
 外国を舞台にした作品や海外の映画を原作にした作品、そしてブロードウェイミュージカルの日本版から来日公演まで様々な作品を観て、改めて実感した日本物の良さ、日本物だからこそ作れる色彩、所作の美しさ。翻訳ではなく直に日本語で台本や歌詞が書けるからこそ、圧倒的な言葉の海の飲まれるあの感覚は、日本初の舞台でしか味わえない感覚です。

 今後も日本発のミュージカルが発展すること、そして何よりMono-Musicaの歴史が続いていき、30周年記念公演も、もっとその作もこの目で見られることを祈念しまして、この記事を結ぼうと思います。

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。 

この記事が参加している募集