【小説】幸せな星

「あなたは幸せです」
こんなことを言ってくる人間を、僕は間違いなく追い返してしまうだろう。世界が終わってさえいなければ。
「どうしてそんなことを言うのですか」
そう聞き返す。幸せだと言ってきたのは、僕よりも年上に見える女性だった。銀色の髪を高い位置で一つに結えている。目は翠色をしていて、目尻のあたりに青く線が引かれていた。
「あなたは幸せです」
同じ言葉を繰り返す。久しぶりに生きた人間に会ったから期待したのに、彼女はまるで壊れた機械のようだ。
「幸せになりにいきましょう」
やっと違う言葉を発したと思ったら、今度は何だ? しかし彼女は僕の意思など意に介さず、僕の腕を引っ張って、外に連れ出そうとする。
 まぁ、どうせこの地下シェルターもそう長く保つわけじゃない。外に出たって同じことだろう。僕は観念して、そしてごく僅かな好奇心も携えて、彼女についていくことにした。

 星の光が何万倍も大きくなって降り注いだあの日。僕たちの世界は終わってしまった。僕は家のシェルターに逃げた。何とか生き延びることはできたけれど、地上に取り付けたカメラから送られる映像は、いつも薄暗くて、人っ子一人いやしなかった。仲間と通信を試みたが、繋がる人は誰もいない。

 シェルターの出入り口となる、重い扉を開ける。空を見て、僕は息を飲んだ。どうして。
「こんな、星空が」
文明の発達に伴い、吐き出された煙のせいで次第に星々が見えなくなった空。しかし今は、まるで地球の歴史が一度リセットされたかのように満点の星で埋め尽くされている。

 街だった場所に出るけれど、建物はすっかり消えていた。最初からそこになかったみたいだ。ただ平かな地面が広がる。それはコンクリートでも土でも草原でも金属でもなかった。赤茶けた渦巻模様が、形を変えながら地面が流動している。昔、教科書で見た。木星の表面に似ていた。

 彼女は僕の手を引いて、歩き続けた。景色は依然として変わらない。廃墟だらけかと思ったが、そもそも基礎を含め建物の痕跡自体が存在しないのだ。
 そして地面はいつしか、青白い光を放っていた。踏み締めているのにそんな気がしない。地面の感覚すらない。それでも確かに僕は歩いている。
「もうすぐですよ」
彼女の言葉にはっとする。彼女は腕を上げた。指差すその先にあったのは、一つの大きな球体。
「あなたは幸せです」
また、断定だった。彼女は何を言っているのだろう?
 そのときだった。目の前が白い光に包まれる。気がつくと、僕は白い部屋の中にいた。部屋と言っても、中央に丸いテーブルが置かれているだけで、空間と言った方が良いだろう。
 女性は僕の目の前に立った。一つお話をさせてくださいと言って、僕が頷くと、
「あの日のこと、覚えていますか」 
「あの日……」
「星が降ったあの日」
ああ、と合点がいく。つまりは、僕たちの世界が終わってしまった日。

 僕たちの住んでいた世界は、僕が生まれるよりも前から不穏な空気が漂っていた。しかし、ある未知の物質が宇宙からもたらされたことで、歴史が大きく動いた。アステリスと名付けられた、莫大なエネルギーをもたらすそれは、人類の発展に使われるはずだった。使われなければならなかった。だがそうはならなかった。真っ先に、兵器利用の研究が始まったのだから。

 各国は我先にと宇宙に自国のエリートを送り込み、アステリス獲得に向けて国力を傾けた。そしてとうとう、僕が社会人になった頃、一部の地域で起きた紛争を皮切りに、世界中で争いが起き始めた。戦火はみるみるうちに広がり、世界大戦と呼ばれる規模にまで発展した。

 僕らの運命を決定づけたあの日。ある国が、まだ試験段階だったアステリスの兵器を使用した。その結果が、今だ。世界中が破滅をもたらす光に包まれた。僕はあらかじめ地下シェルターにいたので助かった。アステリスが使われるという情報もなかったが、何故かそうした方が良いと思ったのだ。

