ミュージカル「辺獄に花立つ」観劇感想②

 こんにちは、雪乃です。今日はモノムジカのミュージカル「辺獄に花立つ」の感想の続きを書きます。

 初日の感想はネタバレを避けて書いていましたが、無事千秋楽を迎えたということなので、ネタバレありの感想を書いていきます。

 今回はキャラクター別感想を書きます。ネタバレを含みますのでご注意ください。

斉藤潮/立花潮
 夫を戦争で亡くし、紡績工場で働きながら姑のタツと2人で暮らしている女性・斉藤潮。元辰巳芸者の姉と2人で暮らし、友人の榎本から詩の才能を見出される男性・立花潮。2つの世界に生きる「潮」が軸となって進んでいく「辺獄に花立つ」。
 女性と男性、2人の潮はいずれも、文字が血液となって全身に流れているような人。斉藤潮としても立花潮としても、「普通に」生きられなかった2人で1人の詩人。そんな潮の姿は、乖離と融合を繰り返す肉体と魂の、その2つの存在を色濃く感じました。
 まるで自分の体を小さく保つかのように、いつも背を丸めているように見えた斉藤潮に対し、立花潮は長い手足を心のままにのばして天衣無縫に世界を駆ける。2人の潮の身体の違いというか、骨格すら変わったように見えたのが記憶に残っています。

斉藤タツ
 斉藤潮の亡き夫の母である女性。家事が不得手な潮に対し、女が家を守ることの大切さを説くタツ。彼女の持つ価値観は確かに前時代的であり現代においては廃れつつあるものですが、しかしタツの価値観を「古いもの」と否定するのではなく、描かれたのは根底にある彼女なりの強さでした。戦争で家族を奪われながらも、それでも生き抜いてきた強い彼女の意地と矜持、タツの持つ誇りがはっきりと感じられました。
 自分の人生に矜持を持って生きてきたタツは物語終盤で、自分の意志でキリスト教徒になることを決めますが、その選択に至るまでの過程が丁寧に描かれていたので説得力がありました。
 構造としての女性差別の中で生きるしかなく、また自身もそういった社会構造を再生産するしかなかった女性たちが、今よりも多かった時代、それが「辺獄に花立つ」の舞台です。タツは当時生きていた女性たちの象徴であると同時に、彼女の人生を生きる、1人の独立した人間です。そこには正しさと意地と矜持がある。タツを見ていると、「愛という名の支配」に書かれていた「その時代をしか生きられなかった母へのいとおしさ」という言葉の意味が、初めて理解できたような気がしました。
 

白舟雪路
 女性の手による雑誌「青嵐」の編集長。新雪を踏みしめて、これからの女性が生きていくための道を切り開く女性。その中に覗く人間味や脆さや譲れない部分、そういったものに溢れた、とても魅力的な女性でした。
 白い着物に黒のショールという着こなしも素敵でしたが、レビューシーンのドレス姿やモダンなワンピース姿など、どれも本当に素敵で……。
 実は初日は最前列にいたのですが、そのとき、雪路の流した涙まではっきり見えたんですね。目から零れ落ちた涙が舞台の照明に当たった瞬間、雪路の目から宝石がこぼれたみたいで印象に残っています。2幕のソロナンバー「雪の路」の、純真さと痛ましさ、それでもなお自分の道を往く強さが詰まった歌声も圧巻でした。

折川千枝子
 雪路と共に「青嵐」を作っている女性です。硬軟自在に行動を選択できるしなやかな強さを持つ一方で、潮の詩集を本人の了解を得ず出版する、そういった一面が確かに同居しているのが千枝子の魅力だと思います。
 最後は活動家にしてパートナーの高良と共に壮絶な死を遂げる千枝子。彼女の死は貴彦のナレーションによって語られるため詳細な描写はないのですが、しかし千枝子の生と死があの瞬間、確かに見えました。

相良美鶴
 斉藤潮と同じ紡績工場で働く女性。熊本ことばを話す美鶴は、雪路たちと関わっていくうちに次第に共通語を話すようになっていき、またその言葉の変化が、彼女自身の変化を表現しています。
 話す言葉が変わっても変わらない美鶴の核。そういった部分がブレずに、あの時代で確かに息をしている。「相良美鶴」という人間への、そんな信頼があったからこそ、彼女の辿る道を見守ることが出来ました。そして共通語を話すようになった美鶴がまた熊本ことばを話す、あのシーンの眩しさが忘れられません。あと「紡績工場」の美鶴パートの力強い歌声がもう本当に良かった……!

