「フィスト・オブ・ノーススター」観劇感想2022②
こんにちは、雪乃です。今日はミュージカル「フィスト・オブ・ノーススター 北斗の拳」の感想を引き続き書いていこうと思います。前回の感想はこちら↓から。
9月28日の昼公演の配信のアーカイブを見たので今日は最初にそちらの感想を。
舞台の配信、見たいなあと思ってもなかなか見られなかったのですが、アタタミュで配信デビューしました。初めてでしたが環境的にも何ら問題なく快適。アーカイブだと自分の好きな時間に見始められるのもありがたいです。
配信にあって生観劇にないものといえば、それは表情をじっくり見られることでしょうか。映像ゆえにカメラワークも演出のひとつとして生観劇とはまた違う角度で楽しむことができて大満足。視線や感情をうまく誘導してくれているというか、導線が明確になりました。配信チケットも買っておいて正解でした。
さて、というわけでまずは表情の話から。
まずは冒頭のシーン。オープニングでユリアがケンシロウのもとに駆け寄るところ。このシーンでケンシロウを見上げるユリアの表情が、本当に、恋をしている人間そのもので。深い愛を感じると同時に、瑞々しく可憐な恋心も感じられる。このシーンでユリアがどんな表情をしているかはあまり細かく見られていなかったので、新鮮な驚きと感動がありました。
次に、これもまたユリアの話なのですが、印象に残ったのが幼少期のユリア。
幼少期のユリアとケンシロウ、ラオウ、トキが出会うシーン。母の胎内に一切の感情を置き忘れたとすら言われるほど表情に乏しかったユリアが、北斗の寺院を訪れたことで感情を取り戻すシーンです。
ユリアがラオウに恐怖を覚えて落とした鞠を拾い上げるケンシロウ。ケンシロウから鞠を受け取るユリア。ユリアがケンシロウと目が合ったその瞬間、まるで朝が来たように、ぱっと顔に光がさしたことがわかりました。この2人の出会いは宿命であると同時に、間違いなく初恋でもあったのだろうと明確にわかる表情の変化。これが本当に感動しきりで、このシーンを見るために配信チケットを買ったんじゃないかと思ったほど。
そしてもうひとつ忘れられない表情が。それはケンシロウです。
ラオウとの最後の戦いで、ラオウが「見事だ弟よ!!」と言うあのシーン。このシーンで、ケンシロウの表情が、幼い少年のように見えた気がしたんです。一瞬だけ、顔がどこか柔らかくなって。微細な表情の変化を連続する複数枚の絵ではなく人間の顔で表現できるところはやはり、生身の人間が演じる強み。一瞬だけ少年に戻ったケンシロウの表情が、彼が目指した北斗の長兄ラオウの存在感をより高めていました。
続いて、配信といえばカメラワークの話をしないわけにはいきません。これは映像だからこそ楽しめる要素。
「死兆星の下で」では、シンの居城にいるユリアと、ユリアを探し続けるケンシロウの表情が並んでよく見えるようなカメラワーク。舞台で見ると「死兆星の下で」でのケンシロウとユリアはそれぞれ舞台の両端にいるので距離を感じるのですが、配信ではむしろ2人をぐっと寄せて見せてくれるカメラワーク。またそれゆえに、ユリアとの再会を願うケンシロウの表情がよく見えて、「死兆星の下で」が一層切ないナンバーになっていました。
カメラワークで触れておきたいのが、「この命が砕けようと」のシーン。ラオウを密かに愛し続けたトウ。ケンシロウを想うユリア。2人が「自分の命が砕けてもあなたを守りたい」と決意するナンバー。
このナンバーでは、トウのパートではトウとラオウだけが画面に映り、ユリアのパートではユリアとケンシロウだけが画面に映るようになっていました。
舞台を俯瞰で見るとどうしても横の並びを見てしまうのですが、配信では縦の並びを意識したカメラワークに。そのおかげでしょうか、配信で見た時はトウもユリアも、より愛を背負っているように見えました。
次に、配信でのみ拝見したキャスト陣に関して感想をさらっとですが書いておきます。
私は昼公演を購入したので、ラオウは永井ラオウでした。
永井ラオウは、少年漫画感の強いラオウ。ただ最強であろうとした少年がそのまま成長したようなところもあり、しかし長じるにつれて身につけた冷酷さが際立つラオウでした。ケンシロウの前に立ちはだかる圧倒的な壁であると同時に、弟たちの憧れでもあったラオウ。非常に重層的なイメージを持ったラオウでした。
そしてシン。昼公演のシンは植原シンです。どこか貴公子然としたビジュアルゆえに鮮烈に映える、シンの苛烈な悲しみ。野心に満ち溢れながらも脆さを秘めた上田シンも好きですが、冷徹な支配者の顔から拳士としての本能が垣間見える植原シンもやはり好きです。
配信の感想はこのあたりで一旦締めるとして、全体的なことを書いていこうかなと思います。
再演でもやはり好きだったのが、世界そのものを作り出す照明。「心の翼」のリプライズでは、舞台に空が見えるんですよ。分厚い雲に覆われた核戦争後の世界に差し始めた日の光。バットとリンが中心となって導いていく未来を予感させるような明るい光は目が眩むほどに美しいし、再演でもやっぱり泣きました。
照明といえば、1幕ラストは照明も圧巻。ケンシロウのソロダンスは、照明と人間の肉体が重なることでよりケンシロウの覚醒を深く描き出しています。舞台セットもない、ただシンプルな舞台とそれを照らす照明。ケンシロウの肉体と魂以外はすべてを削ぎ落とした圧巻の1幕ラスト。ブラッシュアップされた振り付けを照らす照明が最高でした。
この1幕ラストは、ケンシロウの深い苦悩を描くシーンでもあります。ケンシロウが苦しむのは、誰かへの愛があるゆえ。愛ゆえに苦しむ、愛ゆえに悲しむ。愛ゆえに生まれる苦しみや哀しみを耐え難く思ったのが、アタタミュではカットされているキャラ・聖帝サウザー。
私がサウザー推しというのもあるのかもしれませんが、誰よりも深い愛を知るがゆえに愛を断ち切ってしまった彼のキャラがすごく刺さっています。
ミュージカル版でケンシロウが村人やレイの死に際して深く哀しみ苦悩し己の無力さを嘆いたのは、ケンシロウが彼らに愛を抱いたがゆえ。愛ゆえに苦しむんです。しかしそれでも、愛ゆえに生まれる苦しみや悲しみまでもを引き受けることで、救世主としてのケンシロウが覚醒する。壮大にして心を深く抉るような感情のうねりを、言葉を使うことなくダンスだけで表現する。これはミュージカルにしか出来なかったことだと思います。
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そういえば私、アタタミュを観た後にノイエ銀英伝を観に行ったんですよ。銀英伝の劇中でヤンが正式に軍人になりたいと言うユリアンに対し、暴力について語るシーンがあって。そこでヤンが言っていたのが、暴力には2種類あること。解放するための手段としての暴力と、抑圧するための暴力。(ちょっと原作が手元になく、詳細を確認できていないので正確ではないかもしれません……!)
