ミュージカル「フィスト・オブ・ノーススター 北斗の拳」観劇感想①

 こんにちは、雪乃です。ミュージカル「フィスト・オブ・ノーススター 北斗の拳」観劇しました。

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 ってことで、今日はとりあえずファーストインプレッションだけでも語っておこうかなと思います。

 ちなみに今回買ったグッズはこちら。迷いましたがハンドタオルとクリアファイルを選びました。

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 あと、今回のプログラムはこちらです。

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星空に浮かぶ北斗七星。中身も全体的に星空モチーフですごく好きです。

 観劇前に予習としてアニメは109話まで見たのですが、原作は未履修ですし、まだまだ「北斗の拳」という作品を理解しきれていないところもあるかと思います。そんな人間が書いている感想文なので、「北斗の拳」そのものに対する解像度が結構粗めなのはご容赦ください。

 まず、一言。めっちゃくちゃ良かったです。行って良かった。舞台としてまとめるにあたって、確かに改変された部分や削られてしまった部分もありました。しかしそれを差し引いてもなお、一本の舞台作品として楽しむことができました。

 そして同時に思ったのが、これは「北斗の拳」の舞台化というより「北斗の拳」を原作とした「フィスト・オブ・ノーススター」という芝居だったな、ということ。演劇の特質、そしてミュージカルだからこそなし得る表現を駆使した、「フィスト・オブ・ノーススター」という芝居を観た、という印象が強いです。原作との距離感は、私的には割とレミゼあたりが近いかな〜と思いました。
 タイトルを「フィスト・オブ・ノーススター」としている理由もここにあるのかな、と思います。漫画やアニメの表現の再現に留まらない、舞台としての「北斗の拳」を国産のオリジナルミュージカルとして、新作として立ち上がらせた作品、それが「フィスト・オブ・ノーススター」でした。(ちなみに観劇直後にこの部分を書いたのですが、本日12月11日の公式スペースを聞く限り、この解釈は割と間違ってなかったようです。)

 しかし漫画やアニメで築かれてきた「北斗の拳」の歴史とはちゃんと地続き。「北斗百裂拳」や「ひでぶ」で拍手が起きたのを見てそう感じました。ジードの隊長もちゃんとモヒカンでしたし。

 今回はキャストもめちゃくちゃ豪華だったのですが、一人一人に圧倒的な説得力がありました。舞台の上にいた人間はキャラクターてはなく、世紀末で生きる人間でした。

 拳士たちのカッコ良さはもちろんのこと、印象に残ったのが群衆。群衆なくして「フィスト・オブ・ノーススター」なし、と言えるほど。彼らは決して力を持たない、虐げられるだけの弱者ではありませんでした。明日を信じ、救世主を待ち望み、しかし自分のために戦う。特に、リンの強さに心を動かされ群衆が拳王軍に立ち向かっていく「最後の真実」のシーンは、人間の本質的な強さを物語っており、ひたすらに涙が止まりませんでした。

 演出面で記憶に残ったのが照明。青系統の光が多い中で、ラオウのシーンで使われる赤い照明がすごく映えていました。あの真っ赤な光は、まさしく世紀末覇者ラオウがまとう闘気そのもの。熱すら感じさせるあの光が今も目に焼き付いています。

 照明といえば、トキが死の灰を浴びるシーン。客席まで飲み込んでしまうような白い光はその色に反してとても重く、どんな人間でも抗えないと肌で実感させる演出。アニメでも泣いたシーンですが、舞台でもしっかり泣きました。

 ときに人間の魂の輝きを写しとり、ときに人間を圧倒する。光の表現が多彩で、なおかつ映像を使った演出との親和性も高かったです。光そのものに芝居をさせるのが舞台における照明の役割なんだと思いました。

 個人的にはやはり幕開きの星空が好きですね。劇場全体を「フィスト・オブ・ノーススター」の世界に染め上げ、同時に登場人物たちが背負う宿命をまるで星空の視点から見ているようでした。

