【小説】もえいづる

「すごいなぁ」
ベッドに倒れ込んで、そう独り言を言った。手元にはスマートフォン、そして画面には小説投稿サイトが表示されている。

 私——深山千鶴(みやまちづる)が読んでいるのは、ある長編ファンタジー小説だった。ある日突然、異世界に飛ばされチート能力に目覚めた少年が悪の組織に追われながら冒険の日々を送る……という物語だ。こう簡素にまとめてしまうとごくありふれた小説に思われてしまうかもしれないが、この作品はそうではなかった。

 視点が変わると、違う人間が書いているのではないか思えるほど、シーンが纏う空気が変化するのだ。それだけではない。細部まで詰められた設定、緻密に張り巡らされた伏線。登場人物も皆魅力に溢れている。異世界の描写も決して通りいっぺんの中世ファンタジーではなく、宗教や風俗、食べ物、国ごとの風習の違いまで細かく書かれていた。特に、異世界と現代日本の倫理観の違いを書くという点で、この小説は頭ひとつどころか五つくらいは飛び抜けて巧みだった。

 本当に驚くべきは、これを書いているのが私と同じ二年五組の生徒——墨田真紘(すみだまさひろ)くんであるということ。
なぜ知っているのかというと、彼のスマートフォンの画面を、ちらりと覗いてしまったことがあるのだ。ほんの一瞬だったけれど、見慣れた単語が目に入って、すぐに理解した。同時に驚いた。彼は小説をネットにアップするようなタイプには見えなかったのだから。

 墨田くんは私の斜め前の席に座っている。窓際で、時折日光に対して眩しそうに目を歪める姿を、私は休み時間のたびに目にする。でも彼は頑なに自分でカーテンを閉めに行くことはないから、私が閉めている。ほんの少しだけ、カーテンを閉めるという口実のもと、私は墨田くんのそばに行ける。私は彼に恋をしていた。

 一年生のときも同じクラスで、私は墨田くんと図書委員を務めた。見るからに文学青年といった感じの、眼鏡をかけた彼に、私は一目惚れをしてしまったのだ。
 学ランの袖口から覗く細い手首に、一度も太陽に当たったことがないのではないかと思ってしまうほど白い肌。長い指と、骨が浮き出ているが滑らかな手の甲。私よりも、頭一個分ほど高い身長。切れ長の目は、殆どの時間手元の本に向けられていた。
 繊細な、烏の濡れ羽色をした髪を墨田くんが耳にかけるたびに、私の胸は高鳴った。本が入った箱を私が運んでいたら、後ろから音もなくやってきて、その箱をさらりと奪い取って図書室へ行ってしまった。寡黙で何を考えているのかよく分からなかったけれど、私は彼のことが、たまらなく好きだった。

 さて、私は中学生の頃から、ネット小説を読むのが好きだった。自分で書くのも好きだった。高校生になってスマートフォンを買ってもらったことをきっかけに、自作の小説を「白月夜」のペンネームを使ってサイトに投稿するようになっていた。ページビュー数もブックマークの数も微々たるもので、感想なんてついた試しはなかったけれど、誰かが読んでくれていることが分かるだけでも嬉しかった。
 サイトを巡回する中で出会ったのが、彼の小説だ。初めは軽い気持ちで読み始めたのだが、気付いたときには「次の話へ」のボタンをタップする手が止まらなくなっていた。そして、作者が墨田くんと知る前から、私は感想を一話ごとにコメントするのが恒例になっていた。

 彼の才能は嫉妬するほど眩しかったけれど、それは私が書くことをやめる理由にはならなかった。そもそも、彼とは書いているジャンルが違ったからだ。私は才能がないなりに、書けるものがある。そう信じていた。

 六月のある日、小説を投稿するためにサイトのマイページを開いたら、一件だけコメントが来ていた。コメント欄を開いた瞬間、私の時は止まった。
 コメントの送り主は、雨傘というユーザー。それは紛れもなく、墨田くんのペンネームだった。
墨田くんからコメントが来たことが信じられなくて、私はログアウトとログインを三回も繰り返してしまった。深呼吸をしてから、ようやく文面を見た。そこには、
「白月夜さん、いつも感想ありがとうございます。白月さんの小説も読ませていただきました。情景描写がとても美しいですね。これからも更新を楽しみにしています」
と書かれていた。まめに更新をする彼らしい、真面目な文章。おそらく感想をくれた人に似たような文面を送っているのだろうけれど、私の心臓はあり得ない速さで脈を打った。
「待って待って待って……どういうこと……いやでも墨田くんはこれが私のアカウントなんて知らないだろうし……!」
 普段は心の中だけに収めていた声が、無意識のうちに漏れてしまう。ベッドに飛び込んで、足をばたつかせて。私の部屋から聞こえる尋常ではない物音を不思議に思ったのか、ドアの隙間から母親が私の様子を覗いていたけれど、気がついていないふりをした。
 私は墨田くんが「雨傘」さんであると知っているけれど、その逆は絶対にない。だって委員会でも滅多に会話しないのだから。

