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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 蘭学者 宇田川玄真-)21 #070
みなさん、こんにちは。
最近、100円ショップの立体パズルにハマって抜け出せません。
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みなさんも良かったらぜひ(^^)
さて、本題です。
3回前の記事で、津山の蘭学者 宇田川玄随について書きました。
今回は玄随の養子、宇田川玄真についてです。まず、玄随について振り返りながら話を進めて行こうと思います。
1.宇田川玄真は玄随の養子
宇田川玄随は漢方医(代々江戸詰の津山藩医)でしたが、蘭学に目覚め、1793(寛政5)年、39歳で日本初の西洋内科医学書※『西説内科撰要』を3巻ずつ6回に分けて刊行しました。
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『素晴らしき津山洋学の足跡』より
しかし、1797年、43歳で亡くなってしまいます。その時、宇田川家には跡継ぎがいませんでした。心配した門人(師の門に入った人)たちが、跡継ぎに玄真を推薦したのです。
玄真が、宇田川家の養子になったのは、玄随が亡くなった2ヶ月後、29歳の時でした。
玄真は、玄随が書いた『西説内科撰要』の刊行を続けました。
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宇田川玄真 (伊勢の安岡)
名…璘
号…榛齋(しんさい)
以前、玄真は杉田玄白の養子だった!
宇田川玄真を調べていると、再度、杉田玄白にぶつかりました。何と、玄信は、宇田川玄随の養子になる以前に、杉田玄白の養子だったのです!
ある理由で離縁されてしまうのですが。その理由は後述します。
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2.『解体新書』再び
宇田川玄真と杉田玄白の出会いを明らかにするために、『解体新書』刊行後のお話から始めようと思います。
杉田玄白はもともと梅毒の治療で活躍していたこともあり、江戸一番の名医でした。『解体新書』に批判的だった漢方医たちも、進んで西洋医学の研究を進めるようになりました。
そんな中、玄白は医学・蘭学塾の「天真楼」を開き、後進の育成を始めました。弟子たちは100人以上になったそうです。
宇田川玄真も「天真楼」で学んだひとりでした。
3.宇田川玄真について
生い立ち
玄真は伊勢の安岡家の出身。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。そこで宇田川玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意しました。
杉田玄白の養子に迎えられるが…
玄真は、その才能を認められ、杉田玄白から「蘭学之棟梁」という賞賛を受けています。そして、杉田玄白の養子として迎えられます。
玄白の屋敷に移り住んだ玄真は、蘭書が何十冊もある恵まれた環境で勉学に励みました。
しかし、安定した生活を得ると心に緩みが生まれたのでしょうか、次第に※放蕩を重ねるようになってしまいます。たびたび注意されても改まらず、とうとう玄白は離縁を決意したのでした。
※放蕩…酒色にふけって品行がおさまらないこと。酒や女におぼれること。
離縁された後…
杉田家を追われた玄真は、たちまち生活に困ってしまいます。門人たちはそんな玄真を心配し、援助をしたり、蘭書の翻訳の仕事をさせたりして助けました。
当時、日本で初めてのオランダ語辞典を作ろうとしており、語学力に優れた玄真に作業を手伝わせたのです。玄真の助力を得て、1796(寛政8)年、初の蘭日辞典『ハルマ和解』は完成します。
玄真はますます研究に励み、多くの業績を上げました。1805(文化2)年、医学書『医範提綱』を刊行。
その後、玄真は過去の行いを謝るために、再び杉田家の門を叩きました。
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玄白は、心を入れ替えて励む姿と、何より積み重ねてきた実績を認め、玄真を許しかつて父子だったころのように交流し始めたのでした。
『医範提綱』は『解体新書』刊行から約30年後の出版です。
玄真の業績
宇田川玄真の業績で最も知られているのは、西洋の解剖学、生理学、病理学を解説した『医範提綱』です。
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文体も図版もわかりやすく、生理学から病理学に至るまで簡明に説明され、医学書としてベストセラーになりました。
この訳書で、今日の医学用語に定着したものが数多くあります。例えば、
『解体新書』で「厚腸」「薄腸」と訳されていましたが、『医範提綱』で「大腸」「小腸」と言い変えられました。
その後、1808(文化5)年、付図として日本で最初の銅版解剖図が『内象銅版図』(1808年)を刊行しました。
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『目で見る津山の洋学』より
↓玄真自筆。漢字を音韻別に分類したもの。
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『目で見る津山の洋学』より
玄真は、西洋の薬学を詳細に研究し、西洋で使われる薬品の製法.効能.用法などを体系的に明らかにした『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』を刊行しました。
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『素晴らしき津山洋学の足跡』より
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『素晴らしき津山洋学の足跡』より
さらに玄真は、幕府の※天門方に※蕃書和解御用として出仕し、フランス人ショメールの『家庭用百科事典』の翻訳に尽力しました。
※天文方…江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関。
※蛮書和解御用…1811年に江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。天文方内に置かれた。
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玄真の立場は津山藩医なので、天門方での勤務は1ヶ月に8日程度。玄真は20年近くかけてこの事業に携わりました。
この訳稿は江戸時代には刊行されませんでしたが、江戸時代最大の翻訳事業とされています。
宇田川玄随の養子になる
時代は少し戻ります。(話が少し重複しています)
1797(寛政9)年、宇田川玄随が43歳の若さで亡くなります。
『ハルマ和解』(1796)の編さんでの功績や抜きん出た才能が認められ、宇田川家の跡継ぎに玄真が推挙されたのです。
1798(寛政10)年2月、ようやく藩の許しを得た玄真は宇田川家を相続しました。
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津山洋学資料館の石像
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(宇田川家を継いだ後、1805年『医範提綱』、1808年『内象銅版図』、1821年〜『和蘭薬鏡』、1822年〜『遠西医方名物考』を刊行しました)。
玄真が功績をあげたことで、これ以降、津山藩の蘭学者が次々と幕府へ出役し、百科事典や外交文書の翻訳を行うとことになりました。
4.次回のこととおまけ
読んでくださりありがとうございます。
次回は、宇田川玄真の続き、「杉田玄白の『蘭学事始』で、玄白が語った玄真について」です。
玄真が杉田家の養子になり、離縁され、その後…の経緯が赤裸々に綴られています。
杉田玄白の玄真に対する愛情と憎しみ、蘭学者仲間の友情などなど。
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よろしくお願いします。
【おまけ】
津山市立図書館の帰り、久しぶりにミスタードーナツへ寄ってみました。私はハニーチュロが好きです♬
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といつも思います。
読んでくださりありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。
【参考文献】
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『岡山の歴史』柴田一監修 1990年7月 山陽新聞社
『宇田川三代の偉業』津山洋学資料館 平成元年11月
『岡山蘭学の群像3』山陽放送学術文化財団 2018年7月
『目で見る津山の洋学』津山洋学資料館 昭和53年3月
NHK for school
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