【小説】夏、一夜
毎年変わらない、何の変哲もない夏休みの縁日だった。そう思っていた。今日この日までは。
立ち並ぶ屋台はよく見慣れたものばかり。りんご飴にチョコバナナ、金魚掬いに射的。提灯の橙色の光で照らされた祭りの夜は客で賑わい、活気に満ちている。
私は焼きそばの屋台にふと目を留めた。せっかく来たのだから、ひとつ食べてみようか。そう思い、屋台の前に立ち、屋台の店主と目を合わせたその瞬間、私は息を飲んだ。
なんだ、これは。
私の目の前にいたのは、奇妙に歪んだ人型の黒い何か。一見すれば人間の影のような形をしたそれは、まるで過剰に空気を入れて今にも割れそうな風船のように、頭部だけが異常に大きい。焼きそばを作るその手はつるりとしていて、ときおり指先から、黒い油のような液体が滴り落ちて、鉄板の上でじゅうと音を立てる。
「お客さん?」
その声は、間違いなくこの黒い人型の何かから発せられている。口も見当たらないというのに、しかしこの何かは確実に喋っている。
あたりを見渡す。私のすぐ後ろにいたのは浴衣を着た女性のように見えて、しかし顔が、なかった。彼女?の顔は、ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。屋台の店主と同じように、目や口は見当たらない。
屋台の店主や、私のすぐ後ろに並んでいた客だけではない。私はいつの間にか、黒い「それら」に取り囲まれている。皆服を着て、縁日で買ったと思しきりんご飴やら金魚の入った袋を手に持ち、そして変わらず友人や家族と話している。まるで皆、最初からその姿であったかのように。
私はたまらずその場から走って逃げ出した。周りの人だったものにぶつかる。足がもつれる。手が震えている。しかしそれでも走り続け、やがて私は屋台の並びを抜けた。
そして逃げ出した先にあったのは、大きな鳥居。鳥居の向こうには神社の本殿が見えて、境内には誰もいないようだった。あの雑踏が朝のようにここは静かだ。私はようやく呼吸を整え、境内で一度休もうと鳥居をくぐる。
賽銭箱の前にあった石段に腰を下ろした。ここなら、あの奇妙な生き物もいない。ひと安心だ。
しかしやはり一人で帰るのは不安だ。いや、そもそも帰れるのか? 彼らに遭遇することなく?あの奇妙な実体は私に危害を加えてくることはなかったが、これからも絶対に安全だとは限らない。私はスマートフォンを取り出した。電波が繋がるのであれば、まだ希望はある。
ロックを解除する。しかし手が震えているのか、指は意図しないアイコンをタップしていた。それはカメラだった。
画面に映し出されていたものを見た瞬間、驚愕した。そこには、あの頭の大きな黒い何かが写っていたのだ。
ああ、こんなところにまで。そう思った。しかし違和感を覚える。この黒い実体が来ているこの服には、見覚えがあった。そして、それはすぐにわかった。これは私が着ているものだ。画面の上部に視線を動かすと、そこには、インカメラであることを示すマークが表示されている。つまり、今ここに写っているのは、紛れもなく——
「どうして、自分が」
スマートフォンを握りしめるその手が、ぬるつく感覚を覚える。指先から液体が滴り落ちる音がする。それは石段の上に落ち、どす黒いしみをつくる。これはどう見ても汗ではない。
私は、もう、すでに——