【小説】星をつかまえて

 午後二時を回ると、手で綿菓子をちぎるみたいに雲が晴れて、さっきまでの雨が嘘だったかのような青空になった。どこに隠れていたのだろうか、蝉の鳴き声が聞こえ始める。夏休み初日。ゆりは、パジャマから着替えもせずに、自室の床で大の字になっていた。
 高校三年生。机の上に並ぶのは参考書や、中途半端に途中式を書いたまま放置されたノート。勉強も大事だけれど、初日くらいは。そんなことを思いながら意識が朧げになり始め、夢と現実の境界がついに曖昧になろうかというその瞬間、足元に放り出すように置いていたスマートフォンの着信音で、ゆりは急に現実に引き戻される。

 ゆりはしぶしぶ起き上がってスマートフォンを手に取る。画面に表示されたのは、よく見慣れた友人の名前。電話をかけてきたということは、余程のことなのだろう。ゆりは画面をスワイプして電話に出る。
「ゆり、UFO見に行かない?」
素っ頓狂な、いやゆりにとっては日常会話に成り果てた第一声。電話をかけてきたのは友人であり幼稚園からの幼馴染であるあおいだった。
「UFO?」
「今日こそ会えるんだって、あたし分かっちゃった!」
弾む声は、夏の太陽をそのまま音にしたようにすら聞こえる。
「いや、この前の土曜日も同じようなこと言ってたけど、結局何も起きなかったよね」
「あの時の宇宙とは違う宇宙なの!前はちょっとチャンネルが合わなくてコミュニケーションが上手くいかなかっただけ」
捲し立てるようなあおいの話し方に、ゆりはここがあおいのいる教室であるかのような錯覚を覚える。
 あおいがこういう感じなのは、何も今に始まった事ではない。ゆりとあおいは幼稚園の頃に出会い、そのまま高校まで同じ学校で過ごしているが、出会った頃からこんな調子だったのをゆりは記憶している。

 小学校二年生の時には、ゆりはあおいにチュパカブラの恐ろしさを延々と聞かされて、挙げ句の果てに「一緒に捕まえに行こう」なんて言われて号泣した。数年経てばそんなものは創作だとわかってしまってゆりは拍子抜けしたけれど、相変わらずあおいはいつかヒマラヤに行ってイエティを捕まえるんだと意気込んでいた。

 一緒にプールに行けば「河童を捕まえるために泳ぎが得意になりたい。ゆり、教えてくれない?」と言われて困惑したし、二人して地元の夏祭りに繰り出せば、あおいはすかさず神社の裏手に回ろうとしたり、丑三つ時までここにいようと言い出した。そして、そんなあおいを止めるのがゆりの恒例行事となっていた。

 そんなゆりを見かねたのか、中学校のクラスメイトがゆりを遊びに誘ったことがある。プリクラを撮ったり、ファーストフード店でなんでもない話をしている時間は楽しかったけれど、なんとなく、心に引っかかるものがあった。
 あおいと二人でいる間は、何が起きるかわからない。予定調和も定番も、そんな言葉が一切合切似合わない幼馴染の隣が、なんだかんだで、ゆりは一番心地良かった。

 夏の夜は、街全体が生温い微睡の中にあった。六時ではまだ夕方というという感じすらしなくて、空は午睡を始めるまでにはもう少しかかると見えた。
「あおい、私夜中に出歩いて補導とかされるのいやだからね」
そう電話口で念を押して、ゆりはあおいと近所の公園で待ち合わせた。遅い時間までは付き合えないよとゆりが言えば、あおいは「大丈夫、今日はちゃんと早めに呼ぶから」と答えて、やはりあおいはあおいだった。最低限の貴重品だけを持ってきたゆりに対し、あおいは大きなリュックを背負っている。やたらと重装備で現れるのも、昔から少しも変わっていない。

 公園を出発して、土手にたどり着く。河川敷ではキャッチボールをする少年たちや走り回る子どもたちの姿も見えて、まだまだ街中の喧騒と切り離せる時間帯ではない。
 UFOが見える時間帯は何も夜ばかりではないことを、ゆりも知っていた。昼間に撮影された未確認飛行物体の映像だって、テレビで見たことがある。
 小学生の頃からあおいのUFO探し——本人はUFOを呼んでいるのだと主張するが——に幾度となく付き合っていたが、その実UFOらしきものを目撃できたことは一度もない。あおいの部屋に泊まって見様見真似で百物語をしたときも(そもそも、そんなに怪談のネタが続くわけがなかったのだが)何も起きなかった。

