【小説】花の色は

 桜の花は今日も、その透明な花弁に空の色を宿している。桜とは50年前に火星で発見された品種だが、ここ一帯に生えている木はすべて地球第一号のものらしい。ハナが細い枝をぽきっと折った。切り口から透明な液体があふれる。
「好きだね、それ」
「美味しいじゃん」
切り口から垂れる透明なそれを、ハナは器用になめとった。
「あんたも食べたらいいじゃん」
「いや、遠慮しとくよ」
ハナが折った枝から、すでに新しい枝が生えていた。枝を折ってもすぐに復活するので、桜は小学生たちのおやつスポットになっている。ハナのように、高校生になっても食べている人は稀だけど。
 花弁が透き通っているので、花弁越しに空が見える。昼間、夕方、夜、夜明け……。時間帯によって、花の色は違って見える。火星で青い夕焼けに染まる光景は、写真でしか見たことがなかったけれど、とても綺麗だった。
 学校帰りの、なんてことのない光景。僕とハナは幼馴染だった。

 休日は古書店に行く。埃っぽい棚と棚の間をすり抜けて、うず高く積まれた雑誌の塔を倒さないよう慎重に、奥に進んでいく。すると、本と本の間に、見慣れない青い背表紙が挟まっているのに気が付いた。恐る恐るそれを引っ張り出す。青い表紙は今にも外れそうなほどぼろぼろだった。値札すらついていない。本を壊してしまわないよう、気を使いながら頁を開く。そこには、一枚のカラー写真が張り付けられていた。
 驚いた。写真だというのに、何の音楽も鳴らないのだ。訝しみつつ写真をよく見ると、そこには薄紅色の花を咲かせる一本の大きな木が映っていた。
「何してるの」
聞きなれた声が背後から聞こえて、僕は振り返る。そこにはハナが立っていた。
「ハナ、どうしてここに」
「あんたが、入っていくのが見えたから」
ハナは流れるように、僕の手から本を取り上げてしまう。
「桜じゃん」
ハナはさらりと言った。僕は耳を疑う。
「桜? これが?」
するとハナは、はっと驚いたように手で口を押えて、「何でもない」と僕に本を返してくる。
「私、もう行くから。邪魔してごめん」
僕が呼び止める隙もなく、ハナは足早に古書店を立ち去った。店内のにはラジオの音声だけが流れる。しかし「今年も電気鶏の出荷が最盛期を迎えています」というニュースも右から左だ。どうしてハナは、桜と似ても似つかないあの木を桜と言ったのだろう。
 僕は店主のおじさんに、この本はいくらですかと尋ねる。おじさんは首を傾げた後、「500円で良いよ」と言った。僕は300円玉1枚と100円玉2枚を支払って店を出た。

 家に帰って、買ってきた本を読み始めた。本というより、個人的なノートの類のようだ。そこには、こんなことが書かれていた。

 10月4日。ここはどこだ? この町はなんだ? 交番に行ったが相手にされない。人通りは多い。どことなく、××に似ている気もするが。円錐形の塔は、すべてビルだと言う。彼らは何を言っているのだろうか?

 10月5日。2本脚の生物が歩いている。あれが馬なんて、冗談だろう?車輪のついていない、丸い何かが道路を走っている。中に人がいた。もしかして、あれはここにおける車なのだろうか。

 10月6日。透明な花びらを持つ花が咲いている。プレートには「桜」と書いてあった。これが桜? 私の知る桜は、ピンク色の花だったのだが。何より秋に咲く花ではない。たまたま居合わせた小学生くらいの女の子が、枝を折って樹液を食べると美味しいと教えてくれた。

 10月7日。保護された。私は今、よく分からない病院のような施設にいる。彼らは皆白い服を着ていたが、医者ではないようだ。どうやら私は異世界に来てしまったらしい。元の世界のことを忘れないよう、ここにできる限り書き記しておくことにする。桜の写真だけ持っていたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。

 10月8日。この施設で出される食事はどれも美味しい。電気鶏? 電気だけで育った鶏の肉は、私が食べていたものと遜色ない。施設の人間に、今日から色々と訊かれている。まるで取り調べのようだ。私は元の世界に帰ることが出来るのだろうか?

