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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -森藩から松平藩へ-)15 #064

みなさん、こんにちは。暑い日が続いていますが、お元気でお過ごしですか?前回の記事から、1ヶ月以上も経過してしまいました。

この「先祖踏査記録」では、先祖が生きた地、岡山県津山市の歴史を調べています。

少し時間が空いてしまったので、これまでを簡単に振り返ってみたいと思います。

1.これまでの「踏査記録」

先祖である、吉田多喜雄が津山で生きた時代は明治大正ですが、私は古代までさかのぼり、少しずつ調べを進めてきました。

↓初回の記事です。


そして、現在は、江戸時代について。


津山城をつくった初代藩主 森忠政について、3回シリーズで記事にしてきました。

先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -津山藩の誕生-)12 #061

先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -城下町づくり-)13 #062

先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 -出雲街道- 絵本朗読動画あります)14 #063

今回は、江戸時代の4回目。森藩の時代が終わり、次期領主になった松平藩のお話をしたいと思います。

今回はここです!


2.森藩から松平藩へ

森氏が四代で除かれた後、十万石が津山藩の領地になり、他は幕府領(天領)になりました。

1698(元禄11)年、松平氏が津山藩十万石の領主に任命されました。
津山藩領になったのは、以下の地域です。

現在の市町村名、境で表しています。



初代藩主 松平宣富(のぶとみ)は、徳川家家康の二男、秀康の子孫で将軍家の親戚(親藩)でした。

津山民謡に「津山城下町 お城の松に ピンとはねたる 威勢をみせてよ」とあるのは、親藩大名だったことを誇っていると言われています。


松平藩は明治時代まで、174年間続きました。


津山市の市章にも使われている松平家の槍印「剣大」。

津山城下にある津山観光センター


3.松平藩の政治

松平宣富は、年貢率を六公四民(収穫高の4割を年貢として領主に納め、6割を農民の所得とする)に引き上げ、村の諸費用を差し引くことを禁じ増税をはかりました。

これに対し、庄屋や農民たちが団結し、百姓一揆を起こしました。大きな一揆を2つ紹介します。

【高野.高倉百姓一揆】
1698(元禄11)年11月、農民たちの間に年貢の減免を求めて訴訟を起こす動きが起こり、天狗状(一揆の呼びかけ状)が村々に回りました。これを見た農民たちは、津山城下の馬場に大勢集まりました。

農民たちは、大庄屋から藩への嘆願を強要しようとするも、大庄屋は逃げ出して不在。農民たちは戸を打ち壊すなどしました。

そんな中、※高倉の大庄屋堀内三郎右衛門、弟の四郎右衛門、※高野の庄屋松岡作右衛門らが、嘆願闘争の中心となりました。

高倉はこの辺り(黄色◯)です。
高野はこの辺り(黄色◯)です。


この動きに、藩の役人は嘆願書を提出させ、聞き届ける約束をしました。しかし、農民たちが解散した後、堀内らを捕まえ、城下の河原で処刑しました。

高野本郷万福寺、下高倉には、堀内三郎右衛門らをたたえる碑が建てられています。

※以下7枚の写真は『わたしたちの津山の歴史』より

高野本国万福寺には、お墓も。


【山中一揆】
1727(享保12)年、この頃、津山藩の財政は大変苦しくなっていました。農村では、干ばつ、洪水、大雪、地震が続き、農作物に被害が出ていた時でしたが、藩主(三代松平長煕)が病気になったため、いつもより40日早く年貢を納めさせました。

農民が米作りに追われていた時、藩の手先の商人が手続きの済まない年貢米を不正に運び出そうとしました。これを知った農民たちは、現在の真庭市の徳右衛門や弥治郎らを指導者にして、4000人を集め、「年貢を引き下げること、大庄屋など役人を辞めさせ農民の選んだ代表をおくこと」などの要求を藩の役人叩きつけました。

しかし、津山藩は武力で押さえつけ、51人を処刑。徳右衛門、弥治郎は牛の背に乗せられ、津山城下を引き回され、院庄の河原で磔(はりつけ)の極刑にされました。

この首なし地蔵は、「この残酷な刑を見守っていながら、少しも救いの手をさしのべなかったお地蔵さんに対し、怒った農民たちが八つ当たりし首を欠きとった」という伝説があります。


この騒ぎの中で、津山藩は十万石から五万石に減らされ、苦しい時代が約100年続きました。


4.困窮する人々の生活と津山藩

財政が苦しくなった津山藩は、武士の給料を引き下げ、農民の年貢を増やすなど、何度も藩政の改革を行いました。城下に暮らす人々も、年貢はないかわり、「町役」という負担金が集められました。

↓津山藩が農民に出した御触書。津山藩が年に一回、村中の農民に読み聞かせたそうです。

(御触書の内容)


江戸時代には、長雨、日照り、台風などによる米の不作で、たびたび大きな飢饉が起こりました。

1836年から翌年にかけての「天保の飢饉」は津山領内でも多数の死者が出ました。

「間引き」も行われ、藩では厳しく取り締まりましたが、効果は少なかったそうです。


「間引き禁止令」の一部をを現代語にすると、

「人は万物の霊なので慈悲と義理を心とし、この上もない尊いものなのに、この国では昔から悪い風俗があって、子どもを間引くことがある。そのもとをたずねると、子どもを多く育てると、のちには飢えて困り、衣服などもなくてかわいそうと……。天保の六年未三月」と書かれています。

津山藩は、城下町を守るため、新しく店を出したり、許可なく商人や職人になることを厳しく制限しました。

例えば、海産物は「新魚町」の商人だけが販売でき、

職人になるため、親方のもとで修行した後、お礼奉公しなかった桶職人が訴えられる事件も起きたほどでした。


現在の津山には、江戸時代に生きた人々の暮らしを感じられるものがたくさん残っています。

その中でも、石碑や地蔵が地元の方々に大切に守られていること、城下町の地名がそのまま残っていることは、とても興味深いと思います。


5.津山のお菓子紹介します③

今回、ご紹介するのは、美作百味菓匠館 大文字 十萬石

津山藩の石高にちなみ『十萬石』と名付けられたそうです。

北海道小豆を使用し、餡を柔らかな求肥で包み、餅米・水飴の薄種生地ではさんでいるお菓子です。

3枚入り 570円(税込)
私の職場でもよく頂くお菓子です。
半分に切ってみました。


6.次回のお話

次回は、津山藩が力を入れた「教育」のお話です。

五代藩主 松平康哉(やすちか)によって、武士の子どもの教育をする「学問所」、農民や町人の子どもが勉強する「寺子屋」がつくられました。

また、幕府が鎖国政策を続ける中で、8代将軍徳川吉宗が、キリスト教以外の洋書の輸入を許可したことから、洋学(蘭学)の気運が広まりました。津山関係者でも多くの洋学者たちがいます。例えば、コーヒーに「珈琲」のいう漢字をあてたのは、津山藩医であり洋学者の宇田川榕菴です。

素敵なお土産も紹介します♫


これらについて、調べていこうと思います。

次回はこの部分です!


読んでくださり、ありがとうございます。次回もよろしくお願いします。

【参考文献】
『わたしたちの津山の歴史』平成13年 津山市教育委員会
『郷土 津山』中学校社会科 平成22年 津山市役所
『津山市史 第三巻 近世Ⅰ森藩時代』昭和48年 津山市役所
『津山市史 第四巻 近世Ⅱ 松平藩時代』平成7年 津山市役所

津山市ホームページ
津山情緒保存会「津山民謡」

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