豚の角煮にこめられた愛
豚バラのブロック肉が安く手に入ると、夫は喜ぶ。大抵はその日のうちに、いそいそと調理を始める。
豚肉はほどよい大きさに切って、まわりに片栗粉をつけてこんがり焼く。それを大根と一緒に圧力鍋に放り込み、小一時間ほどじっくり煮こむ。その間に味付け玉子も仕込む。
食卓に並ぶ豚の角煮は、表面がつるっとしていて中身はジューシー。繊維が口に残る感じがなく、口の中でほろりと崩れる。
「今日のはイマイチやな」
「今日のは良い出来」
自分で客観的な評価を下すことも忘れない。
もとは義母が息子たちのためにつくっていた料理だ。夫も義兄もお肉が好物だが、義母は食べられない。それでもお肉屋さんで塊のお肉を仕入れては、ステーキやビーフシチューをよく作ったと聞く。今でも帰省した際には、たびたび食卓に並ぶ。角煮はそんなお肉料理のひとつだ。
自分はひと口も食べないのに、息子たちのためにつくる。義母の献身的な愛を垣間見る。
夫のつくるひと皿に、その愛を真っ直ぐに受けて育った事実を垣間見る。
翻って、それをいただく私の方は、それほど角煮に愛着がない。実家ではブロックのお肉を見ることなどなかったし、角煮のような濃い味付けの料理もほとんど出なかった。
彼のつくる角煮はおいしいと思う。かけた手数と時間がそのまま、ほろりと崩れる食感やうまみになっている。だからといって、食卓からしばらく姿を消しても恋しくならない。それが私と角煮の距離感。
引っ越して最寄りのスーパーが変わると、豚バラのブロック肉を手に入れづらくなった。お肉売り場を眺めながら「出てないなぁ」と彼はしばしば言う。そうだね、と相づちを打ちながらも私はそれほど気にしていない。
角煮にそれほど愛着がないことを、あえて伝えたことはなかった。その必要がなかったのはもちろんだが、自分の好き嫌いを伝える勇気がなかった。
食べ物もそれ以外も。彼の好きなものを「私はそれほど」と伝えられずにずっといた。感覚の違いがもとで、嫌われてしまうことを恐れたから。
彼がそんな小さなことで態度を変えるような人でないと十分知っているのに。
ある日、彼が真正面から聞いてきた。
「角煮、恋しくならないの?」
「うん、それほどかな」
そうなの?とひとしきり驚いていたけれど、笑いあってただそれだけ。
その後、久々に食卓に並んだ角煮は前より美味しくなった気がした。
豚の角煮に義母がこめた愛は、彼の中で薫り高く熟成した。そして、私に美味しいものを食べさせたいと思ってくれる原動力になった。ありがたいことに。
だから私は素直に言う。
「おいしいね」
豚の角煮に愛着はない。
でも、この角煮は本当に美味しい。
最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。