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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代  宇田川榕菴- ④シーボルトと宇田川榕菴の交流) 28 #077


みなさん、こんにちは。
昼間の太陽は少し優しくなった気がしますが、
朝の部屋は0℃。春はもう少し先かな…。

さて、本題に入りたいと思います。

岡山県津山の江戸時代の歴史、津山藩医で蘭学者の宇田川榕菴について調べています。

榕菴は、洋書を翻訳し、医学、植物学、化学などの本を刊行。日本に新しい学問の風を吹かせていた頃、ドイツ人医師のシーボルトに出会います。この出会いが、榕菴のさらなる飛躍につながるのでした。

今回は榕菴とシーボルトの交流について記事にしたいと思います。


1.シーボルトについて

シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、1796年、ドイツ生まれ。1815年、ヴュルツブルク大学医学部に進み、医学のほか自然科学や地理学、民俗学も修めました。1822年、オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐となり、インドネシアに赴任。翌年、長崎出島オランダ商館の医師を任命され来日しました。



この時、シーボルトは、オランダと日本の貿易を振興させるための“日本の総合研究”を命じられていました。

そのため、積極的に日本人と交流をはかり、1824(文政7)年、長崎郊外に鳴滝塾を開き、診療のかたわら、集まった門人たちに医学や博物学を講義しました。 

『シーボルトと岡山の洋学者たち』より



現在、長崎県にある、シーボルト記念館には、シーボルトが使用したと伝わる品々が所蔵されています。

『よみがえる長崎出島のくらし』より


↓ナイフとフォークも。

『よみがえる長崎出島のくらし』より


2.シーボルトの江戸参府

1826年2月15日、シーボルトは江戸参府へ出発。約2ヶ月後の4月10日、シーボルト一行は江戸へ着きました。

シーボルト江戸幕府日程


江戸に着くと、シーボルトは多くの洋学者と直接面談し、進行を深めました。

『画本東都遊』(長崎屋)
『シーボルトと岡山の洋学者たち』より



東京都中央区にはシーボルト像と長崎屋跡あるそうです!

 

この知らせは、江戸で待っていた榕菴にも届きました。

3.シーボルトと榕菴の交流

1826年4月13日、シーボルトと榕菴は江戸で会うことができました。シーボルトが30歳、榕菴は28歳でした。

榕菴の自叙年譜には

「樸尓多(シーボルト)は南和蘭の人、幼にして父母を喪い、独乙(ドイツ)国に遊学す、博覧多通、音律を解し、多識の学に長ず。従遊して益を得ること多し」と記されています。

シーボルトの日記には

榕菴のことを「日本人の友人や医師が多数来訪。多くの押し葉を、主として桂川甫賢と宇田川榕菴の、卓越した教養を持つ両人より受け取る」と記されています。

2人が互いに贈ったもの(一部紹介)


【榕菴→シーボルト】
⭐︎1823年から描いていた『植物図』
⭐︎1825年に書かれた『植物写生』

(保存先)→サンクトペテルブルクのロシアアカデミー・コマロフ植物学研究所。

「ヤマハハコ」には「フォン ウダガワヨーアン」とサインが書かれています。

『岡山蘭学の群像1』より


「キヌタソウ」には「レヒトヨウアン」と書かれています。

『岡山蘭学の群像1』より

⭐︎『本草推写』『本草写真』『生殖全書』『海魚写真』『画本虫撰』

(保存先)→ライデン大学

これらにも、「日本の医師、宇田川榕菴が江戸市で自然に従って描いた」「卓越した榕菴が提供してくれた」などのサインが入っているそうです。



【シーボルト→榕菴】
⭐︎顕微鏡。
(保存先)→早稲田大学図書館

⭐︎『自然博物学の楽しみ』
「貴方の誠実なる友人シーボルト博士より、江戸の医師にして自然博物学者の宇田川榕菴への記念品として1826年5月12日」とサインが。

⭐︎『植物学入門』には「わが好友、宇田川榕菴への記念品として1826」のサインが入っており、

そのほかにも書物の中に「江戸の医師にして博物学者の宇田川榕菴に、あなたの親友として記念に贈る」と献呈の言葉が書き込まれています。



※榕菴がシーボルトへ宛てた手紙は残っていないのですが、それは1828年のシーボルト事件の際、長崎奉行所が没収し焼却処分した可能性が高いそうです。

4.シーボルト江戸から長崎へ帰る

シーボルトの江戸滞在は37日間。シーボルトは「1年くらい滞在し、東北や北海道に調査研究を行いたい」と考えていましたが、漢方医の大反対を受け頓挫しました。

蘭方医たちは「シーボルトの江戸滞在延長願い」を出しましたが、将軍徳川家斉は却下。

5月18日には帰路につきました。


5.長崎からの手紙のやりとり


1826年7月7日に出島に帰り着いたシーボルトは、翌年1月15日に榕菴へ手紙を書いています。

※手紙は長文なので中身を割愛しています。


しかし、榕菴からの返事はすぐにはなかったようです。待ちかねたシーボルトは2月13日にも同じ主旨の手紙を書いています。


これを受け、3月15日榕菴はシーボルトへ出しました。原文はオランダ語、植物名は日本字、アラビア数字の通し番号がついています。



それから11ヶ月後、1828年2月10日、榕菴はシーボルトからの手紙を受け取っています。


この手紙の内容に、榕菴はとても喜び、1834年に刊行した『植学啓原』の中で『ツクバネ(都苦抜涅)に「カレーロプレリス ヨウアン」と記しています。


その後、何度か手紙や贈り物のやり取りをしてるようですが、記録は残っていません。


6.次回のこと

読んでくださりありがとうございます。

次回は…

シーボルトと榕菴が手紙のやり取りをしていた同じ年、1828年11月、シーボルト事件が起こります。

シーボルト自身は出島に1年間軟禁、翌年に国外追放、再渡航禁止処分になりました。

次回は、このシーボルト事件について調べていこうと思います。

地元、津山の歴史が、日本の歴史と大きく絡んでいることを意識すると「おぉすごい!」と高揚感に包まれるのですが、「当時の津山の人々は榕菴の業績を知っていたのかな」「榕菴は津山の人たちとどんな関わりをもっていたんだろう」と思います。

次回もよろしくお願いします。


【参考文献】
『シーボルトと宇田川榕菴』高橋輝和 平凡社 2002年
『学問の家宇田川家の人たち』中貞夫 津山洋学資料館 平成13年
『岡山蘭学の群像1』山陽放送学術文化財団
2016年4月
『津山洋学』津山洋学資料館 昭和55年
『蛮書和解御用と津山藩の洋学者』津山洋学資料館 平成23年
『資料が語る津山の洋楽』津山洋学資料館 平成22年
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
「長崎市公式観光サイト」
「シーボルト江戸参府紀行日程」
「東京都中央区の歴史」


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