 次はキャスト別感想を。

 まずケンシロウ!大貫さん、存じ上げてはいましたが舞台で拝見するのは初めてです。圧倒的な身体能力から繰り出される、スピード感あふれるアクションはケンシロウそのもの。「心の叫び」でジードの隊長と戦う際に少し誘うような仕草をするところも好きです。アクションと振り付けの狭間を縫うような、体の奥から湧き上がる動きの一つ一つに目を奪われました。そして殺陣をやりながら歌っても声の軸が一切ブレなくてすごかったです。
 そしてケンシロウがひときわ輝いていたのが、やはり一幕ラスト。言葉にならない感情を、言葉に出すことのできない感情を、言葉よりも深く描くダンスが圧巻でした。全身の使い方の美しさの中に、痛みや悲しみを滲ませるからこそ、「世紀末救世主」としてのケンシロウが奥行きを持った存在として見えました。その上で、歌や演技、すべてを使い尽くして哀しみを背負うケンシロウを生き抜く姿の中には、確かに人間らしさと英雄らしさが同居し、矛盾しあうことも反発しあうこともない。このお役がこの方でよかった、と心の底から思いました。

 そしてユリア。今回はMay’nさんでした。制作発表で「氷と炎」を聞いて歌唱力に圧倒されまして。実際に生で聞いたら、それはもう凄かったです。
 「死兆星の下で」のシーン、月明かりをまとったような、眩くも儚げに輝くユリア。その姿にただ目を奪われました。舞台上には他の人もいるのに、ただユリアだけを見てしまう。しかしそんなユリアだからこそ、罪なき人々が虐げれることを拒んで、シンの居城から身を投げるシーンに説得力が生まれていました。「死兆星の下で」のシーンの歌声は劇場全体を抱きしめるようで素晴らしかったです。
 二幕でユリアが歌う「氷と炎」。ケンシロウとラオウ、二人の最後の戦いの直前に歌われるビッグナンバーです。制作発表時から大好きな曲で、歌詞を耳コピで歌っていました。ちなみに今日のメイク中のBGMはこの曲です。
 そんな曲を舞台で、やっと聞くことができました。日劇の天井まで貫くような圧倒的声量、そして繊細な表現。ユリアは誰かを愛し、誰かを想い、そして生きていく一人の人間だということがはっきりとわかるナンバーでした。あのユリアの放つ輝きはもう圧倒的に「恒星」。誰かの周りで、誰かの光を受けて輝くのではない女性。自分の中に燃やすものを持ち、自分の力で燃えることのできる女性。May’nユリアからはそんな印象を受けました。

 ラオウ。今日のラオウは福井ラオウです。私の中では「美女と野獣」のビーストであり「レ・ミゼラブル」のバルジャンだったのですが、立ち姿からして世紀末覇者でした。低音を響かせるセリフや歌の力強さもさることながら、孤独や弱さを確かに感じさせる繊細さもあって、ラオウもまたあの時代に息づく人間だと実感させてくれました。四季の頃から拝見していますが、変わらず圧倒的な歌唱力と美声が素敵すぎる。小学生のときに拝見したディズニーの王子様が世紀末覇者になるとは思っていませんでしたが、ラオウも好きなお役の一つになりました。

 トキ。今回のトキは小野田トキです。拝見するのは三回目の方。一回目は四季の「ウエストサイド物語」のトニー役で、そして二回目は「レ・ミゼラブル」のアンジョルラス役。繊細で柔らかなお芝居が記憶に残っていて、そして何より歌唱力のある方、という印象でした。
 記憶に最も強く残っているのが、ラオウとの対決。ここで名曲「兄弟の誓い」のリプライズをトキが歌うんですよ。最期の一瞬の、あの輝きがもう泣けて泣けて。トキは誰かのために動く印象も強いですが、あのシーンは確かに「ラオウの弟」でした。そして物語終盤、ケンシロウと戦うラオウに語りかけるところもすごく良くて。ラオウとの関係性がまさしく私がこの目で見て、確かめたかった姿そのものでした。
 

