「流星劇1910」観劇感想

 今日は昨日に引き続き池袋にある木星劇場へ。本日は「流星劇1910」を観ました。がっつり日付が変わっていますが、まだ私が寝ていないので今日ということで進めていきます。

 「流星劇1986」の感想はこちら。

 まず結論から言いますと、めっちゃ好みの作品でした。

 正しさ、救済、宗教、そしてほうき星。76年後の世界を描く「流星劇1986」と同じ材料を使いつつも調理方法はがらりと変わる「流星劇1910」。

 彗星の到来によって世界が滅びると信じる敬虔な女性・オルガ。養父から引き継いだブドウ畑の世話をする異教徒マーシャ。そんな2人の女性と関わる伝教師セルジュ。3人の登場人物からなる、閉じた、濃密な時間を真正面から浴びることができて楽しかったです。

 1910と1986は繋がった物語なので、昨日の「1986」も踏まえて2本の舞台をより一層楽しむことができました。。マーシャが畑で葡萄の木が凍らないようたき火をしているのは、1986でもダヌィーロが言及していた葡萄の育て方のひとつ。昨日「1986」で見た!となりました。たぶんこれ、逆の順番で見ても「1910」で見た!となるんでしょうね。76年越しでテストに出る進研ゼミ?

 また「1986」のラストシーンをすごく爽やかなものだと思っていたのですが、「1910」を踏まえた上であのラストに立ち返ると、まったく違った解釈が見えてきます。「1986」だけでもストーリーはわかり、またあの作品単体でも完結しているのですが、76年前の真実を知ることでまた印象が変わるのも、2本同時上演の面白いところ。私は「1986」から観ましたが、「1910」から観たらどうなるんだろう?と思いました。記憶を全部消してもう1周したい。
 また聖職者であるセルジュの語る台詞のひとつひとつが、「1986」のダヌィーロが語る彼独自の宗教論を踏まえることでより客観的に聞くことができました。

 3人の愛と信仰が絡み合う「流星劇1986」。神を知らぬ異教徒に恐れすら抱く伝教師セルジュ。神を深く信じ、世界の終わりを支えに生きるオルガ。神を持たず、ただ目の前の営みに目を向けるマーシャ。3人の運命が、彗星の到来によって流転していくその様と、たどり着いたたったひとつの結末に胸が震えました。あの終わり方、めっちゃ好きです。

 それではキャスト/キャラクター別感想です。

 まずはまなむさん演じるセルジュ。「どうぞ」のたった一言が良い声すぎてまず好きです。神への信仰心も、非道な行いをした神父への怒りも、そしてマーシャの畑でとれた葡萄を使ったワイン・コメットヴィンテージで村を救おうとするのも、すべて本心であり真実であり、彼の中では「正しさ」だったんだろうなと。それゆえに、マーシャに対して「なんとなく」結婚を持ちかける人間らしさのギャップにグッときました。またすべてが真実だったからこそ、オルガにしてみればセルジュがマーシャを選んだように見えたのだろうと。マーシャを聖母マリア(劇中では生神女マリーヤ)として村人たちに紹介するあの大演説は、まるで寒村の村人の1人になったような感覚を覚えました。

 ヤヤさん演じる村娘オルガ。まず、あの、デスパレートのセイラムと本当に同じ方ですか???マジで???
 鈴の鳴るような可憐な声で発せられる言葉にはどれも嘘がなく、また素朴なたたずまいは、まさしく「敬虔な村娘」。
 序盤で見せたセルジュとのシーンでは、清らかさと濃さが綺麗に両立した唯一無二の名シーンだと思います、セルジュに祝福を受けた自分の右手に愛おしそうに口づける姿はまるで宗教画でした。
 世界の終わりを「セルジュと共に天の国へ向かうこと」と捉え、そこに至上の喜びと救済を見いだすオルガ。純粋な信仰が、彼女自身のたどった運命と、そしてセルジュが選んだ運命──彼女には、セルジュがまるでマーシャを選んだように見える──によって、次第に極めて人間的な情念をのぞかせていく様を克明に演じきるお芝居には圧倒されました。コメットヴィンテージを作ることを決め、村人にマーシャを紹介するセルジュを目にした瞬間の表情がもうすごくて!!内側から何かが壊れてこぼれ落ちていく、人間の際(きわ)の表情でした。
 オルガはまっすぐに生きてきて、まっすぐすぎた人だと思っています。まっすぐすぎて曲がれなかった、曲がらなかった、そんなキャラクターが私は好き。レミゼのジャベールや、北斗の拳のサウザーとか。まっすぐすぎる生き方をしたが故に曲がれなかったキャラクターを見たときに、すごく苦しくて愛おしくなる。オルガは私的に好みど真ん中のキャラでした。