アタタミュ、というか「北斗の拳」においては、ケンシロウはまさに解放の手段としての暴力。ラオウは抑圧のための暴力。しかしその根底をしっかりと愛と哀しみで固めるところに作品としての深みがあるのだと思います。
そして解放のための暴力と抑圧のための暴力の分かれ道にあるのは、誰かの愛と哀しみを
背負う−−−−自分以外の他人の人生もひっくるめて背負えるかなのではないだろうかと。アタタミュの1幕ラストは、ケンシロウが背負う人生の数が、ケンシロウの背後に現れる群衆で明確に可視化されるシーン。対してラオウに部下はいるけれど、彼らの人生を背負っているわけではない。
2人のこの違いに先にあるものが無想転生。原作ではケンシロウが出会った「強敵(とも)」の人生を背負うこの奥義は、ミュージカルではアンサンブルという力を得て、「悲しみの魂」という、その時代に生き散っていったすべての人生を背負う奥義として、舞台上に生まれ直しました。そしてこの、「誰かの人生を背負う」ことが、アタタミュが描き出すヒーローらしさなのではないだろうかと思います。
また最後にラオウが無想転生を得たのは、ユリアへの愛を自覚したと言うのもあるかと思いますが、やっぱりユリアの人生を背負ったというのが大きいのかなと。しかしその一方で、ユリアを殺すことは、ラオウにはできなかった。だからユリアの人生をユリアに返して、ラオウは自分の人生を全うしていく。ラオウとユリアも、ケンシロウとユリアの関係性とはまた違った良さがあって好きだなあと思います。
ケンシロウはラオウの人生を背負い、ユリアと共に舞台上から姿を消し、残された人々に新しい世界が引き継がれることで終わる物語。すごく綺麗なラストで、照明の力もあって、再演でも最後は号泣しました。
世界の命運を賭けた物語が、2人の人間の物語に集約され、そして最後はケンシロウがラオウを倒すことで世界には平和がもたらされる。一方がもう一方を倒すことで平和な世界になるというのは、ある種の理想論なのかもしれません。現実ではそんなことはきっとないのだろうし、そういう意味でこのラストは、ある意味「夢」で終わっているのかもしれません。しかし「フィスト・オブ・ノーススター」というミュージカルは、「私の命を奪っても果てない物語はいつか愛が奪われない夢を選ぶ(最後の真実)」と歌い上げます。そこにあるのは平和への普遍的な祈りであり、今まさに、「愛が奪われない夢」を選ぶために行動する人間の覚悟があります。
ゴールデンウィーク中の日比谷のイベントで、石丸先生が、アタタミュについて「今この時代に上演する意味」に言及されていたのがすごく印象的で。
原作で「19XX年」とされた時代設定は、舞台化にあたって「20XX年」に変更されました。初演では「いつか起こり得る物語」だったものが、いつしか「今、起こり得る物語」に変わってしまう恐ろしさを肌で感じるような時代。「地獄の炎」というナンバーで、核戦争後の世界で生きる人々の苦しみを表現する群舞は、史実にあった戦争を描く「ミス・サイゴン」を思い出すほどに生々しい質感を帯び、改めて、虚構の中で戦争を語り続ける意味を深く感じた再演となりました。
初演よりも生々しく映ったアタタミュの再演で初演以上に切れ味が増したと感じたのが、「北斗の拳」ならでは、という歌詞の中にも散りばめられた普遍的な言葉の数々。「暴力バンザイ」ではバットが「誰がこんな時代にした?責任取れよ」と歌い、ジュウザは「ヴィーナスの森」で「今同じ大地で殺し合う人類の愚かさ嗤おうぜ」と歌います。
このような歌詞を普遍的で今の時代にも通ずる言葉だと感じるのは、現代も20XX年も、争いという共通項があるから。だからこそ、ラストナンバー「永訣の時」の「数え切れない命の哀しみを語り継げ 新しい時代のため」という歌詞は祈りのようでいて、しかし祈りで終わらせてはいけないとも思いました。
※歌詞はすべて初演プログラムより引用
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初演から再演へ。ブラッシュアップを経てさらにパワーアップしたアタタミュ。福岡での大千穐楽まで、無事に駆け抜けてくれることを願っています。