 ゆりはあおいと河川敷に降りた。あおいは空を見上げ、何かを呟いている。あおいがUFOを呼ぶときに決まって言う呪文のようなものだ。効果はおそらくないのだろうが、あおいは十年近くこの儀式じみた行為を続けている。
 十五分ほど経っても、UFOは現れなかった。あおいは急に呪文を言うのをやめて、こんなことを口にした。
「ねえ、ゆり」
「どうしたの」
「ずっとあたしと一緒にいてくれて、ありがとう」
顔を正面に向けて川面を眺めていたゆりは、驚いてあおいの顔を見た。
「あおい、熱でもあるの?」
「ううん」
あおいは相変わらず、空を見上げていた。幼馴染のよく見慣れた瞳が、知らない人のもののように感じられた。
「ゆりはこの先、どうするの」
「え」
「受験とか、そういう」
「ああ」 
受験という、現実的な言葉があおいの口から飛び出したことに、ゆりは内心面食らっていた。
「私は文系一択だよ」
「そっかあ」
炭酸の抜けた炭酸飲料みたいな声で、あおいが答える。ゆりが「あおいは、どうするの」と尋ねれば、あおいはそうだねえと言ってから、
「ずっと、このままでいたいって思ったら、だめなのかな」
「は」
あおいは続けた。
「ゆりと、ずっとこんなことしてたいよ。あたしに付き合ってくれたの、ゆりだけだもん」
「それ、は」
ぬるい風が、二人の間を通り過ぎた。
「ねえ、ゆりは」
あおいが、体ごとゆりの方へと向けて、ゆりを見た。ゆりの手を握って、ゆりの目を見て、
「あたしとずっと、友達でいてくれる?」
いつになく真剣な眼差しをしたあおい。いたずらっぽくて子供っぽい笑顔を浮かべたいつもの彼女からは想像もつかない姿に、ゆりは、
「うん。ずっと、友達だよ」
と返す。するとあおいは、良かった、と出会った頃と少しも変わらない顔でまた笑った。

 一時間粘って、結局UFOは今日も来なかった。家路に着く途中、あおいがこんなことをこぼした。
「ゆり、あたしね」
「どうしたね」
「宇宙とか、そういうのを勉強したいんだ。だから、物理頑張ろうと思うよ」
空を見上げれば、一番星が昇っている。あおいの横顔が、生まれたての夜空の下でどこかまばゆく見えた。
「いいと思うよ。あおいらしくて」
「ゆりは?」
あおいがそう訊くので、
「うーん、史学科志望かな、一応」
「ゆりらしいね」
二人分の笑い声が、じっとりとした夏の夜に溶けていく。あおいは、「それでさ、」と続けた。
「いつかちゃんと、ゆりにUFOを見せてあげるから」
あおいは、にっと笑った。
「好きだね、UFO」
「好きだよ、ずっと」
待ち合わせ場所に使った公園に立ち寄った。あおいは大きなリュックから、スポーツドリンクのペットボトルを取り出す。二本あるうちの一本を、ゆりに手渡した。
 スポーツドリンクはすっかりぬるくなっていて、甘ったるい液体が口内を満たす。ゆりの口から、ふ、と気の抜けた笑いが漏れた。
 すっと視線を上へ持ち上げる。星々が煌めく中に、一点、白く光るものがあった。最初は星かと思ったが、違う。小さく揺れて、やがて夜空を縦横無尽に動き始めた。あれは、もしかして、
「あおい、あれ!」
ゆりはあおいの肩を揺さぶって、視線を空に向けさせる。
「UFOじゃん!」
それは上下左右に動きながらもなお二人の視界に留まっている。
「やば」
あおいが大きく目を見開いた。
「あたし、初めて見た」
「私もだよ」
二人はそのまましばらく白い点を目で追っていたが、やがてそれは一瞬で空の果てに消えてしまう。
「あたし、会いに行くよ。あのUFOに」
やっと会えたんだもん。あおいはそう付け足した。
 二人はどちらからともなく手を握り合った。未確認飛行物体の消えた空に吸い込まれるように、ただ立ち尽くしている。
「あおいならできるよ、きっと」
「ゆりがいれば、必ず」