 僕が世界にまつわる逡巡を終えたのを見計らったように、彼女は切り出した。
「順番にお話ししましょう。まず、私たちが何であるか」
僕は唾を飲み込んだ。私「たち」ということは、彼女の他にもまだ人はいるのだろうか。
「私たちは、あなたたちを作りました」
「作った?」
創造主、という単語が頭を過ぎる。
「この星の資源を採取するためには、私たちによく似た生命体が必要でした」
さらに話は続く。
「しかし私たちの予想と反する結果が出ました。あなたたちは同族で争いを始めたのです」
説明を完璧にプログラムされたロボットのように、彼女は話を続ける。
「私たちの計画は失敗しました。しかし原因はあなたたちを生み出した私たちにあります。だから私たちは処理を始めました」
そこまで聞いて、ある仮説が脳内にひらめいた。
「まさか」
僕の頭に靄がかかったようになる。しかし思考は止まることなく、不思議と冷静さは保っていた。
「アステリスは、あなたたちが」
彼女の話をそのまま受け止めれば、人類は彼女たちによって作られたことになる。しかし当初の目論見とは違う結果が起きたので、彼女たちは——
「人間を、処分するために」
わざと人類社会に持ち出したのだろうか。いや、そうでなくてはおかしい。最低限のコストで最大量のエネルギーが取り出される上に有害な廃棄物は一切出ない、人類にあまりにも都合の良い物質。そんなものが何の前触れもなく見つかること自体が異常なのだ。しかし、なぜ彼女たちは直接手を下さなかったのだろう。彼女のあまりにも躊躇のない口振りを見る限り、いきなり人類を滅ぼしても不思議ではないように思われる。僕は思い切って質問した。なぜそんな回りくどい手を使ったのか。
「まだ期待はありました」
彼女はこう答える。
「処理してしまう前に、試したのです。あなたたちがアステリスと呼んだエネルギー体を、どう使うか」
今まで表情の変わらなかった彼女は、形の良い眉を少しだけ歪めて、
「失敗でした。より争いが大きくなるだけでした」
すでに完結した小説のあらすじを語るみたいに、彼女は言った。
「ですが、一部は残しておくことにしました」
彼女は手を伸ばして、僕の頬に触れた。
「私たちの声を聞くことのできるごく一部の生命体を」
刹那、僕の頭の中に音が響く。初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい音。楽器とも人の声とも電子音ともつかなかった。
「あなたは私たちの声を聞くことができました。だから、ここに連れてきました」
僕はあの日が来る前、地下シェルターに入った。そうしたいような、否、そうしなくてはならない気がしたのだ。それも、彼女らの意思だったのだろうか。
「僕は、これからどうなるのですか」
彼女が手を頬から離すと、僕の頭の中で鳴っていた音も止まる。
「私たちの星に行くのです。あなたは幸せです」
「なぜ僕が幸せなのですか」
「あなたが私たちの星に行く生命体だからです」
腑に落ちた。なぜ彼女が僕に向かって頻りに「あなたは幸せです」と言っていたのか。人間を作り出した創造主たる彼らは、お気に入りの個体を選別し、連れて帰ろうとしている。そして、選ばれた個体にとっての幸せとは自分たちの元にいることだと考えているのだ。
「あなたたちの星に行ったら、僕はどうなりますか」
「生き続けます。永遠ではありませんが、標準的なあなたたちホモ・サピエンスの寿命よりもはるかに長く生きることができます。家も食べ物も用意します。生命の維持に必要なものはすべてあります」
そのまま「あなたは幸せです」と言いそうだったので、僕は彼女の言葉を遮って、
「あなたたちの星に僕が行くことが、なぜ僕の幸せになると思うのですか」
陶器の人形のように、少しも動かなかった彼女の顔は、驚いたような形に変わった。
「幸せではないのですか」
心の底から疑問だと言うふうに、彼女が僕に尋ねる。
「なぜ僕の幸せを、あなたが決めるのですか」
僕は言い放つ。だが、次の瞬間、僕は地面に倒れていた。体に力が入らない。
「あなたは幸せです」
僕が幸せであることは、決めつけではなく、彼女の中では自然の摂理なのだろう。そして、僕がそう思わないのが不思議で仕方がないのだろう。
「僕にとっての、幸せは」
手に、足に、必死で動けと言い聞かせる。すると力が湧いてくる。僕は震えを抑えながら立ち上がった。
「この星で生きていくことだ」
もしかしたら、まだこの身勝手な創造主たちに回収されていない人間がいるかもしれない。
「僕はこの世界の行く末を見届けます」
震えもなくなって、僕は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「なぜですか」
彼女が問うたので、
「最後まであなたたちの思い通りになることが、癪に触っただけです」
僕たち人間は、きっと最初から創造主たちの期待を裏切っているのだ。ならは最後まで裏切り続けてしまえば良い。
 失神でもさせられて、無理やり連れて行かれてしまうならば、仕方ないと思える。だが、自分の意思を示すのと示さないのとでは大きな違いがある。僕は最後まで、人間でありたい。
「わかりました」
思いの外あっさりと、彼女は納得した。
「それがあなたの選択したことですね」
僕は首を縦に振る。
「気が変わったら、私たちに呼びかけてください。あなたを手放すのは惜しいけれど」
彼女の譲歩も予想外だったが、それ以上に、「惜しい」と感情的な発言をしたのに驚く。
 僕の選んだ道すらも、きっと彼女たちの実験の一環なのだろう。しかし、虚しくはなかった。これで良い。僕の命が果てるまで、この星を見つめていよう。
 彼女が僕の額に手をかざす。気がついたら、そこはあの赤茶けた渦巻に覆われた地表だった。返してくれたのだろう。
 星空が、僕を見下ろしていた。