 その日を境に、雨傘さんこと墨田くんから、時折コメントが来るようになっていた。当たり障りのない返信をして、私がクラスメイトの深山千鶴であることを知られないように心がけた。インターネットの世界で、私たちはあくまで「白月夜」と「雨傘」であって、その関係を壊したくなかった。感想を送り合うだけの関係が、永遠に続いていくよう願いながら。

 夏休みが明ける頃、墨田くんの小説の更新が止まった。「どうして更新しないんですか」ともコメントできず、さりとて学校で直接訊けるわけでもなく。更新の停止に付随して、墨田くんから送られてくる感想も止まった。通知の途絶えたマイページ。何かの終わりは、いつだって呆気ない。

 学校での墨田くんの様子は、いつもと変わらなかった。本を読んで、友達と話して、勉強をしていた。変化しているとすれば、スマートフォンを開く時間が少なくなって、参考書を開いている時間が増えたことくらいだった。

 九月。水曜日の放課後の貸し出し当番は、墨田くんと私だった。生徒の訪れも絶え、私は本を棚に戻す作業に入った。
 左手に本を持ったまま脚立の上に乗って、一番上の棚に右手を伸ばす。その棚はスペースにあまり余裕がなく、棚に入った本ををぎゅっと手で押さえていないと本を戻すことが出来なかった。
右手で棚の本を押さえながら、慎重に左手で持った本を間に押し込んでいく。私は脚立に乗ってもなお身長が足りず、爪先立ちにならなければならなかった。
 もう少しで本が空けたスペースに収まる。そう思った、そのとき。
「う、うわっ!」
私はバランスを崩してしまった。このままだと、床に激突してしまう。恐怖で私は目を閉じた。しかしいつまで経っても痛みはなく、恐る恐る目を開けると、
「墨田、くん……?」
床に尻もちをついた状態で、墨田くんが私を受け止めてくれていた。私はというと、墨田くんの足の間にすっぽりと収まる形になっていた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて墨田くんの上から下りる。彼の方を向くと、顔を背けてしまっていた。
「ごめん、怪我してない……?」
整った横顔が頷いて、私は彼に怪我をさせていなかったことに安堵した。やがて彼は僅かにズレた眼鏡を中指で持ち上げると、私の顔を見た。長い指が、私の髪に触れる。二三度私の頭頂部の辺りの髪を撫でて、
「ほこり……ついてたから」
彼の顔は至って真剣で。きっと本についた埃を払うくらい、普通の行為だったのだろう。だが私は何も言えず、口を開きかけてそのまま固まってしまった。
「あり、が、とう」
壊れたロボットようにぎこちなく言うのが精一杯で。
(世界に、二人しかいないみたい)
図書室には、時計の秒針の音だけが響いていた。