榎本譲一郎
 立花潮の友人にして彼の才能を見出した編集者。潮の姉である祥子に密かに思いを寄せています。
 一番好きなのが第1幕の第13場です。苛烈で狂おしい、譲一郎と潮の剥き出しの魂がぶつかり合うシーン。言葉も魂も愛も、すべてがどろどろに溶けたあの空間の熱気を最前列で味わえたことは忘れられません。
 譲一郎は戦争から帰ってきたという設定があります。生死の狭間を経験した者として纏う空気感が唯一無二であり、ゆえに「生きている/生きた」譲一郎の輪郭が明確に見えました。
 あとシンプルに、ビジュアルと声が好きです。

立花祥子
 元辰巳芸者にして立花潮の姉。芸事の世界に身を置いていた人間としての立ち姿や話し方、そのすべてが素敵でした。
 潮の姉、そして親のような側面を持つ祥子。第2幕の第6場、兄妹2人の世界が閉じていくあの時間は泣けて泣けて仕方なかったです。
 祥子は日本舞踊を踊るシーンがあるのですが、それがもう、本当にすごいです。あのシーンだけでも無限にリピートしたいくらいです。
 これはただの自分語りなんですが、私は小学1年生から小学3年生の途中まで、2年半ほど日本舞踊を習っていました。本当に齧った程度なんですが、それでもやっぱり日本舞踊を見ると懐かしい。途中でやめてしまったけれど、やっぱり私は日本舞踊の持つ世界観が今でも好きなんだなあ、と実感できるシーンでした。

時任祐市
 役所に勤めながら創作活動をし、立花潮に羨望と嫉妬を向ける若き作家。立花潮には手に入らない「普通」や「真っ当」の象徴としての存在です。しかし一方で、書くことしかできない潮の人生こそ、時任が手に入れたくても手に入らないもの。潮にとっての現実の象徴でありつつも、その存在感は時任祐市という人間としてぞっとするほどにリアル。潮に対して抱く嫉妬や羨望、そういったものを見ていると、それらが自分の感情であるように思えてくる。いつしか「時任祐市」の目から潮を眺め、まなざしているような、そんな感覚を覚えました。

松月
 人の世と辺獄の間に揺蕩う存在。真っ赤な着物に黒のスカートにブーツという出で立ちが本当に素敵でした。帯や髪飾りも豪華で、その豪華さが、あくまで大正の市井に生きる人々を描く本作において、松月の人ではない異質さを際立たせていました。
 文語と口語、古語と現代語の間を揺蕩うような言葉選びの台詞たちを生かすお声や台詞回しが本当に好きです。
 最後まで作品を観ても完全には理解しきれない存在、松月。「辺獄に花立つ」の根底にあるテーマは「脳」だったのですが、松月は脳の持つ神秘性を象徴するような存在でした。

森貴彦
 貴彦さんのアクスタってないですか⁈(この感想、たぶん3回目)森貴彦を目撃できただけでもう感謝です。
 森貴彦は立花潮を研究する文学者です。時に2人の潮の世界に溶け込み、時に潮の世界から独立した存在として現れる貴彦。
 貴彦のシーンで最も印象的なのは、やはり「花を献げよう」。斉藤潮と立花潮、両方の人生を見届けた貴彦が歌うソロナンバーです。誠実でのびやかな歌声は潮の、2つで1つの人生に寄り添うようで、物語終盤ということもあり胸がいっぱいになりました。
 さて、ここで自分語りパート2になってしまうのですが、私は日本文学科出身です。なので、研究してきた詩人の人生を目撃できた貴彦がめっちゃ羨ましいです。私もどうにかして辺獄に迷い込んで、松月に奈良時代に連れて行ってもらいたい。
 貴彦は近代の詩人を研究しているのに対し、私は上代を専攻していました。卒論で扱っていたのは万葉集です。
 古典をやっていて思ったのが、作品が後世に残ることの難しさ。データなんてものがない時代、作品を伝えていく手段は「人間が意志を持って残す」しかなかった。それは上代も近代も同様です。そして頑張って残しても、燃えてしまえば消えてしまう。潮の作品が、関東大震災で消えてしまったように。
 作品が残っているということは、誰かがその作品を愛して、残そうとしたからです。だから、「辺獄に花立つ」の出版が潮の意思によるものではなかったとしても、その作品が残り、貴彦の手に渡ったということ、そして貴彦が潮の詩を後世に継承していくことに、私は貴さを見出さずにはいられないのです。

ミヨ
 潮の生まれなかった妹。斉藤潮と立花潮、どちらの世界にも存在する魂。ミヨは台詞がなくダンスのみで表現されるお役なのですが、すべての動きがとてつもなく綺麗でした。「天使って実在したんだ……」が第一印象です。ダンスが映えるお衣装の着こなしも素敵でした……!
 ミヨは潮のイマジナリーフレンドになり、時に猫になり、時に時代を象徴し、時に潮の詩的世界の化身となり、時に赤子のようにも見える。揺らぎながら存在する彼女もまた、2つの世界に揺蕩う存在。常にミヨが白くて綺麗な光を纏っているように見えたのは、きっと照明の力だけではなかったと思います。

 モノムジカの脚本のすごいところは、「このキャラのスピンオフが見たい」という願望が、本編を見ているうちに叶っていること。それほどすべての登場人物の人生が濃く描かれている脚本、そしてそれを体現するキャスト陣が最高でした。

 「辺獄に花立つ」。改めて素晴らしい作品でした。ありがとうございました!

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。