 日記のような文章は、まだ続いていた。同時に、書き手の言う「元の世界」の情報も記されていた。足が4本ある馬、角のない蛙。蚊が血を吸う?
蜂には毒があって、書き手は甲虫蜜ではなく蜂蜜を食べるらしい。蝶は黒一色でなくて、白かったり青かったりするのだそうだ。

 いつもの僕なら、これを単なる創作として捉えただろう。しかし、どうしても、あのときのハナの言葉が頭をよぎる。この書き手が「桜」と呼んだ花を、ハナも同じように桜と言った。

 ハナ、君は、何を知っている?

 週が明けて、学校に行った。ハナは誰よりも早く来て、窓際の席で本を読んでいる。教室には、僕とハナ以外誰もいなかった。僕が「ハナ」と呼ぶよりも先に、彼女は本を開いたまま、
「あれ、読んだんでしょ」
僕は頷いた。ハナは本を閉じて、僕の方に体ごと向き直る。
「ハナ、君は――」
「あんたは信じる? この世界のほかに、もう一つ世界があるって言ったら」
「どういうこと」
「あんた、それ読んだんでしょ。別の世界から来た人の日記だよ、それ」
時計の秒針の音だけがする。ハナは、当たり前の話でもするみたいに僕に言った。
 主人公が異世界に行く小説を読んだことがある。でもそれは、宇宙を舞台にしていたり、剣と魔法の世界だったり、総じて現実とはかけ離れた時空に行くのが常だった。
 あのノートに書かれていた、書き手にとっての「元の世界」は、僕らの世界と、そう違うわけでもなかった。違うのではなく、ずれているのだ。直方体のビル、タイヤのついた車、電気でなく穀物で育つ鶏。
「そういう人を帰してあげるのが私の仕事。でも、まさか日記が残ったままだなんて思わなかった」
ハナは淡々と続ける。
「ハナは」
ハナの言葉が途切れたタイミングで、僕は切り出した。
「知ってるの。ここじゃない世界のことを」
ハナが首肯する。
「私は、その人と逆だった。ここから向こうに行ったの」
僕の脳裏に、ある記憶がひらめく。中学2年生の頃だ、ハナが行方不明になったことがあったのだ。近所の人や警察が捜しても見つからなかった。しかし、行方不明になった1週間後、教室で自分の席に座っているのが発見されたのだ。行方不明になっていた間何があったのか、ハナはとうとう親にすら語らなかったそうだ。
「私が戻ってきたとき、向こうには1日しかいなかったのに、こっちには1週間たってた」
「どうやって、帰ってこられたの」
ハナが立ちあがる。窓を開けると、秋の風が彼女の栗色の髪をなびかせた。
「いたんだよ、あっちにも。迷い込んだ人を、帰してくれる人」
帰ってきたあと、ハナは白装束の集団に出迎えられたのだそうだ。そこで、「もう一つの世界」の存在を知った者として、自分たちに加わることを打診されたらしい。
「どうして」
僕は一度言葉を区切って、
「その話を、僕に」
窓の向こうを見ていたハナは、僕の方を向いて、まっすぐに視線を向けた。今まで見たことがない目だった。ハナだけ、先に大人になってしまったような……。
「あんたがもう、回収者になったからだよ」
「カイシュウシャ?」
聞きなれない単語を、僕は外国語の授業のように復唱した。
「あんたはあの日記を通して、向こうの世界を知ったでしょ。だから、今までと同じではいられない」
回収者。それは、この世界に存在する、「もう一つの世界」に関するモノを収集し、痕跡が残らないようにする人のことだと言う。僕は、偶然ではあるが、あの日記を購入し、読んでしまった。あの日記がどこから流出し、古書店に紛れ込んだのかはわからない。しかし、もはやそんなことは問題ではないのだ。重要なのは、僕が知ってしまったことなのだから。
「放課後、私と一緒に来て。そこで、全部説明するから」
ハナが僕に手を伸ばす。この手を取らないという選択肢は、僕には与えられていない。僕たちも、ただの幼馴染ではいられないみたいだ。