 それからいくら待っても、雨傘さん、もとい墨田くんからコメントが来ることはなく、小説の更新も停止したままだった。

 文化祭でも、その後の当番でも、私たちは会話を交わすことはないまま時間が経ってゆく。墨田くんが学校に持ってくる参考書の種類が増えた。

 冬休みが明けた。図書委員が貸し出し当番を担当するのは二年生までで、私は今日が最後の担当日だった。そしてそれは、もう二度と墨田くんと貸し出しカウンターに立てないことを意味していた。
 テスト前ということもあってか、図書室に本を借りにくる人は少ない。というわけで、今日は早めに図書室を閉めることになった。
貸し出しカウンターの後ろには書庫があって、図書委員の荷物置き場になっていた。中央に置かれた大きめのテーブルに、私と私の想い人のリュックが並んでいる。その光景がなんだか擽ったくて、ずっと見ていたい気がしたけれど、墨田くんは私よりも早く鞄を肩にかけてしまった。
 墨田くんが書庫を出ようとする刹那、私は彼の学ランの裾を掴んだ。何の考えもなしに、衝動的に。
「何?」
墨田くんが振り返って、目が合った。何を言えば良いのか一瞬思案して、でも何も分からなくて、私は、
「私が、白月夜なの」
何の脈絡もなく切り出した。墨田くんは私の方に体ごと向けてくれて、
「白月夜って、小説の?」
私は頷いた。更新もやり取りも途絶えてずいぶん経つけど、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
「雨傘さん、だよね。私、ずっと読んでた」
私よりも高い位置にある彼の顔を見上げた。彼の眉が、ぴくりと動いた。
「知ってるの、か」
彼から目を背けないように気をつけながら、私は返す。
「ごめん、前、ちょっとだけ画面が見えたことがあって、それで……」
やっぱり言うべきじゃなかったのかもしれない。彼は学校で誰にも小説のことを言っていなかったのだから。
 私を見下ろすその人は、左肩にだけかけていたリュックの肩紐をずらして、そのままそれを床に下ろした。
 ここで終わってしまったらダメだ。私は制服のスカートをぎゅっと握りしめて、続けた。
「私、雨傘さん、ええと、墨田くんの作品が好きで。それで、感想送って貰って、すごく嬉しくて」
自分が何を口走っているのか分からなくなる。
「その、要するに、好き」
私がとんでもないことを言ってしまったと気づくまでに、三秒ほど要した。
「だから、その、更新いつかなって思ってて。なんか催促してるみたいになっちゃってるんだけど、そういうことじゃなくて」
軌道修正を試みるはずだったのに、気がつけばより収集がつかなくなっている。目を白黒させる私に、墨田くんは、
「……良かった」
綺麗な形の唇からこぼれたのは、意外な言葉で。綺麗な形の目が、泣きそうに歪んでいて。
「え」
「もう誰も、覚えてないかと思ってた」
ネット小説は、コンスタントに更新をしないと、あっという間にインターネットの波に押し流されてしまう。だから、覚えている人がいたのが嬉しかったのだ、と。そこから墨田くんは、私にこう語った。
「書くことに、迷いが生まれた」
誰かに否定されたとか、そういうわけではなくて。今までコンスタントに更新し続けてきたからこそ生まれた小さな迷い。そんなものが少しずつ増えていく。インクを一滴ずつ、水の中に垂らしていくように——
 そんな思いを打ち消すために、勉強の時間を増やした。その結果、ますます小説から遠ざかってしまったのだと説明してくれた。
「自分より才能がある人なんて、数え切れないほどいるから」
墨田くん、あなたも。
(そんな顔、するんだね)
私からしたら、墨田くんの持つ才能なんて、羨んでも羨みきれないくらいだ。それなのに、あなたもこんな風に、私と同じ感情を抱くんだね。そう気がついたとき、私は墨田くんの手を取っていた。
「墨田くん、私ね」
これは、墨田くんに恋をする「深山千鶴」としてではなく、雨傘さんの一ファンである「白月夜」としての言葉。
「私、あなたの作品が好き。だから、いくらでも待つよ」
 だから、どうか書くことをやめないで。そう言おうとした。でも、言えなかった。私に言う資格なんてあるのか、自信がなかったから。書き続けることの難しさは、私も多少は知っているつもりだ。
墨田くんは、切れ長の目を見開いている。
「ごめんなさい、こんな、いきなり」
私は我に帰る。しかし墨田くんは、少しだけ目を伏せると、私が握っていない左手を、私の手の上に重ねて、
「…………ありがとう」
どちらからでもなく、重ねられた両手は自然に解けて、元のあるべき場所へと収まる。
「もう、帰ろうか」
下ろした鞄を肩にかけて、墨田くんが言った。
「うん、そうだね」
私もリュックを背負う。墨田くんは私よりも一足先に、図書室から出ていた。私も彼に続く。
(私、この人のことがやっぱり好きなんだ)
自覚するほどに、分からなくなる。私の取った行動は、正解だったのだろうか。やっぱり白月夜であることを明かさず、普通の同級生として振る舞った方が良かったのではないか。最後の当番の日を、こんな風に終わらせて良かったのだろうか。そんなことを考えているうちに、墨田くんの姿は見えなくなっていた。