 レイ。今日のレイは上原レイ。レイは舞台版で登場している人物の中では最もエピソードが削られたと思うのですが、それでも佇まいや、そして心の在り方を表に出す一瞬が確かにレイでした。マミヤとの関係性もぎゅっと凝縮されてはいたのですが、人を思う心の強さはしっかりと描かれていて。セリフや歌、動きに至るまでに、レイだからこその人としての「筋の通し方」が垣間見えて、やはりまっすぐなお役の似合う方だなあと思いました。歌唱力も圧巻でしたが、個人的にはあの声で「てめえらの血はなに色だーっ!」が聞けて感無量。もうこのレイをメインで原作準拠のストーリーをレイとの出会いから死まで舞台化してくれませんか?てかレイの外伝をこのレイで見たいです。

 シン。今回のシンは植原シンです。
 まず私、アニメで見た段階で最初にハマったキャラがシンなんです。シンの苛烈さと、その中に確かに存在する愛。ユリアを愛し、与え得るすべてを与えようとするその姿に泣き崩れ、私の中で「北斗の拳」という物語がカチッとハマった瞬間を覚えています。
 そんな状況の中で拝見した、舞台版のシン。シンだった。てかシンすぎる。すごい。ケンシロウの胸に七つの傷を刻むシーンの時点でもう完全に「シンだ……!」となりました。
 七つの傷をケンシロウに刻むところは叫ぶ芝居が際立つシーンですが、決して大袈裟にはなることなく、ユリアへの想いの強さゆえにこの行動に走っている、ということがわかる説得力がありました。
 そしてシンは、原作と舞台で最も設定が変わっているキャラクターではないでしょうか。制作発表の動画で判明した設定なのでここで書いてしまうのですが、舞台のシンはラオウに忠誠を誓っています。これ、実際に観るまで実は結構不安だったんですよ。しかし舞台のシンは舞台のシンとして綺麗にまとまっていました。シンのパーソナリティーや殉星としての宿命、そして彼が大事にしているものはきちんと尊重されていたと、個人的には思っています。詳しいことは、この後のネタバレ部分で書きたいです。
 植原シン、ビジュアルもシンでした。あの長い金髪やマントが似合うことこの上ない。マントさばきも華麗でしたが、拳法の使い手としての強さや、一本の芯が通った体の使い方を感じさせるところが最高でした。「拳王の進軍」のシーンなどで見せるダンスもキレがあって美しくカッコよく、ひたすらにオペラ泥棒でした。
 一挙一動が洗練されていたからこそ、終盤、むき出しの魂と肉体で宿命に生きる姿がすごく良かったです。殉星らしさがありました。
 そういえば、私は松竹版「るろうに剣心」で拝見していた役者さんなんですよね。相楽左之助と同じ人とは思えなくて、「役者ってすご……」となりました。

 ジュウザ。今回のジュウザは伊礼ジュウザでした。まず、登場した瞬間の作画がもうすでにジュウザでしょ。刹那的に、享楽的に暮らすジュウザの生き様を歌ったソロナンバー「ヴィーナスの森」はシリアスな曲が多い中では結構異質なんですが、それが自由を愛する「雲のジュウザ」のパーソナリティを際立たせていて良かったです。観客席に笑いを起こすシーンもあり、芝居的な「抜き」を担ってくれる一面もあって、見ていてすごく安心するジュウザでしたね。「ヴィーナスの森」のシーンがどこまでものびやかだったからこそ、南斗最後の将のために命をかける姿が響きました。

 マミヤ。マミヤはシングルキャストなので松原さんお一人で演じていらっしゃいます。声の出し方が完全に「戦士」でした。東京藝大ご出身ということもあり、歌唱力は圧倒的。レイとの関係性は前述したようにかなり凝縮されていましたが甘すぎず柔らかすぎず、しかし魅せるところは魅せたうえで「戦友」の趣きがあるところがすごくかっこよかったです。やっぱり牙一族のエピソード舞台でやりませんか????このマミヤでめちゃくちゃ見たいよ??

