見出し画像

「天保十二年のシェイクスピア」観劇感想

 こんにちは、雪乃です。今日は今年の観劇納めをして参りました。すでに日付が変わっていますが、今日(12月28日)ということにしておいてください。日比谷にいるうちから感想を書いているはずなのに、やっぱり今日もその日のうちに感想が書き終わらなかったので。

 劇場は日生劇場、演目は「天保十二年のシェイクスピア」。人生初の井上ひさし大先生の作品でございます。

 強烈な生と死のコントラスト、生々しく乱れ飛ぶ際どい描写の数々、そして天保水滸伝を縦糸に、シェイクスピア作品を横糸に織り上げられた戯曲から放たれる、恐ろしいまでの言葉の洪水。熱狂とカオスに包まれ、フィナーレの客席降りの幸せに満たされながら今年の観劇も無事に納まりました。

 登場人物の数が多く上手くまとめるのも難儀なためストーリーをラストまでものすご〜〜〜くざっくり要約しますと、

 舞台は江戸時代、天保年間。二組の侠客が覇権を争う清滝村に現れた無宿人・佐渡の三世次が謀略の限りを尽くして成り上がり遂には代官にまで上り詰めるも、最後は代官として搾取した百姓の恨みを買って殺される。

物語の縦軸だけ抜き出すとこんな感じの……はず!

 さすがにざっくりしすぎな気もしますのでもう少し詳細に書きますと、まず最初に清滝村を取り仕切る侠客の十兵衛が引退に際して3人の娘のいずれかに跡目を譲ろうとする……という場面から始まります。
 上手く父に取り入った長女のお文と次女のお里に対し、十兵衛の三女で、実子でこそないものの父を心から愛する三女お光だけはおべっかを言うことができず、実家を追い出され旅に出ることに。結局清滝村を二分して相続することになったお文とお里は野心に欠けるそれぞれの夫に愛想をつかし、邪魔者を殺して愛人と共に清滝村を手に入れようと目論む。そんな中で佐渡の三世次が清滝村に現れてお里に取り入り謀略を巡らせ、一方お文の息子の王次は権力争いの最中に命を落とした父の無念を晴らそうと清滝村に戻ってくる。そんな王次は帰郷したお光と恋に落ちるも、このお光の双子の姉妹であるおさちが清滝村の代官の妻だったことが更なる悲劇を呼んでいき……とここまで勢いに任せてあらすじをとりあえず書いてきましたが、とにかく人が!多い!エピソードが!多い!

 フライヤーであらすじを読んだ時はあまりの登場人物の多さに「これは……誰が誰の何?」と困惑したのですが、実際に見るとちゃんと頭に入ってくるので驚きました。
 それぞれのエピソードに役者が命を吹き込むことによってそれぞれの人間の生き様や死に様としての輪郭を得て1幕で狂乱をなし、そしてあらゆる人間の人生が2幕で「無宿人・三世次の成り上がり譚」という一本の縦軸に取り込まれていく。この過程を飛ばしすぎず書き込みすぎず、絶妙な塩梅で走り抜けていく脚本と演出は圧巻。年の瀬に凄いモノを見ました。
 妹のお光と夫の代官を三世次に殺されたおさちは復讐のため、三世次に鏡を見せます。三世次が己の顔を目の当たりにした瞬間、今まで三世次が成り上がるために死に追いやった人間が舞台上に現れる。鏡を叩き割った三世次が百姓たちに刺された挙句に飛び降りて凄惨な死を遂げるシーンを経て、登場人物が皆揃って死者となって再登場するエピローグへと雪崩れ込んでいく。
 権力争いの中で命を落とした清滝村の侠客たち。妹と夫の仇を討ち、自らも死を選ぶおさち。さらにはすれ違いから死を選んでしまう浮舟太夫と佐吉の悲恋。愛する王次に突き放され、狂気に陥った果てに命を落とすオフィーリア……じゃなかった、王次の許嫁のお冬。改めて書き出してみると、とにかくめちゃくちゃ人は死ぬし、誰も報われないし、誰も幸せになってない。でもなんでか最後の「もしもシェイクスピアがいなかったら」のリプライズを聞くと幸せな気分になる。これ本当に何なんですか??自分でも書いててわからなくなってくるな???

