【小説】この道を行きましょう
結納も祝言もつつがなく終わり、わたくしは晴れて榊慎一郎様の妻となりました。子爵家の御子息で、帝大を出ていらして、とても素敵な方。わたくしがこんな素敵な方の妻となっていいのかしら、と思うけれど、慎一郎様にも、お屋敷の方にも良くしていただいて、毎日が幸せなのです。
でもなぜかしら、慎一郎様の影が、ときおり、違う形に見えるのです。夜遅く、寝室で明かりに照らされた慎一郎様の影は、人のそれではないのです。
わたくしが見た影は、人の形を大きくして、歪めたような、歪な形。背中に沿うように、棘のようなものが見えるのです。頭には、大きな角が伸びているように見えるのです。
わたくしはある日、榊の家のお屋敷で、ある書物を見つけました。そこに描かれていたのは、かつて山に住んでいたと伝わる巨大ないきもの。背中に幾つもの鋭い棘を生やして、頭からも角を生やしたいきもの。身の丈は七尺と伝わり、屈むようにして歩き、ずるずると這うような音を立てて移動するのだそうです。
その書物には、続きがありました。家系図があったのです。文字が潰れて読めない、おそらく名前と思しきものから連綿と続いたそれの末端に、わたくしは確かに見たのです。「慎一郎」の三文字を。
信じられませんでした。これは、きっと夢だと思いました。そんなはずがないのです。
しかしある夜、わたくしが眠っていると、何か物音がして目を覚ましました。ずるずると、何かが移動するような音です。
その音は、少しずつわたくしに近づきました。そして、障子が開く音がしました。差し込む満月の光がひどく明るい夜でした。わたくしに巨大な影が迫っていることは、すぐにわかりました。
ずるずる、ずるずる。べたべたとまとわりつくような音が、わたくしのすぐそばでしています。わたくしは、ぎゅうと目を閉じました。
「見つけた」
わたくしは、目を開きました。わたくしの顔の正面には、口を引き裂かれた狼のような顔がありました。顔の周りは獅子のような鬣に覆われ、赤い瞳がぎらぎらと光っていました。白い牙だけが、ひどく浮いているようでした。
ようやく見つけました。どれほど、待ったことでしょう。わたくしが追い求めた方。
「慎一郎様……」
わたくしは彼の頭に手を添えました。
「知っていたか」
彼が、そう言いました。
「ええ」
わたくしは身体を起こして、本来の姿になりました。この姿は身の丈が九尺もありますから、この部屋だと少し狭いのです。彼と同じように、背には棘を生やした姿。掴むもの全てを切り裂いてしまいそうな鋭い爪が、月明かりを受けて白く煌めきました。
わたくしたちの一族はずっとずっと昔、ある山に暮らしていました。同胞たちと一緒に、それは幸せな日々だったと伝わっています。もう、千年も前のことです。
しかし人間が山に立ち入るようになり、わたくしたちの先祖が住んでいた里も見つかってしまいました。人間は山に住む一族を恐れ、攻撃しました。争いが始まったのです。
わたくしたちの先祖が、負けるはずがありませんでした。しかし、あまりにも、争いは長過ぎました。疲れたのです。何より、同胞の傷つく姿を、これ以上見たくはない。これが、わたくしたちの先祖の意思でした。
一族は、山を人間に譲りました。そして各地に散らばり、人の姿を借りて暮らし始めたのです。
そうして先祖たちは、人間の社会に溶け込みました。ある者は人として財を成すこともありました。しかし溶け込み過ぎるあまりに、同胞の縁や繋がりは希薄になっていきました。ゆえに、同胞がもはやどこにいるのかすら、わからなくなりつつあったのです。
慎一郎様とは初めて会った時から、強く惹かれるものがありました。きっとそれこそ、同胞の証だったのです。きっと、慎一郎様も同じだったはず。だからわたくしたちは結婚しました。
わたくしには、夢があります。いつかわたくしの先祖が住んでいたあの山を買い戻して、もう一度、同胞とともに、本来の姿で暮らすのです。そのために、わたくしの父様や母様は、人間の世界で地位や財産を手に入れたのですから。
わたくしよりも少し小さな身体が、わたくしを抱きしめました。わたくしも慎一郎様を包むように、抱きしめ返しました。
これから先、どこまでも、共に歩んでいきましょう。