 バット。バットもシングルキャストなので渡邊さんお一人で演じていらっしゃいます。
 バットが本当にバットでした。個人的に「フィスト・オブ・ノーススター」のMVPはバットです。
 「暴力バンザイ」のシーンで、舞台を一人で埋めるバットの存在感が本当にすごくて。舞台の中央でスポットライトを浴びるその姿に説得力があり、とにかくこの方で主演が見たい、と強く思わせるエネルギーがありました。
 そしてその一方で、バットはバット。現代にも通ずる等身大の少年でありつつも、世紀末という過酷な世界を生きる一人の人間。だからこそ、強く成長していく姿は純粋に応援したくなります。伸びやかな歌声も印象的でした。渡邊バットで年齢的にも成長したバットが見たいので、かなり真剣に続編をやってほしさがあります。

 リン。リンはダブルキャストで、今回のリンは近藤リンでした。この作品が初舞台ということですが、それを感じさせない舞台姿でした。ちゃんと世紀末世界で「子ども」として存在している一方で、大人をも動かし、敵に立ち向かう力を呼び起こす存在感はまさしく唯一無二で、リンらしかったです。誰かの背中を押すというより、自分がまず動き出すことで周りの内なる強さを引き出していく姿は、嘘のない芝居だからこそリアルな人間の姿として浮かび上がります。可憐さはありつつもエネルギーの源のようなリンでした。このリンで成長したリンが見たいので、ご本人がキャリアを重ねられた何年後かに続編をぜひ。マジで。頼むから。
 物語のラストでケンシロウに抱きつく姿も可愛かったです。

 トウとトヨ。全く違う二つのお役ですが、舞台では白羽ゆりさんがお一人で演じていらっしゃいます。
 トヨは声の出し方から立ち振る舞いまで完全におばあさんそのものだったので、トウと同じ方が演じていることが信じられません。トヨのバットを思う姿も、トウの凛とした声や立ち姿も素敵でした。透明感のあるトウだからこそ、ラオウの心に自分を残すために自ら命を絶つシーンの壮絶さがより色濃く見えました。

 リュウケン。リュウケンは川口さんのシングルキャストですね。まず幕開きを担うのがリュウケンの歌声なのですが、厚みのある低音ボイスで一気に「フィスト・オブ・ノーススター」の世界へといざなわれました。ジャベールでも拝見したことがありますが本当に好きな声です。死後はラオウの夢に登場する形などを通して舞台上に現れますが、そのときのリュウケンは現実と非現実の間にいる存在。ラオウから見たリュウケンと、観客から見たリュウケンが重なって見えました。

 少しですが他のキャストについても書きます。ミスミ役の安福さんは、種籾を守ろうとしている世紀末的な強さの中にも「こんな人、いる!」と思わせるリアリティを含ませているところが印象に残りました。青年ラオウの一色さんと青年トキの百名さんは、少年っぽさはありつつも、ちゃんと「何年後かに、この二人があんな風に成長するんだ」と思えました。二人の成長を限られた時間で見せる姿が印象的。修行時代ゆえの、二人の「未完成さ」もまた良かったです。

 キャスト別感想はこんな感じです。

 そしてぜひ書いておきたいのが、やはりミュージカルナンバー。私が「フィスト・オブ・ノーススター」のチケットを取った理由、それは作曲がフランク・ワイルドホーンだからです。

 もともとワイルドホーン音楽が大好きでした。ワイルドホーンの新曲が聞けるから。そんな理由でチケットを取りました。

 やはりどのナンバーもめちゃくちゃ良かったです。壮大でありながらも、一人一人の心情に寄り添う音楽でした。時に人間の恐ろしさを浮かび上がらせ、そして時に人間の愛すべき部分に光を当てる。人間を真に描く力を持ったワイルドホーン音楽だからこそ、より一層「フィスト・オブ・ノーススター」は輝いていたと思います。