 この作品は、木場勝己さん演じる隊長による前口上から始まります。前回の上演時に東京公演の一部と大阪公演すべてが中止になったことを隊長役の木場さんが語り、その上で「帰って参りました日生劇場!」という口上で拍手が起き、口上が終わるとともに「天保十二年のシェイクスピア」というお芝居が幕を開ける。オープニングナンバーである「もしもシェイクスピアがいなかったら」はこんなふうに締めくくられ、物語の本筋へとバトンを渡します。

もしも──
シェイクスピアがいなかったら
これから始まるはずの
このお芝居もここでおしまいさ

 はっきりと役者の口から、今から始まる物語はお芝居であることが告げられる。「今から起こるすべてのことは虚構である」という強力なコンセンサスが観客に提示させることによって、舞台上で起こるあらゆる悪事も人道にもとるような行いも、すべて「虚構」という巨大な舞台装置に組み込まれる。だから観客は安心して舞台を見ることができるし、舞台上で起こる悪事や惨劇、骨肉の争いが暴き出す人間の愚かしさすらや残虐性すらどこか滑稽に見え、最終的には人間の生々しい営みすべてがエンターテイメントとして昇華される。物語が虚構であると、観客の合意を、観客の眼前で取ることのできる媒体が演劇であり、演劇であることを最大限に生かしきった舞台でした。そして話を戻しますが、虚構であるという合意を作り手と我々受け手が冒頭であらかじめしているからこそ、悲劇が悲劇を呼び、凄惨な死が待ち受けるような幕切れであっても明るいフィナーレに持ち込めるのだなと思っています。
 

 プログラムには「上演に際して、今日では不適切な表現がありますが、作品の時代背景や芸術性を考慮し、そのままの形で上演させて頂きます。」という、演劇に限らず昔の漫画等でもよく見る断り書きが書いてあります。終演後にプログラムのこの記述を読んだとき、この台本から適切な表現を探す方が難しいだろと思わずツッコみたくなりました。
 しかし「天保十二年のシェイクスピア」は適切か不適切かなんていう現実世界のジャッジは一切シャットアウトし、あらゆる惨劇を劇場という名の虚構の箱に閉じ込めて、血飛沫の中から唯一無二の祝祭を立ち上げる。今まで観た中で最も演劇らしい演劇であり、かつ演劇でしかできない作品でした。

 とかなんとか書きましたが、結局のところフィナーレの客席降りで「大貫さんが自分のすぐ横を走り抜けていった」とか「浦井さんが過去イチで自分の席の近くに来てくれた」とか役者ファンとしての自我に脳を上書きされたフシはあるので、自分は観客としてはめちゃくちゃチョロいな〜と思いました。
 いやそれはそれとしてやっぱり客席降り最高!!!単純だけれども!
 日生劇場はグランドサークル席が好きなのでチケットを取るときにかなり迷いましたが、この作品に関しては1階席後方通路側で正解でした!!!あの日職場で昼休みに入った瞬間にeプラスにアクセスした過去の私ありがとう!!!!

 本作は台詞の量がとにかく膨大。それは隊長が逐一解説を入れてくれるからでもあり、登場人物たちが心の声やら謀略の手の内やら、胸に秘めておくものをすべて観客にだけは洗いざらい話してくれるからでもあります。
 ミュージカルでは心の声を歌という形で言葉にするということが多々ありますが、「天保十二年のシェイクスピア」は音楽劇でありがながら膨大な台詞で物語を駆動させていく。心のうちを惜しげもなく明らかにしてしまう言葉の力と生々しい生と性の描写が絡み合い、人間の本質──そんな綺麗な言葉ではなく、「人間なんてこんなもん」という、日常で誰もが被る仮面を引き剥がし、心の解剖図をグロテスクなまでに、容赦無く見せつけてくる。それがなんとも爽快で、愚かしくて、どこか愛おしい。人間讃歌や人生讃歌的な作品ではないと思いましたし、もっと猥雑で混沌とした作品だと感じています。しかし、そんな作品の中からこそ抉り出された人間の本質は、内臓に直に手を突っ込んだような気持ち悪さを、心臓の鼓動を、生きた人間の体温を確かに感じさせてくる。唯一無二の演劇体験だと思いました。

 一番印象的なシーンは、おさちが三世次に鏡を見せた瞬間、三世次が死に追いやった人間が舞台上に現れるシーン。真っ赤な照明と、ハードなサウンドでアレンジされたおさちのソロナンバー「わたしの胸」が生バンドで鳴り響く中、三世次が鏡の中に見た己の姿が犯してきた罪そのものであると三世次に突きつけるシーンです。ここのシーンで三世次が鏡を見た瞬間、三世次の視界も思考も、すべてが自分の中に流れ込んでくるような、三世次を完全に「理解って」しまった感覚を味わったことは忘れられません。