 それから二日後の金曜日。学校から帰って自分の作品を更新しようと、小説投稿サイトにログインする。すると、墨田くん、もとい雨傘さんの小説が更新されていた。
 はやる気持ちで、最新話のページを開く。面白さも話のテンポも、前と何ら変わりない。そして近況報告のページに移る。そこには、
【更新が滞っていてすみません。学校が忙しく、なかなか書く時間を取れませんでした。来年は受験生なので、これくらいの更新ペースになってしまうと思いますがよろしくお願いします】
私は感想をコメント欄に書き込んだ。作品のファンとして、同じサイトの利用者としてだ。こうすれば、また私たちは「雨傘さん」の「白月夜」に戻れるかもしれない。いや、戻りたいのだ。
 寝る前にスマートフォンを見ると、メッセージアプリに着信が来ていた。名前を見ると、「墨田真紘」と書いてある。飛び上がって、それから恐る恐るアプリを開いた。画面にはこんな文面が表示されていた。
【この間は、先にいなくなってしまってすまなかった。嬉しかった。ありがとう】
淡白で、ある意味彼らしい文章。私はこう変身する。
【私こそ、いきなり色々言ってしまってごめんなさい。嬉しかったと言ってもらえて、私も嬉しいです】
テキスト上では表情が見えないので、無意識のうちに私は敬語を使っていた。
少し間をあけて、ぽん、と可愛い猫がお辞儀しているスタンプが表示される。
(墨田くん、こういうの使うんだ)
何だか新鮮だ。私もお返しに、手持ちのスタンプを一つ選んで送信する。
【夜遅くにごめん。おやすみ】
【おやすみなさい】
やりとりを終えて、私は短い会話のログを見返した。そっと、墨田くんのメッセージが収まった吹き出しに触れた。
(私、変なこと言ってないよね)
彼が今までで一番近くにいることが凄く幸せで、同時に、少し怖かった。

 土日の間、何度も考えた。墨田くんに自分の思いを伝えるのは、今しかないと。来年は同じクラスになれるか分からないし、何より受験生になってしまう。ようやく手にした、私と墨田くんを繋ぐ糸。私は、この糸から手を離したくない。
一度彼の心の中に踏み込んでしまった以上、関係をすっきりとさせておきたかった。別に振られても構わない。ただ、名前のない関係を続ける気にはなれなかった。

 月曜日、帰りのホームルームを終えた直後。大きく息を吸って、墨田くんの広い背中に向かって声をかける。
「墨田くん」
振り返った瞬間、彼の眼鏡のレンズが蛍光灯の光をひらめかせた。
「……何?」
「この後、時間、大丈夫かな」
自分の心臓の鼓動がうるさい。
「平気だけど」
彼の了承を得て、私たちは空き教室に入る。
「墨田くん、私」
夕日が逆光になって、墨田くんの顔がよく見えない。呼吸の仕方を忘れそうになって、大きく息を吸った。
「ずっと好きでした。一年生の頃から」
言ってしまった。それより先の言葉を、私は持ち合わせていなかった。好きだと思ってはいても、付き合いたいとは考えていたかったのだ。いや、それ以前に、まず告白するとすら思っていなかったのだから。
「うん。そんなような気はしてたよ」
墨田くんから帰ってきた言葉は、予想外のもので。
「…………え?」
バレてたなんて。動揺する私を前に、墨田くんは、「自惚れかもしれないけど」と前置きした上で、
「先週、図書室で話したときに、なんとなく」
私は思わず俯いてしまって、
「その、迷惑、だったり」
「しないよ」
墨田くんはさらりと言い放った。彼がいつも、数学の時間にそうしているみたいに。
「俺も、同じ気持ち……だと思う」
私は弾かれたように顔を上げる。墨田くんは、真剣な顔をして続けた。
「深山さんから貰った言葉が、一番嬉しかった。だからきっと、そういうことだと考えてる」
そういうこと。つまりは、両想いということで、良いんだろうか。
「付き合って、ください……」
自分の発した声は、あまりにも小さくて。もう一歩、踏み出して良いのかもしれない。もう一歩、踏み込んで許されるのかもしれない。
「私と、付き合ってください」
もう一度繰り返す。今度ははっきりとした声で。この勇気が、夕陽に溶けて消えてしまう前に、どうか。
 決して燃え上がるようなものではなかった。爆ぜて、すぐに燃え尽きてしまうものでもなかった。ずっと、私のの心を温め続けてくれるものだった。
「よろしくお願いします」
それは、初めて見る笑顔だった。墨田くんは、こんな風に笑うんだ。

 この熱は、まだ萌え出でたばかり。