 「フィスト・オブ・ノーススター」のナンバーを通しで、生オケで、そして芝居の流れの中で聞いて思ったこと。それは、どのナンバーも、人間の心の中から自然に生まれたような趣があったな、ということです。まるで、その場でリアルタイムでメロディがあふれたようなリアルタイム性。それが計算されつくした緻密で、音の輪郭がはっきりと聞き取れるオーケストラと共に物語の中で生きるんですから、感動しないわけがないんですよ。人間の根源的な感情に迫るナンバーがどれも素晴らしかったです。早急にCDを出してほしい。

 個人的にワイルドホーン音楽は聴く文学だと思っているのですが、今回はシーンからシーンへの転換点で流れるメロディがまさしく「地の文」的で。物語全体をつかさどり空気感を作るメロディが、歌になったときには言葉とひとつなぎになっていました。一方キャラクターごとに楽曲の個性がはっきりしているのは漫画原作ならではだな、と思います。

 ミュージカルって、芝居から歌に移行するじゃないですか。リアルからは離れる行為をしている演劇なんですよね。しかし、その音楽によってむしろ人間の心の在り方をより刻銘に描き、解像度を上げ、リアリティを持たせられるのもミュージカルの持つ力。「フィスト・オブ・ノーススター」では、ミュージカルだからこそできることをより強く認識できました。

 アニメで見たものを舞台で観て、改めて「生きた人間が、生身の肉体で演じる」ことについて考えました。

 「北斗の拳」には体格がすさまじいキャラクターが多く登場します。フドウやフウガ、ライガなどなど。舞台版にはいないキャラクターだと、デビルリバースとかすごいですよね。デビルリバースの身長、今検索してるんですけどえげつない数字がバンバン出てきてます。

 フドウなどの物理的なスケール感は、やはり漫画やアニメだからこそできる表現です。大きな生き物を大きいまま舞台に持ってこられる演劇ももちろん存在しますが、やはり人間のキャラクターとなるとなかなか難しい。演劇に持ってこられないものは、どんなに技術が発達しても、それが演劇である以上必ず存在します。演劇が生身の人間が作り上げる、リアルタイムの芸術である限り。

 フドウやライガ・フウガに限らず、特に男性キャラクターの体型はやはり舞台だと完全再現というわけにもいかないでしょう。しかし「フィスト・オブ・ノーススター」はあくまで「フィスト・オブ・ノーススター」。確かに原作として「北斗の拳」を持っており、もちろんリスペクトも存在しますが、一本の演劇として見たときに、私はキャラクターの体型はあまり気になりませんでした。それは、「フィスト・オブ・ノーススター」が「人間」の物語だから。

 生きた人間が生身の身体を使うことで、より物語が「現実」に近づいたような気がしました。年代は「20XX年」とぼかされてはいますが、戦争ですべてが崩壊した時代は、舞台で観ると「いつか起こり得てしまう」と思わせられました。物語が生身の肉体を持つからこそ、拳士たちの哀しくもヒロイックな物語が、じっとりとまとわりつくような「地続き」感やリアリティを帯びる。だからこそ、力がすべてを支配する人間の原始的な姿は恐ろしくも「自分の中にこんな衝動があるかもしれない」と思わせる。物語を享受する側と物語を地続きにすることこそ、生身の人間が演じる意義であると思います。


 ◇


 さて、ここからは舞台版のネタバレパートに入ります。主に舞台版の改変ポイントや舞台版の独自設定に触れていこうと思うので、ネタバレを踏みたくないよ、と言う方は回れ右をお願いします。


 


 まず、レイ。レイのエピソード、めちゃくちゃ削られてましたね。妹の存在に対する言及はあったものの、妹が殺されていることが台詞で明確に言語化されていました。尺が足りなくなるから泣く泣く削ったことはよくわかるのですが、せめて舞台のレイにもアイリと再会してほしかった。あまりにもつらすぎる。