 東宝版の演出を手掛けているのは「東京ローズ」や「ラグタイム」などを演出した藤田俊太郎先生。昨年観た「東京ローズ」はシアトリカルな骨組みに人間の血肉を纏わせていくような演出が印象的でしたが、「天保十二年のシェイクスピア」はより演劇的に、かつより生々しく踏み込んだ印象を受けました。演劇でしかできないことをしつつ、そのうえで、切りつけたら血飛沫が上がるような、呼吸し、モノを喰らう、極めて本能に素直な生き物としての演劇を作り上げている。非常に好みの演出でした。

 作曲は宮川彬良先生。時に遊び心に満ち、時に際どい言葉の数々をキャッチーで覚えやすいメロディーに乗せて綴り、膨大な台詞と共に物語を前に進ませる駆動力のひとつとなっていました。

 さて、さらっとですがキャスト別感想を書きたいと思います。

 佐渡の三世次・浦井さん!生でお芝居を拝見するのは昨年の「アルジャーノンに花束を」以来です。今回はまごうことなき純粋な悪役。人間よりも獣に、生命の持つ生存本能そのものがたまたま人の形をとってぬるりと舞台上に現れたような異質な存在感を放っていました。その一方で、お里の夫の幕兵衛が病にふせっているシーンでずっと幕兵衛をうちわであおいでいるのですが、その姿がなんともいじらしいというか、どこか可愛げや人間味があって。三世次が成り上がるための一歩目としてお里に取り入ることができたのは、こういう一面があったからなのかな、と思いました。
 「アルジャーノン〜」のチャーリィ・ゴードン役を拝見したときも思いましたが、浦井さんのお芝居はチャーリィも三世次も、その人物固有の思考のロジックを観客にわかりやすく見せてくれるところが好きです。そして三世次の膨大な台詞はただただ聞き入ってしまいましたし、ミュージカル俳優としての長いキャリアに裏打ちされた歌唱力を本作でも遺憾なく発揮。本作は音楽劇なので英語圏のミュージカルとも国産ミュージカルとも異なる文法で作られているのですが、台詞と歌の狭間を縫うような独特の、ミュージカル的ではない歌い方も印象的で。ただただ浦井さんの芝居に浸り、痺れ、斬られ、翻弄され、そして客席降りの笑顔で見事に心を撃ち抜かれた約3時間、ひたすらに幸せでした。

 きじるしの王次・大貫さん。舞台で拝見するのは「フィスト・オブ・ノーススター」の再演以来です。舞台映えする長身から繰り出される日本刀の殺陣の迫力と美しさに圧倒されました。
 そして「浮気もの、汝の名は女」では、「問題ソング」は、洋舞の持つ躍動感とと日舞の芯の強さ、バレエの所作と日舞の腰を入れた姿勢が混在する振り付け。この2曲を大貫さんで拝見できただけでチケットを取った甲斐があったな、と思いました。
 王次は18歳という設定ですが、若者ゆえの直情的な幼さや若親分と呼ばれるに足る説得力が混在していたのが印象的でした。

 お光とおさちの2役を務めたのは唯月ふうかさん。拝見するのはレミゼのエポニーヌ以来です。純粋無垢なお光は旅に出て3年後、侠客としての堂々たる風格を身につけて帰郷します。姉のお文に啖呵を切るシーンの凛々しさは王次が惚れてしまうのも納得のカッコ良さ。そしてお光もお光で王次に惚れてしまい、すっかり「2人だけの世界」に浸り切るところがなんとも人間らしくて良かったです。
 一方おさちはお光の双子の姉妹。代官に嫁ぎ彼を一途に愛しますが、その代官を三世次に無惨に殺されてしまいます。妹のお光も三世次に殺されたことを悟ったおさちは三世次へ復讐を決意、代官にまで上り詰めた三世次の妻となって彼に近づき、鏡を見せて己の姿を自覚させることで復讐を遂げ、最後は狂乱に陥った三世次が叩き割った鏡の破片で自らの喉を切る。おさちの立ち振る舞や声、所作のひとつひとつが透明感に溢れ、一点の曇りもなかったからこそ、おさちの決断にとても説得力がありました。

 他にも色々と書こうとしていたことがあった気がするのですが、まとまらないので今日は一旦ここで切り上げようと思います。

 2024年の観劇もこれで最後。今年も様々な作品に出会えて楽しい1年でした。また振り返りの記事を改めて書こうと思います。

 来年の観劇始めはミュージカル「SIX」の来日版!日本物から一転、イギリス発のライブ形式のミュージカルで幕を開けます。他にもチケットを取った作品が色々とあるので来年も楽しみです。

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集