先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -城下町づくり-)13 #062
明治時代、岡山県津山に生きた先祖の痕跡を辿るため、津山の歴史を調べ始めて13回目。前回は、江戸時代の津山(森藩と津山城について)調べました。
今回は、津山城と並行して建設された「城下町」、二代藩主 森長継が1657年につくった「衆楽園」について書いていこうと思います。
1.津山の城下町づくり
治水工事
城下街建設で、森氏はまず、治水に力を注ぎ、河川ごとの水源、距離、流域状況を調べました。吉井川は洪水が多かったため、堤防を築き、藺田川(いだがわ)を付け替え吉井川に流しました。
武家屋敷など整備(先祖に関係あり)
次に、①武家屋敷、②町家、③寺社を整備しました。以下で説明します。
①藩士の住む武家屋敷(緑色の部分)
藩士(武士)は守りをかためるため、城の周りに住みました。堀の内側の「内山下」、西の「椿高下」「田町」など。
↑↓オレンジ色で塗った箇所「椿高下」は、明治40年頃、先祖が暮らしていた所です。武家屋敷の一部だったのですね。
②商工業者の住む町家(ピンク色の部分)
城下には、多くの商人や職人が集められました。「魚町」「桶屋町」など。「美濃町」は森忠政が美濃(岐阜県)から職人の町です。
↑↓オレンジ色で塗った箇所「二階町」は、私の先祖が働いていたと推測している、「津山電気株式会社」があった場所です。明治40年頃。
現在、立っている看板をご覧ください。
③寺社(緑の丸)
城下町は、敵から城を守るためにつくられた守りの町でもありました。城下の道は、敵の攻撃を防ぐため、たくさんのカギ形の曲がり角や、小路をつくり、町の東西に寺社をつくりました。
このように、津山の城下町はつくられていきました。
2.衆楽園
衆楽園は、1657(明暦3)年、津山藩二代藩主 森長継が京都から庭師を招き、仙洞御所を模して造営しました。
南北に長い池に4つの島を配した池湖回遊式の大名庭園です。
1698(元禄11)年から幕末までは、他藩、他家からの使者を謁見するための「対面御所」として使われました。
迎賓館↓↓
「絲櫻 水にも地にも 枝を垂れ」この句は、山口誓子が昭和54年の春、衆楽園に吟行して詠んだものです。
衆楽園は平成14年9月、国の名勝に指定。岡山市の後楽園に次いで県下で二例目。
藤小雪庵の衆楽園ミニ写真集
春は桜、ツツジが咲き、冬は銀色のベールを被ったような美しさがあるそうです。
衆楽園から南方面を見ると、約1.5km程先に津山城跡が見えます。
3.津山銘菓を紹介します②
今回は、衆楽園をテーマにしたお菓子です。お菓子の説明を読んで、私は感動しました!
旬菓匠 くらや衆楽雅藻
「衆楽園の園内には池に注ぎ込むようにいくつかの清流が流れています。
当時はその清流の淵で歌を詠んで、その歌を舟で下流へと流し、その歌を手にした人がまた歌を詠んでという、歌を詠みつなぎ遊び、曲水の宴というものが行われておりました。
この様子を木版画にして今に伝えるのが衆楽雅藻です」
衆楽園でこのような宴が行われていたことに驚き、包み紙を広げてみると…さらに感動。
この事を知った私は、清流を見過ごしていたことに気付き、再び、衆楽園へ。
↑当時に想いを馳せてみようと…清流近くに座ってみました。
お菓子から学ぶ歴史の深さ、おもしろいですね。
衆楽雅藻を半分に切ってみました。お茶と合いそう。
4.次回のお話とおまけ
次回は、森長継の時代、出雲街道のお話です。徳川家康が参勤交代のために整備した街道の、脇街道にあたる、出雲街道。
私の著書『出雲街道 土居宿物語』の朗読YouTubeも作成しました(今週中にアップします)ので、ご覧いただけたら嬉しいです。
おまけ…衆楽園近くの津山商業高校の横をふと見ると…「M-1グランプリ2022」優勝、ウエストランドのお2人の幕が!
読んでくださりありがとうございます。次回もよろしくお願いします。
【参考文献】『城下町 津山」日高一著 山陽新聞社 1993
『シリーズ 藩物語 津山藩』 岩下哲典著 現代書館 2017
『わたしたちの津山の歴史』津山市教育委員会 平成13年