 そして、アニメをある程度見た段階で改めてミュージカルのホームページを見返して気になっていたことがありました。それは、ジャギがいないこと。相関図を見る限り、北斗四兄弟が、最初から北斗三兄弟になっていました。
 まさか自分でもジャギがいないことに、こんなにも寂しさを感じるとは思っていませんでした。でもやっぱり、舞台を振り返れば振り返るほどにジャギがいて欲しかったと思ってしまう。

 そして舞台版で登場しないキャラクターといえばユダ。ユダはマミヤを連れ去り、消えない傷を刻み込んだ張本人。しかしその一方で、レイとの戦いを経てその命を全うしていく姿がアニメを見ていて印象に残っていました。

(舞台でいないといえばアミバもサウザーもシュウもなんですよね……。個人的にサウザー好きだからもはやサウザーの話も舞台で、と思ってしまう……)

 で、ジャギとユダがいないとどうなるか。ジャギはアイリを攫った人物だし、ユダは前述のようにマミヤに傷を残しました。そんな二人がいないとなると、どう辻褄を合わせるのか。

 そのソリューションが、舞台版オリジナルキャラクターのダグルでした。

 公演のホームページを見返して、「ダグルって誰?」となっていたんですよ。しかし実際に見たらわかりました。マミヤの消えない傷を刻み、アイリ(舞台版ではアイリの名前は出ていませんでした)を殺した張本人。まさかの、二人の所業を一人にまとめていました。実際に舞台で観て最も衝撃を受けたのがここです。こういう改変が来るとは思っていなかったので。

 そしてレイの台詞「てめえらの血はなに色だーっ!」も、ラオウとのシーンではなくカサンドラで言う台詞に変更されていました。アニメしか見ていない私が言っていいのかわかりませんが、ここは正直変えて欲しくなかった……!傷つきながらも真っ先にアイリを案じたリンの強さに心を動かされてこそ出る台詞だと思うので。

 そしてレイは、アイリを攫った「七つの傷の男」を探し続けていましたが、舞台版ではいきなりケンシロウこそダグル本人だと思っていました。それに対しマミヤが「その人じゃない!」と叫び、やがてレイが変わってく……的な流れ。マミヤ自身がダグルに傷つけられたから、というので辻褄は合ってはいました。
 アニメで見ていたときに、ケンシロウが自ら七つの傷があることを明かしたうえでレイがケンシロウはアイリを攫うような男ではないと否定してくれるシーンで「この物語は信頼できるな」と思ったので、ここも結構変えて欲しくなかったな……。でもな……尺がな……。

 一方、シンは改変含めて、舞台版シンとして綺麗にまとまっていたと感じました。シンはラオウに忠誠を誓っているという舞台オリジナルの設定があったのですが、筋は通っていたと個人的には感じます。

 舞台版シンは、ラオウが本当にこの世界を統べるにふさわしい「大木」かどうか見極めるためにラオウ側についていた、という設定がありました。ここらへん、たぶんリュウガのポジションをシンが務めている感じでしょうね。しかしその行動の根底にも、シンのユリアに対する愛がきちんと存在していたからこそ無理なく受け入れることができました。

 シンといえば、ユリアを守るためにあえて自らユリア殺しの汚名を被ったキャラクター。ここはちゃんと守られていて安心しました。ここ改変されてたらどうしようかと思ってた。

 争いのない世界を望むユリアのためにラオウが世界を統べるにふさわしいか見定め、そしてラオウが不適格だと確信したら、今度はラオウに戦いを挑む。ケンシロウに対しては、ユリアとの愛を競うにふさわしい存在だと確信したうえで戦いを挑む。改変点はシンが最も多かったと思うのですが、シンの行動を選ぶレギュレーションは変わっていなかったように思います。ケンシロウとの関係性も、「同じ女を愛した」関係性であり、「強敵(とも)」としても立体的に描かれていてすごく良かったです。ケンシロウとの最後の戦いは本当に泣きました。舞台版のシンも好き。

 めちゃくちゃ長くなってしまったので、ちょっと今日はここで一旦切ります。また後日書くかもしれません。本日もお付き合いいただきありがとうございました。



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