 ずぅさん演じる異教徒の娘マーシャ。低音ボイスで響かせる台詞回しがすごく好き。前回の公演で演じていらしたエルザ・キンバリーとはまったく違う、すごく落ち着いたお役でした。
 オルガが、世界の終わりという「変化」を待ち望んでいるのに対し、マーシャはただ目の前の日常を生き、彗星の到来に際しても畑の世話をし続けるような、「不変」を象徴するようなキャラクターだと思いました。そしてマーシャの変わらず世話をし続けた葡萄畑が、やがてセルジュを変えてしまう。そんな中でも1人ブレない人間性を持ち続けた人でした。
 あまり感情を表に出さず、淡々と言葉を発するように見えるマーシャ。そんな彼女だからこそ、養父亡き後の部屋に、おそらくは父の生前と同じ調子で語りかけ、しかしどこか寂しさを滲ませるようなところには心を動かされました。

 「流星劇1910」の物語で、名前のみの登場するキャラクターがいます。それは2人の「バーチュシュカ」。1人はその「お父ちゃん」という意味通り、マーシャの育ての親であるイヴァン。そしてもう1人は、司祭を表す言葉としての「バーチュシュカ」の意味合いで呼ばれるドミトリー神父。文字通りの意味と、司祭を信徒たちが父になぞらえて呼ぶ、2つのバーチュシュカ。
 イヴァンはマーシャを育て、葡萄畑と共にコメットヴィンテージの製法を娘に残した。一方のドミトリーは、とても司祭として、それ以前にまず人としては許されないような行いに走った。行いは対照的、しかし同じ呼び名で呼ばれる2人。名前しか登場しないにも関わらずこの2人は驚くほど存在感がありました。

 そして「1910」で楽しみにしていたのが主題歌!「1986」で短いフレーズのみダヌィーロが歌っていましたが、「1910」はフルで聴くことができました。あの3人の至上のハーモニーを小さい箱で聞くと、ひたすら空間すべてが音楽で満たされるようになって、とても贅沢な気分です。

 彗星をキーワードにつながる2つの時代を描いた「流星劇1910」「流星劇1986」。のちの歴史を知っている観客だからこそわかることも多く、2つの時代を外から眺めるその観測者になったこの感覚は、「渚にて」や「銀河英雄伝説」でも味わったそれを思い出して、とても良質なSFの味がしました。そして何より、正しさが多様化し、戦争が今なおも続く、「今」観るべき物語であったと思います。

 さて、私はこの「流星劇」が今年の観劇納め。最高に面白いお芝居で今年も締め括れて幸せです。

 さて、ここから先は完全なる余談。

 余談その1。池袋、出口多すぎ問題。出口全部で何個あるんだよ!!!しかもなんで昨日1回通ったルートを完全に忘れて2日目に迷うんだ。C3出口、池袋駅の中でもマジで端の端まで延々と歩かなくてはならないので地味に遠い。とりあえず副都心線を目指して行けば良いので、次回からは迷わないと思うんですが……。大学時代に友人と池袋駅に集合した際も出る出口を完全に間違え、友人に迎えに来てもらったことがあります。(逆になんでこの出口に出たの?と言われました。)あの頃からあんまり進歩がないな……。

 余談その2。私にとってバーチュシュカといえばBatushka、東方正教会モチーフのメタルバンドのイメージです。なのでバーチュシュカと聞くたびに脳内でメタルが流れそうになっていました。今回「1910」で使われていた音楽の中にはきっとBatushkaの曲のモチーフになったんだろうな、と思うサウンドも多く、そういう意味で音楽面でもすごく楽しんでしました。

 余談その3。せっかく木星劇場まで行くので星モチーフのアクセサリーにしていくかと探したところ、見つけたのがこれ。


どう見ても土星です。まあ太陽系の惑星の中でトップクラスでモチーフとして使いやすいのって土星だから仕方ないね……!

 さて、余談もこの辺にしてそろそろこの記事も締めようかな。2公演観劇特典の書き下ろしコラムも頂いたので、台本やプログラムと合わせてじっくり読もうと思います。

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。

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